10話
どこか少し慌てた様子に何かあったのかと首を傾げれば、私のすぐ間近まで近づいてきたラシェット様が何とも言えない表情を向けてくる。
何かを言おうとして躊躇って、でも結局言うことに決めたらしい。一体何を言い出すのだろうかと彼の唇を見つめれば。
「すまなかった」
「は?」
突然の謝罪に目を丸くしてしまった。一体何に対しての謝罪なのか、まるで思いつかない。私の表情からラシェット様も、謝罪の理由が伝わっていないことが判ったようだ。
「お祖父様がお前を呼び出したのだろう。俺から先に説明をし、納得して頂いたと思っていたんだが」
ああ、そういうことか。
納得してくれたはずの伯爵が、結局納得しておらず、私に接触してきたことを謝罪してくれたのか。それをラシェット様は自分の説明不足だと認識したらしい。
確かにその通りだ。本来なら伯爵は疑問に思うことがあれば、私ではなく話を持ってきたラシェット様本人とすべきだ。
その王子を飛び越して私の元へ話が来たと言う事そのものが、伯爵がまだまだラシェット様を一人前と見なしていない証拠だと言えないこともない。
「そうですね、そういう意味での謝罪ならお受けします」
「……こっちが下手に出れば、随分上から目線でくるな」
つい先程謝罪した、殊勝な様子はどこへ消えたのか、実に不満そうだ。
「だってラシェット様が説得を失敗して、私の方へ飛び火したのは事実ですから」
「……」
ぎゅっと唇を引き結ぶ王子の後ろで、凄く険しいクラウスの眼差しが私を貫いたけれど、気にしない。
「でも、多少釘を刺された程度のことで、別に実害はないですから、まあ構いませんよ」
構わないと言いながら、どことなく恩を着せる物言いをすると、私のその意図に気付いたらしいラシェット様がますます嫌そうな顔をする。
「でも、心から案じてくれる身内がいるというのは、素晴らしいことですよ。オルコット伯爵はあなたにとって、良いお祖父様でいらっしゃるのですね。望んでも得られるようなものではありません、大切になさった方が良いでしょう」
「判っている。お祖父様には感謝している。……だけどお祖父様にとって、私はいつまで子供なのだろうな。ご心配をお掛けして申し訳ないとは思うが、もう少し信用してくれても良いのに」
十六歳。完全な子供ではないけど、大人でもない微妙な年頃だと私も思う。
ラシェット様は一般的な十六歳の少年に比べれば、やはり立場や生まれが大きく影響してか、随分大人びている方だ。
それでもやっぱり伯爵には子供なのだろう。きっと祖父の目から見れば、いくつになったとしても孫は孫、なかなか割り切れないのかもしれない。
「悔しければ、力をおつけくださいな。飛びかかる火の粉も、理不尽な仕打ちも、自らの力で振り払えるくらい」
「……言われるまでもない」
間違ったことは言っていないはず。それでも私から言われるということが気に入らないのか、少しばかりふて腐れた声を出すラシェット様だけど、決して私の言葉を無視しているわけではなさそうだ。
「あなたの魅力は、悪女さえ時々毒気が抜かれるほどの、真っ直ぐな純粋さだと思います。どうぞそのまま大人になってください。あなたのそういうところに惹かれる人間は、必ずいると思いますから」
「お前……」
「一応、褒めたつもりなんですけど、足りませんか」
「……とことん、上から目線だな!!」
だけど嘘を言ったつもりはない。
あと五年、十年過ぎて彼が本当に大人の男性になったら、きっともっと彼を慕う人間は多くなるだろう。願わくばその頃には、アストロード様と二人で国を引っ張っていってくれればいいと思うけれど、それから先の想像を私は途中で止めてしまった。
どんなに考えてみても、五年、十年先の彼らの傍らにある自分の姿を想像できなかったからだ。
「それよりも、オルコット伯爵邸へ当家の人間を回すことをお許しいただけますか」
「何?」
唐突な私の申し出に、突然話を変えられたラシェット様は一瞬きょとんとした眼差しをする。でも私だって、何の考えもなくこんな申し出をする訳ではない。
「オルコット卿はあなたの最大の支援者であり、守りの要でもありますから。当家が第四王子に付いたことにより、手を出しにくくなったあなたより、私であればその守りの要である伯爵家を狙います」
「……」
オルコット伯爵にもしもの事があれば、ラシェット様はその守りの大半を失う。いくら私や侯爵家が守りを固めようと、ラシェット様の生涯に渡ってお守りできるわけではない。
彼にとって伯爵は感情的な意味でも物理的な意味でも失うことのできない存在だ。
「許可をいただけますか」
「……頼む」
「承知しました」
絞り出すような声は、どこまでも自分に力が足りないことを悔やむ響きが強かった。
