外伝03話:城下町のご詭弁麗しきお方(前編) -Hamra qax Kahr Tarhkk-
外伝03話:城下町のご詭弁麗しきお方(前編) -Hamra qax Kahr Tarhkk-
* * *
「ねえ見て、ほんとに素敵よ!」
エル=イスカ連合王国の王都にして、世界最大の商業都市、カルタゴ。
この町がその名にたがわぬことは、否応なく耳に飛び込む人々の声が物語っている。道は活気に溢れ、人のいないところを探すほうが難しいくらいである。
アレーナは跳ぶような軽やかな足取りで、左右に所狭しと並ぶ露店を眺めまわした。
にぎやかだ。
露店の近くでは、道を行き交う人々に叫ぶ呼び子の声や、客の値段交渉の声が聞こえる。王都の言葉だけでなく、地方の方言や、明らかにイスカ語でない声まで混じっているようだ。
見渡せば、周囲は彩りにあふれている。八百屋のカラフルな種や果実、魚屋の前の新鮮な海のにおい、呉服屋の華やかな反物、ガラス細工店に並ぶ輝かしいガラス工芸品の数々。ほかにも、服、ランプ、本、絨毯、骨董品、工具、色とりどりな香辛料に、それからサボテンジュース。
馴染みのあるものから初めて見るものまで、あらゆるものが市場にずらりと陳列している。むしろ、ないものを探すほうが難しそうだ。
近くの屋台で肉でも焼いているのか、こんがりと焼かれたうまみのあるタレのにおいが、アレーナの鼻孔をくすぐってくる。
右へ左へ。
絶え間なく駆け回る足は忙しい。
「これが王都! これが憧れの町! これが世界最大の都なのねっ!」
アレーナははるか遠くの地平線を眺め、大きな瞳をうるませながら、ほっと感嘆の息をついた。
道の左右の家々の壁は、すべて白い漆喰が塗られている。だが扉や窓の縁は、全て鮮やかな水色。その強迫的に洗練された統一感のある美しさが、晴れわたる青い空、そしてギラギラと光る太陽の下でよく栄えている。
さらに遠くには、これまた呆れるほどに真っ白な宮殿が屹立している。
その形は幾何学模様の図案をそのまま立体化したように洗練されていて、絵本の挿絵のなかの世界に迷いこんだのだと言われたとしても違和感がない。
空の青と白のコントラストが映えるこの町は、やはり何度見ても美しい。
とりわけこの国は、国土の大半が不毛な砂漠なので、これほどの美しい街並みはめったに見られないのだ。
「青い空に白亜の王宮! 素敵だわ! あたし、一度でいいから、あんな場所で暮らしてみたい!」
ぴょんぴょんとひとりで跳び回っていると、すぐにうしろから声がかかった。
「お嬢様。あまり先を急がないでくださいませ。迷子になりますよ」
「大丈夫ですっ。あたしもう、18歳なのよ。そう、立派に成人した淑女ですとも!」
「淑女ははしゃいで跳び回ることなどなさいません」
呆れまじりにそう言ったのは、彼女のうしろについてきた従者たちのうちのひとりだ。四十代半ばの女性である。従者とはいえ、家の侍女でもなんでもなく、彼女の肩書は、この国の17州のうちのひとつである東大犀州の、政府の役人だ。
東大犀州は、王国の最西端に位置するアレーナの故郷だが、お世辞にも豊かとは言えない貧乏州である。それゆえ、首長の娘アレーナの私的な散策のお目付け役に、州の役人が駆り出されているのだ。貧乏州ならではの、やむを得ない公私混同である。
「大体あたし、『ついて来て』なんて頼んでないのに」
彼女は従者の女と、そのとなりの護衛官の男を交互に指さした。
「いい年して『パパ』と『ママ』を連れてるみたいで恥ずかしいし、市場が楽しくないなら、あなたたちは帰ったらいいじゃない」
「お嬢様をしっかりと見張っているよう、お父君に念を押されていますので」
淡々と告げる従者の女に、アレーナはむーっと頬を膨らませた。
「もう、お父様はすぐあたしを子供扱いする! そもそも州館に帰ろうと思ったらあの大きな宮殿を目指せばいいんだから、迷子になんかなりようが……」
そこまで言いかけて、彼女は沈黙した。
「アレーナ様?」
気がつくと、彼女は足を止めていた。
うしろから、なにやら物々しい怒声が聞こえてきたのだ。
思わずふり向けば、そこは宿屋と書かれたの看板の前だった。
『ふざけたことを言うなよ! 足元を見やがって!』
この賑やかに人声の飛び交う場所で、その喧騒だけが気になった理由はひとつ。
恐ろしい剣幕で放たれた男のセリフは、この国の言葉ではなかったのだ。砂漠を東に越えた先の隣国、クァカット王国の言葉である。
