妻の努め、王妃の務め (1)
日は昇ったがまだカーテンの閉ざされた部屋で、メイベルは女官たちに手伝われながら静かに着替えをしていた。ベッドで眠る男を起こさないように。
しかし、メイベルよりもずっと人の気配に敏感な彼は、結局目を覚ましてしまった。
「おはよう、ルスラン」
ルスランが目を覚ましたので、女官たちも閉じていたカーテンを開けていく。差し込む日の光にルスランは眩しそうに目を細め、すぐに起き上がることなく自分に振り返ってそっと顔を覗き込むメイベルを見上げていた。
「……メイベル。昨夜は――」
ルスランの言葉を遮るように、メイベルは彼に口付ける。唇が離れると、ルスランは驚いた様子で目を瞬かせていた。
「少しお寝坊しちゃったから、早く着替えないと。執務室で、ガブリイル様が怒りと書類を積み上げてルスランの到着を待ってるんじゃないかな」
からかうようにメイベルが言い、ルスランがふっと笑う。ルスランは起き上がり、メイベルは、先に王の支度を、と女官たちに命じて夫の着替えを優先させた。
先に身支度を済ませたルスランは、振り返ってメイベルにキスをしてから、部屋を出て行った。
ルスランを見送り、メイベルも改めて着替える。
……きっとルスランは、昨夜の自分をちょっと恥じているのだろう。感傷的な姿を晒しすぎたと。
それでメイベルの反応をうかがったというか……また謝罪したかったのかもしれない。
メイベルは、みっともない姿を見せてしまったとルスランに申し訳なく思ってほしくなくて、彼に何も言わせなかった。
ルスランが吐き出さずにいられなかった気持ちも、大切にしていてほしいから。
今日は前から入っていた予定で、ヴァローナ有数の大商人たちが王城へとやって来ることになっていた。
自慢の品々を持参して、王や王妃に張り切って売り込みに来る日。
城の者たちにとっても、王や王妃の供として同席し、めったにお目にかかることのできぬ品を見て楽しむ日でもある。
きゃっきゃっとはしゃぐ若い女官たちを連れて商人たちが集まる大広間へ向かっていると、途中でエリザヴェータ、ハンス母子と出会った。
ハンスは、メイベルを見て少し緊張しながらも元気よく挨拶する。
「おはようございます、王妃様。叔父上……陛下から許可を頂いたので、僕たちも商人が持ってきた品を見せてもらうことにしたんです」
ハンスは素直な良い子のようで、感情の色もメイベルにとって好ましいものしか見えない。ルスランが可愛がる気持ちもよく分かった。
一方、母親のエリザヴェータのほうは……昨日、ルスランは何をしてしまったのかと思わず疑ってしまうほどに、メイベルに向ける感情の色に大きな変化があった。
今日も昨日と変わらぬ穏やかな笑顔をたたえているが、その背後に見える色は、明確な敵意の色。
昨日見えたものも複雑に感情が入り混じった色であったが、いまは完全に敵意一色――最後に顔を合わせた時には、こんな色になっていなかった。
つまり、メイベルと別れた後で何かが起きて、彼女の感情が変わった……ルスランが原因じゃないかな、とメイベルが考えてしまうのも、当然だと思う。
見えた感情に反応してしまうことのない自分の癖に感謝しつつ、メイベルは昨日と変わらぬ態度で母子に接し、共に大広間へ向かった。
エリザヴェータも、感情の色は変わっていたものの、メイベルに向ける態度は昨日と変わりないように見えた。この時は。
エリザヴェータが行動に出すようになったのは、大広間に着いてからだった。
大広間に並べられた美しい品々を、ハンスは目を輝かせて見て回り、エリザヴェータは少し離れたところで微笑ましく息子を見守っていた。メイベルも、楽しそうにしているハンスや若い女官たちの姿を眺めて楽しんでいたのだが、後からルスランがやって来て、彼と合流することになった。
「楽しんでいるか――うむ。今回も見事な品ばかりだ」
大広間を見回し、ルスランが上機嫌で言った。
「せっかくだ。私も王妃に何か買い与えることにしようかな」
ルスラン王の供をして大広間に入って来た宰相ガブリイルが王の背後でルスランのことを軽く睨んだが、ルスランは素知らぬ顔だ――あれは、気付いていてわざとやっている。将軍アンドレイがくっくっと笑っていた。
「うん……そうだな……これは素晴らしいエメラルドだ。王妃の瞳によく合いそうな色をしている」
ざっと商品を見て眺め、吸い込まれそうなほど美しい緑色の宝石が特徴的な首飾りの前でルスランが立ち止まる。
商品の持ち主でもある商人が、飛びきりの笑顔ですっ飛んできた。
「でしたらこれは、献上させて頂きます。私が持ち込みました品が王妃様の御身を飾るのであれば、これに勝る喜びはございません」
いいのか、とルスランは嬉しそうに言い、商人が頷く。
商人は恭しく丁寧に、首飾りをルスラン王に差し出した。ルスランは首飾りを手に、メイベルを見る。
メイベルが首に付けてもらおうとルスランに近づくよりも先に、エリザヴェータがルスランに近づき、するりと彼の腕に自分の手を絡めた。
「ルスラン陛下。私もその首飾りが欲しいわ。なんて美しいのかしら……」
ルスランが、露骨に動揺する。感情の色が見えるメイベルでなくてもはっきり分かるほどに、ルスランは困っている。
まるで親密な仲を見せつけるかのように自分の腕にすり寄るエリザヴェータを見下ろして、硬直していた。
