妻の努め、王妃の務め (2)
自分に敵意を向けるようになってしまったエリザヴェータに、メイベルはどう対応すべきか悩んでいた。
あれからも、エリザヴェータはメイベルに張り合うような様子を見せ、まるでルスランの愛妾になったかのような態度を振る舞っている……が、たぶん、二人の間には何もない……はず。
確証があるわけではないが、これだけあからさまにやるのであれば、いっそルスランがメイベルに頭を下げに来て、彼女を愛妾にすると公言すると思うのだ。
すごく嫌だし、きっとそんなことになったら短剣を振り回して一晩中泣きじゃくるだろうけど。そういう点ではルスランは残酷で容赦がないから、最後はメイベルが受け入れると思って強行してくる。
こんなどっちつかずな状態のままにはしないだろう。
エリザヴェータのほうも、ルスランに愛情はあることは間違いないが、彼女がルスランに向ける感情の色は、もっと穏やかで慈愛に満ちたもので……。こんな、男女のドロドロをやりたがるようには見えなかった。
……と、メイベルは考えているものの、実際にはエリザヴェータの態度がどんどん露骨になっているわけで。
どう対応すべきか、ここ数日、頭を悩ませ続けていた。
そんなメイベルのもとに、幼い息子を連れ、ラリサが訪ねてきた。
「お休みをありがとうございます、王妃様。陛下からイグナートに会いたいので城に連れてきてほしいとのお言葉を頂き、ご厚意に甘えて参上いたしました」
ラリサは律儀にも、ルスランに会いに行く前にメイベルに会いに来てくれたらしい。ラリサとアンドレイの間に生まれた長男イグナートを連れて。
くりくりとしたお目々が可愛らしいイグナートは、父親似のようだ。きょろきょろと周囲を見回す赤ん坊に、若い女官たちがはしゃいでいる。
人見知りすることのない赤ん坊を、メイベルも抱っこさせてもらった。
「可愛い。生まれてきたら、私たちの子とも仲良くしてあげてね、イグナート」
「陛下と王妃様の御子を守る強い戦士に必ず育てあげると、夫はいまから大張り切りですわ」
ラリサが笑いながら言った。
女官たちはラリサが連れてきた赤ん坊に夢中になり、彼女たちの意識がメイベルやラリサから離れているのを密かに確認して、ラリサがそっとメイベルに話しかけてくる。
「……エリザヴェータ様が、御子息のハンス様を連れ、城を訪ねてきていると夫から聞きました。彼女たちはまだ……?」
「ルスランがハンスを気に入ってることもあって、まだしばらく滞在するみたい。ハンスは良い子だし、もしこのまま王都で暮らすことになったとしても、賛成してあげたいとは思うのだけれど……」
エリザヴェータは最初の夫ジェミヤンと死別後、ヴァローナ暮らしの外国人貴族と再婚したらしい。その夫とも、すでに死別している。
二度の結婚と死別によって、彼女は、生活に困らないだけの遺産を相続しているそうだ。だからいまの彼女は、どこでどう暮らすか完全に自由なわけで……。
「ラリサは、エリザヴェータ様と親しかった?」
「親しいと言えるほどかどうかは……。エリザヴェータ様も王城でお過ごしになられた時期が何度かございまして、その時に、私が彼女の身の回りのお世話をさせていただきました」
そう、とメイベルは頷き、ちょっと考えて、ラリサと共にルスランのもとへ向かうことにした。
若い女官たちにたっぷり構われた赤ん坊は、母の腕に戻ってくるとウトウトとし始めていた。
果たしてメイベルの予想通り、ルスランの執務室に向かう途中でメイベルはエリザヴェータと出くわす――メイベルがどこで何をしているか、最近のエリザヴェータはものすごく意識して動いているようだったので、今回も出くわすのではないかなと思っていた。
「ラリサ……?まあ、貴女なのね。すっかり大きくなって……」
エリザヴェータも、いまはメイベルより、懐かしい人の再会に喜ぶ。お久しぶりでございます、とラリサも笑顔で頭を下げた。
「アンドレイ将軍と結婚して、いまは一時的に城を離れていると聞いてはいたけれど……その子が……?」
ラリサが抱く赤ん坊を見て、エリザヴェータが尋ねる。息子イグナートです、とラリサが紹介し、すやすや眠る我が子を見せた。エリザヴェータも、赤ん坊に優しいまなざしを向ける。
「可愛らしいわね。ハンスが赤ん坊だった頃を思い出すわ」
「ハンス様もいらっしゃっているのですよね。ジェミヤン殿下に似て、お優しく利発な子にお育ちになられていると夫が話しておりました」
「ええ。あの子は本当に……ジェミヤン様の良いところだけを受け継いだような子で、すっかりお城の人たちから愛されているわ。ルスランも可愛がってくれて……」
そこまで言って、エリザヴェータがちらりと、傍らにいるメイベルを見た。
……ラリサとの再会を喜んでいたエリザヴェータの感情の色が、みるみる嫌な感じの色に染まっていく……。
「……ラリサは、王妃様付きの女官なのよね」
「はい。いまはお休みを頂いておりますが、間もなく城に戻り……また王妃様にお仕えさせていただく所存です」
「ラリサ。私の女官に戻ってくれないかしら」
女官としての完璧な笑顔をたたえたままのラリサだが、強く困惑していることは感情の色から伝わった。