『このカネの亡者が……っ! お前らに人の心はないのかっ!』
なにやら尋常ではない様子だ。
ひとりのクァカット人の男が、何人ものイスカ人に向かって、何かを吠え立てている。
クァカット人は、容貌を見ればすぐにわかる。彼らは皆、特徴的な髪型をしているのだ。
黒い巻き毛で無数の三つ編みをつくり、その髪を眉あたりでばっさりと横に切り落としている。横とうしろの髪は肩につかぬ程度の長さで、これまた横にバッサリと切る。後ろから見ればキノコのような珍妙な形だが、かの国で古くから続く、伝統的な髪型らしい。
「何をうるさくわめき散らしているんだ! 商売の邪魔だ。文句があるなら他所へ行け!」
対するのはイスカ人たちだ。この国のごく普通の商人たちだろう。
今しがた外国人の男に告げたのは、その先頭に立つ小太りの男だった。
彼は群がる蠅に対してするように、顔をしかめてクァカット人に対して左手を振っていた。人に対してするには、あまりに無礼なジェスチャーだ。
「そうだそうだ、とっとと失せろ、キノコ頭!」
彼のうしろで、数人のイスカ人たちがヤジを飛ばした。
彼らは皆、この王都にはどこにでもいるような恰好をしている。
頭に巻かれた白布に、地味な色の長衣。この町には金持ちが多いはずだが、王都のイスカ人は服装にはあまり頓着がないと見える。とりわけ男性の衣服は特にシンプルだ。
ただ髭だけは別らしく、皆きれいに形を整えていて、なかには重力に逆らい上向きに固めている人もいるほどだ。宿屋の前の人々も、それぞれ髭を違った形に剃っている。彼らの唯一のファッション性が、髭なのかもしれない。
『客を騙しやがって……お前らそれでも、同じ人間かよ!!』
吠えたてるクァカット人は、よく見ると目に涙を滲ませていた。
セリフから察するに、ただでさえ言語が通じない彼が、詐欺被害に遭ってしまったと見受けられる。
彼の文句を奇異な目で見る周囲のイスカ人たちは皆、クァカット語を知らないように見えた。
あるいは、知っていてなお、知らないふりをしている可能性はある。
政治家の父によると、近年、砂漠をはさんだ東の隣国への反感感情が、高まりつつあるらしい。
この国の商人たちにとって、かの隣国は、数百年の長いつきあいの取引相手のはずだった。だが近年クァカット政府が高い関税をかけ始めたおかげで、イスカ人商人たちは商品が売れずに大損をこうむったのだという。それゆえ、実害をこうむった商人たちだけでなく、あらゆる職種のイスカ人の間で、クァカット人への好感度は底辺に落ちていた。
それを示すかのように、行き交う人々は誰ひとりとして、この哀れな外国人を気に留めようとはしない。
(でも、彼に罪はないわ)
そう思った瞬間、アレーナは、気づけばその喧騒の元凶、クァカット人の前に歩いていた。
侍従たちが止める間もなかった。
『あの、どうなさったのデスカ?』
アレーナは昔習わされた言葉を思い出しながら、ゆっくりと尋ねた。
名家のお嬢様というものは、得てして、役にも立たない教養科目を習わされるものだ。クァカット語もそのうちのひとつだが、それがまさか、こんなところで役に立つとは思わなかった。
母親の母語が似ているので、数ある教養科目の中でも、クァカット語は得意なほうだという自負はある。
外国人の男は、なじみのある言語が聞こえた瞬間に、勢いよくふり向いてアレーナを凝視した。その目は大きく見開かれ、やがて安堵へと変わった。
彼は「助かった」とばかりに悲痛に涙を浮かべながら、彼女に訴えた。
『聞いてくれ、お嬢さん! 俺はここに連泊してる客なんだが、この宿の主人が、今日から突然、宿泊費を吊り上げるなんて言うんだ! ヒドいったらないだろ!』
クァカット人の男は、両手を上下に揺すりながら、激しい身振りで訴えかけた。幸いにして彼が話したのは、アレーナが標準語として教えられた、聞き取りやすいクァカット語だった。
話の内容から察するに、どうやら諍いの原因は、詐欺被害というよりは商業トラブルのようだ。
「ワケのわからん言葉でうるさい外国人だな。誰かコイツを何とかしてくれ」
宿屋のイスカ人たちは、いかにも邪魔だと言わんばかりに、迷惑そうに顔をしかめていた。
「あの、どうして突然、宿泊代をお上げになったんですか?」
宿屋の主人らしき男にそう話しかければ、突然入ってきた謎の娘の存在に、彼らは驚いて顔を見合わせた。
「お嬢さん、もしかして通訳ができるクチか?」