「……商人よ。この首飾りは……もう一つないのか?」
困惑し、悩んだ末に、ルスランは若干声を裏返しながら商人に向かってそう言った。
ぱちくりと目を瞬かせて王とエリザヴェータを見やっていた商人は、思いもかけずに話の矛先が自分に向かったことで、焦り始めた。
「は――はい、申し訳ございません。それは、一点限りの特別な品でして……」
まずい、と商人も雲行きの怪しさを察して狼狽している。
王は王妃のためにこの首飾りを選んだ。それを……横やりしてきた女にねだられて。
こうもはっきりねだられては王も断りにくいし、かと言って、王妃にと贈られた品を王妃の目の前で他の女に贈るわけにもいかない。
折衷案として同じものをエリザヴェータに与えることと思いついてみたのだが、この首飾りは一つしかない。
心なしか冷や汗をかき始めたルスランに、メイベルが声をかけた。心の内で、密かにため息を吐きながら。
「ルスラン。その首飾りは、エリザヴェータ様に差し上げて。私は後日、別のものを買ってもらうことにします。その時は、お腹の子と揃いのものを授けてくださいね」
メイベルが微笑んで言えば、王も商人も……このやり取りを見ていた周囲も、ホッと胸を撫で下ろす。
ルスランも、わざとらしく明るく答えた。
「そうか――そうだな。せっかく君に贈るのなら、子と母を繋ぐ特別な証を探し求めるべきだな。これは、エリザヴェータに与えることにしよう」
「私も気が利きませんで。この次は、王妃様と御子のためのものを揃えて献上させていただきます」
商人が言えば、期待しているぞ、とルスランが笑う。先ほどの空気を吹き飛ばすように、周囲の者たちも笑った。
エリザヴェータもにっこりと微笑み、メイベルを見る。
「ありがとうございます、王妃様。ではこれは、私が有り難く頂戴致します」
「ええ、どうぞ。私も快く、エリザヴェータ様に譲って差し上げます」
メイベルのこの言葉に、美しい笑顔の向こう側で、エリザヴェータの色がさらに嫌な感じに深く渦巻くのが見えた。
我ながら嫌な言い方だとは思ったが、メイベルにも王妃としての矜持があり、ルスラン王の面子を守る義務がある。
王妃が厚意で譲ってあげたのだと、はっきり示さなくてはならなかった。
メイベルの意図を、傍らで見ていた宰相ガブリイルや将軍アンドレイはしっかり理解していた。
ルスラン王が与えようとしたものを、王妃を差し置いて王妃の前で他の女に与える。そんな振る舞いをすれば王は評判を大きく落としてしまうし、エリザヴェータへの贔屓を公言したことになってしまう。
とは言え、大勢の前で女にねだられてそれを断るのも、男としての面子を潰してしまう。
そんな下らない面子など潰してしまえ――と見捨てることもできたのに、メイベルはちゃんと夫の面子を立ててくれた。
王の評判を傷つけることなく王の妻が最上位であることを示して、穏便に場を収めてくれた。
ルスランはもちろん、エリザヴェータはメイベルの配慮に深く感謝すべきなのだが……。
「エリザヴェータ様は……あのような女性だったか?」
ガブリイルが、隣に立つアンドレイに小声で尋ねる。アンドレイは眉間に皺を寄せて、小さく首を振る。
「私の記憶にある限りでは、あんな出しゃばりをするような女性ではなかった……はずだ……。ジェミヤン殿下相手にですら、あんな下品なねだり方をしている姿を見たことがない」
身分の低い彼女と結ばれたことで、当時のジェミヤン王子はかなり評判を落としている。それをエリザヴェータ自身も気にして、それ以上、夫の評価を貶めてしまわないように自省して振る舞う賢明な女性だった。アンドレイが知っている限りでは。
他人が受け取ろうとしたものを横取りするような愚かしい真似……しかも、ルスランは自身の夫ではなく、エリザヴェータは彼にねだる道理もないというのに。
宰相ガブリイルは、エリザヴェータと私的な場で接したことはなかった。ルスランを介して彼女のことを知っているという程度。
アンドレイのほうはルスランと悪友同士でもあったので、ガブリイルよりは彼女のことをよく知っているだろうが……その彼も、エリザヴェータの行動に驚いている。
「……私の役目は、陛下に王としての生き方を説くこと。それが原因で陛下に疎まれ、憎まれることになろうとも……陛下のためにならぬことは許容できない」
そしてガブリイルは、エリザヴェータがルスラン王のためにならない女だと強く認識した。
ルスランのために嫌な役割を引き受けてくれる王妃メイベルこそがヴァローナ王に相応しい女性であって……そんな王妃に敵意を示したとあっては、なおのことエリザヴェータへの嫌悪感が募るだけである。
――いまのエリザヴェータは、間違いなく、故意にメイベルのものを横取りしようとしていた。
「おまえの忠誠心は、ある種、私以上さ。それはルスラン様も認めていらっしゃる」
アンドレイは笑顔で言った。
「陛下がおまえに本気で嫌気が差すなんてこと、あるはずがない。ただ……おまえも敵が多いからな。気を付けろよ」
ともすれば真っ向からルスラン王と対立しているようにも見えるガブリイルは、付け入る要素も多い。
それでもルスラン王のために忠誠を尽くす友のことを、アンドレイも心配していた。