「身分の低い私は、城で暮らしていた頃も女官たちから無視されて……当時は一番下っ端だったあなたに、みんな押し付けていたわね。でもあなたは嫌な顔ひとつせず、誠心誠意私に仕えてくれて……。ジェミヤン様、ルスラン様以外でこの城で私に親切にしてくれたのはあたなだけだったわ。だから」
ラリサの困惑にエリザヴェータは気付いているかどうかは定かではないが、構わず言葉を続ける。
「あなたが間違いなく信頼できる人間だと分かっているから……。お願いよ、ラリサ」
「それは――光栄なお言葉ではございますが、私の一存ではお返事できません」
ラリサも、はっきり返事をするしかないと腹を括ったらしい。エリザヴェータに頭を下げる。
「王妃様にお仕えすることは、私が陛下より与えられました使命でございまして。いまの私は、王妃様以外の御方のお言葉に従うことはできません」
エリザヴェータの感情の色がさらに暗くなり、一瞬、それが表情にも出た。頭を下げるラリサはきっと見ていなかっただろうが。
「……では。どうか、王妃様」
エリザヴェータはすぐにいつもの穏やかな様子に戻り、メイベルと向き合う。
「ラリサを、どうか私にお譲りください。私にとって、息子ハンスのことを信頼して任せることができるのは、彼女だけなのです。我が子を憂う母の想いを……子を持つ同じ女として、どうかお慈悲をくださいますよう……」
ハンスのためにも、信頼できるラリサが欲しい。それはきっと、本心でもあったと思う。
エリザヴェータがラリサに向ける信頼は本物だ。メイベルの女官だから欲しがっているわけではない。
……でも、今回ばかりはメイベルも譲るわけにはいかない。
ラリサは女官長で、この城で最上位にある女に付くという象徴性も持っている。
それをエリザヴェータに譲ってしまえば、王妃よりもエリザヴェータのほうが立場が上だと示すことになってしまう。エリザヴェータとて、それをまったく考えていないわけではないはず。
メイベルは心の内でため息を吐いた。
「お断りいたします。ラリサはすでに私の子の乳母となることも決まっておりますので」
内心の憂鬱を表に出すことなく、メイベルは愛想笑いを努めた。
「エリザヴェータ様には、私が責任をもって、信頼できる者を選びます。城で暮らすことが決まり次第……」
エリザヴェータの感情の色が完全に敵意に染まり、ついにそれがはっきりと表情に出た。ラリサも、今度はそれを目撃した。
いいえ、と。感情の抜け落ちた冷たい声でエリザヴェータが答える。
「ラリサ以外の者など不要……そういうことならば、私に世話人は必要ございません。分不相応な申し出でございました……大変、失礼致しました」
儀礼的に謝罪し、エリザヴェータはさっと身をひるがえしてその場を立ち去った。
背を向けて足早に立ち去るエリザヴェータを見送った後、ラリサは戸惑うようにメイベルを見、話しかける。
「エリザヴェータ様のあのような無礼で、節度に欠いた態度を……私、初めて見ました。彼女とは、短い間の付き合いでしかありませんが……」
昔からエリザヴェータを知っている人ほど、いまの彼女の振る舞いに困惑するらしい。昔を知らない女官は、身の程知らずな女だとぷんすか腹を立てているが。
「夫から聞いてはおりました。いまのエリザヴェータ様は……私たちが知っているお姿と、何かが異なっていると……。かつてこの城で暮らしていた頃、エリザヴェータ様は慎ましく振る舞い、あのような分不相応な願いを口にすることはありませんでした」
身分違いの女に入れ込んで、ジェミヤン王子は堕落した――口さがない者たちはそのようにジェミヤンを批判した。エリザヴェータは冷たい視線に晒され、城で孤立していた。
ジェミヤンが病死した後はいっそう嫌われ者となって、時には、彼女が原因だというような中傷まで。
それでも、夫にそれ以上の悪評が立たぬように努めて、じっと耐えるような女性だったのに。
「……ラリサ。休暇中なのに働かせてしまって申し訳ないのだけれど」
ため息まじりに、メイベルが言った。
「あとで、エリザヴェータ様にあなた一人で会ってほしい。さり気なく出くわす感じで……彼女の真意を探ってほしい」
メイベルの言葉に、ラリサが軽く目を見開いている。
「ラリサも気付いたと思うけど、エリザヴェータ様は私に強い敵意を向けてる。でも……その理由がよく分からないの。私のものをやたら横取りしたがっているようだけど、それで私に成り代われると、彼女も本気でそう思っているわけではないことは私にも分かる。どこかで止めてあげないと」
でも、彼女がメイベルに心を開くことは絶対ない。エリザヴェータの心を動かすことができるのは、いまやルスラン一人。
昔からの交流があって、信頼を寄せられているラリサだったら、もう少しだけ心を開いてくれるだろうか……。
ラリサも、自分がそこまでエリザヴェータにとって重要な位置にいるか、自信はなさそうだ。
でも。
「王妃様のご命令ならば」
頭を下げ、ラリサは迷うことなく与えられた役目を引き受ける。
放置すべきではないと、ラリサも強く感じていた。