アレーナがうなずくと、宿屋の男は「ちょうどいい」とばかりに不満を訴えてきた。
「見ての通りだよ、お嬢さん。もうすぐ年末年始だろう。毎年この時期は、新年の首長会議のために各地から政府関係者が大勢来て、どこの宿もいっぱいになるんだ。客があまりに多いなら、価格を上げるのは当たり前だろう。なのにさっきからこのクァカット人が、バルバルとワケのわからん外国語をまくし立ててきやがる。そんなにイヤなら、他の宿に泊まったらいいだけの話だってのに。この頭のイカれたキノコ頭、脳がカビでできてるんじゃないか。菌類なだけに」
彼のジョークに、うしろの数人がケタケタと笑った。
仮にも客人に対して、この見下した態度。アレーナは不愉快に思いながらも、無言でクァカット人のほうに向きなおった。
こんな無礼な主人のいる宿など、使わなければいいのだ。
アレーナは昔習ったクァカット語を、ゆっくりと語順通りに並べた。
『今日はひとまず、ほかの宿にお泊まりになってはどうデスカ?』
クァカット人は、大袈裟な身振りで否定した。
『不可能だ! どこも客がいっぱいで、しかも高額をふっかけてくるんだ! 突然そんな高額が払えるものか……! こんなの、町ぐるみの詐欺だ! このままでは私は、路頭に迷うしかなくなる!』
たしかに、彼にしてみればなんとも不幸な話だ。何の悪いこともしていないのに、突然宿を追い出されるなど。
緒の切れかけたサンダルは随分と長く使い古されているようで、それでも何でも揃うこの町で買い替えないところを見ると、どうやら彼は、裕福ではないらしい。髭を伸ばす風習のないクァカット人には珍しく、彼は真っ黒な髭を伸びるままに放置していた。床屋に行くお金も、剃刀を買うお金もないのかもしれない。
彼がこんな目に遭ったのは、おそらく近年反感感情の高いクァカット人だからというだけではない。
彼が貧しいからだ。
年末年始に押し寄せる各州の政府の高官たちは、お金を持っている。だから宿屋は価格を吊り上げ、払えない者は追い出そうとしている。
それが宿の収益を上げるための、この国の人間にとっては当然の論理であり、商業倫理でもある。
たとえその結果、貧しい彼が野垂れ死にしようが、彼らは構いやしないだろう。彼らにとっては、自分の利益こそが正義なのだ。
そんなイスカ人が、外国人になんと呼ばれているかは知っている。
カネの亡者。そして――
『中央海の嫌われ者め!』
アレーナは驚いて顔をあげた。この外国の男が言った言葉が、まさしくこの国の不名誉な異名そのものだったのだ。
悲しきかな、この徹底的な商業主義の国民性のおかげで、イスカ人は、中央の海を囲んだ周辺の外国人に、忌み嫌われているのだ。
『ここで宿を追い出されたら、私は野宿するしかない! そんなことをすれば、たちまち物取りに金品を剥ぎ取られて、一文無しになっちまう! 故郷に帰る金もなく、ここで野垂死にするしかなくなるんだ! なあ頼む、助けてくれよ! 信じる神は違えど、同じ人間だろう?!』
そうだ。「貧乏」は見殺しにされる理由にはならない。
大体、宿泊客に事前通告もなく突然宿代を上げるなど、公平じゃないではないか。
アレーナは宿屋たちを見据えた。
「ここで宿代を吊り上げられたら、彼は泊まる宿もなく、故郷にも帰れずに途方にくれるしかなくなるそうです。どうか、彼を助けてあげてください」
宿屋の主人は最初、驚いた顔をした。
それから首をかしげ、困ったように肩をすくめてみせた。
「なぜ助けなければならないんだ? そのキノコが道で途方にくれようが、俺たちには何の関係もない。そうだろう?」
アレーナは言葉に詰まった。
情に訴えたところで、ムダなのだ。彼らは端から、自分の利益にしか興味がない。
宿屋の主人の語調から、彼が何と言ったかを察したようで、クァカット人が悲痛な声で騒ぎ立てた。
『この人でなし! カネの亡者め……っ!』
『待って、ひとまず落ち着いてクダサイ!』
なんとかこの喧嘩を止めようとするが、今にも宿屋に掴みかからん勢いの彼を止めることはできなかった。
「アレーナ様、なりません」
うろたえるアレーナに割って入ったのは、彼女の従者としてついてきている護衛官の男だった。「この程度の商業トラブルは、この町では日常茶飯事です。仲裁に入る必要はございません。さあ、参りますよ」
彼は王都カルタゴに勤める王国憲兵で、東大犀州首長の娘であるアレーナの警護のためについてきている護衛官である。
この町に勤務する彼がそう言うのだから、この程度のことは止める必要もないのかもしれない。
「でも……」
胸が痛む。
年末年始、各州の政府の高官が集まるために、彼は野宿を強いられようとしている。
アレーナは、彼を追い出した政府関係者のうちのひとりなのだ。もっと言えば、政府関係者ですらないのに、王都への憧れで父についてきただけの娘。
彼女にも責任の一端はあると思うと、あのクァカット人を放っておくことはできなかった。
(それに――)
先ほどから必死に訴えかけているクァカット人は、だがしかしその「言っていることが分からない」という理由で、誰にも相手にされない。
(彼の必死の訴えを理解してあげられるのは、この場にあたししかいないんだ)
この華やかな異国の地で、たったひとり、彼は路頭に迷いそうなところを必死にしがみつこうとしている。クァカット語なんか通じないのに、それでも叫び続けるのは、それ以外に手段がないからだ。
胸が締めつけられる。
どうするべきか? 首長の父に相談すれば、資金を援助するなどして、彼を助けてくれるだろうか。
――否。
父は一州の首長として、国民を少しでも豊かにしようと熱意をそそぐ人だ。彼が情に厚い人間なのは間違いないが、それでも護るべき国民ではなく外国人を助けてくれるかはわからない。
それに、父がクァカット人を助けることによって、クァカット政府に敵意を燃やす他州の首長との関係に亀裂が入るかもしれない。そうなれば、父の念願の法案が、首長会議で通らない可能性も出てくる。政治家が動くには、いつでも厄介な政治的問題がつきまとうのだ。
娘のアレーナが、私情で父の足を引っ張るわけにはいかない。
なんとか助けてあげたいが、ただの政治家の娘でしかないアレーナには、その術がないのだ。
「いいかげんにしろ! ワケのわからん言葉でうるさいキノコ野郎め! どけ、商売の邪魔だ! これ以上粘るなら訴えるぞ!」
仮にも客人にもかかわらず、商人たちが、この哀れなクァカット人に辛辣な態度をとる理由はわかる。
早く追い出したいのだ。
貧乏人は早く追い出して、金持ちな政府関係者を迎え入れたい。だからこれほど、冷徹な態度を取れるのだ。
宿屋の主人の合図で、その取り巻きがクァカット人の両脇を押さえ、うしろに引きずろうとした。
『嫌だ! 私はこんなところで死にたくない!』
クァカット人は必死な抵抗でイスカ人たちの腕を振りほどき、主人の足にしがみついた。
『なあ、あんたらは人として最低のクソ野郎だよ! だが、そのクソ野郎に頭を下げて頼んででも、地べたに頭を擦りつけて頼んででも、私はここで死ぬわけにはいかないんだ!』
クァカット人は宿屋の足にしがみつきながら、涙を流してそう叫んだ。
『頼む、助けてくれ! あとほんの一週間だけでいいんだ! 今までの料金で宿泊させてくれ! このとおりだ!』
「触るなキノコ野郎!」
宿屋の主人が、クァカット人の顔面を蹴飛ばした。
蹴られた彼は、顔を押さえて地面にうずくまった。その手の隙間からは、悔しさのにじんだ涙と嗚咽が漏れていた。
「ロクに体も洗ってないようなその汚い服装で、俺に触るな! お前のような客がいつまでもいるとなぁ、金持ちの客にウチの宿が避けられちまうだろうがよ! 繁忙期は二度とウチに近づくな。そのカビた頭でイスカ語がわからないってんなら、体にわからせてやる!」
ついに宿屋の主人が手を上げた。その手には木製の杖が握られている。
彼は追い出すだけでは飽き足らず、あの哀れな外国人を痛めつける気なのだ。
「だめ、やめて……!」
止めに入ろうとしたアレーナの腕を、護衛官ががしりと掴んた。
「離してっ! お願い、彼を止めて……!」
護衛官は動かなかった。ただその喧騒を冷徹に見やったまま、アレーナの側を離れなかった。
護衛対象以外は、護るに値しない。呆れるほどに仕事に忠実なイスカ精神が、ここでも発揮されているのだろう。
アレーナがどれほど涙を浮かべて頼んだところで、ムダだった。
杖を振りかぶったイスカ商人は、それをそのまま、クァカット人に向けて振り下ろし――
「だめ……っ!」
――当たる寸前で、杖はふわりと主人の手を離れて落下した。
カラカラと木の転がる音がした。
アレーナはその光景に瞠目したまま、何も言えなかった。
突然割って入った若い男が、いともたやすく宿屋の手首を捻り上げたのだ。憲兵の制服を着た、長身の美青年だった。