「……それにしても本当に変な奴だな、お前は」
「良く言われます」
そんなやりとりをしていた時、ふっとこちらに突き刺さる矢のような視線を感じて、さり気なくラシェット様の前に立ち塞がる。
スッと自分の身体に触れ合う距離に近づいてきた私の仕草に、ラシェット様は軽く目を見開いたけれど……すぐに彼も気付いたようだ。
すぐ斜め前方から、こちらに向かって歩み寄ってくる人物の存在があることに。
「やあ、これは噂の恋人同士ではないか」
一見朗らかにも聞こえる調子で声を掛けてきたのは第三王子、ジョフリー様だった。
いかにも美貌の王子と言わんばかりな王太子アストロード様や、王子と言うより騎士のようなエリック様、そしてどちらかというとアストロード様に似ているラシェット様の三人の王子とは、また違った印象の王子である。
言うなれば、学者や教師と言った印象だろうか。あくまでも見た目の話だけど、良く言えばインテリ、悪く言えば神経質そうな人物だ。
「……兄上……」
口の中で唸るように呟くラシェット様の声は、多分私にしか聞こえなかった。
ひどく苦いものでも噛んだかのような彼の様子は、やはり第二王子エリック様と同じかそれ以上に、第三王子ジョフリー様を苦手としているのが感じられる。
その理由ははっきりしている。
「正直お前が、その女に興味を持つとは思わなかったよ。ああ、でもアストロード兄上が大好きなお前だから、兄上のお古でも喜んで抱けるのかもしれないけどね」
つまり、こういうことだ。エリック様もラシェット様を自分より格下と見下す態度を隠しもしないけど、ジョフリー様も同じで、こんな品が良いとは言いがたい皮肉や嫌がらせを口にする人だから。
見た目に相応しく学問の成績は飛び抜けて良いそうだけど、こんなふうにあからさまに他者を侮辱するような人に対して好意を抱く事は難しい。
何を隠そう、四人の王子の中で私が一番関わりたくないのも、このジョフリー様だ。
「……ジョフリー兄上。今の言葉、撤回してください」
兄の品のない揶揄に、ラシェット様の低い声が返る。確かめてみるまでもなく、先程の言葉に彼が怒りを抱いたのが判る。
「あれ、怒ったんだ?」
なのに相変わらずジョフリー様はこの調子。ラシェット様が何を言ったところで、まともに取り合うつもりはないと言わんばかりな小馬鹿にした態度が鼻についた。
「私のことはどう仰って頂いても構いません。ですが私を見下すために、他者を蔑む言動は王子として恥じるべきです。改めてください」
ラシェット様だって自分の言葉が兄に伝わらないことくらい判っているだろうに、それでもこう訴えるのは彼なりの矜持だろうか。
真っ直ぐな眼差しで兄を見据えるラシェット様を、鼻で笑うようにジョフリー様が答えた。
「相変わらず頭が固いねえ。そんなだからお前は第一王子にも、その女にもいいように利用されるんだよ。あの第一王子が完全な善意でお前を助けてくれるとでも思っているのかい?」
「どんな経緯であれ、今のマリアンは私の婚約者です。その彼女を侮辱しないでいただきたい。それに少なくともアストロード兄上は、あなたのように私の隙を突いて、その腰の剣で斬りかかるタイミングを見計らうような真似はしないと思っています」
ジョフリー様の腰には、実用性から見ても装飾性から見ても素晴らしい技術と宝石で飾られた剣が下がっている。その剣がいつ自分の身を貫いてもおかしくないと、ラシェット様は自覚している。
それは間違いない事実だ。先日の王太子と第四王子襲撃事件も、エリック様とジョフリー様の二人によるものだと判明しているけれど、どちらがより積極的だったかと言えばこのジョフリー様だろう。
そんなラシェット様の指摘に、ジョフリー様は薄く笑った。まるで爬虫類を思わせるような、温度のない笑みで。
「馬鹿だな、そんな真似をするほど愚かではないよ、今ここではね」
そのまま、遠ざかる第三王子の背を見送ってどれほど過ぎた頃か。
「……知っているか。世間での普通は、互いに殺し合うのではなく、助け合う兄弟の方が多いらしい」
唐突なラシェット様の呟く声は、自分の手の届かない場所を求めて彷徨っているようにも聞こえる。実際彼は自分達兄弟の心通わない関係を嘆いているのだろう。
彼の今の心境を慮れば、その言葉に合わせて答えてあげた方が良いのだろう。
でも残念ながら私もまた、世間で言う普通には遠い人間で、
「話に聞いたことはあります。ですが、兄弟とはいえ別の人間ですから。大きな利益と自分の命がかかっていたら、誰だってこうなりますよ」
気の利かない、こんな言葉しか返せないのだ。
「そうかもしれない。……だが、一部の兄弟は、それでも助け合い、かばい合う者達がいると聞く。……無い物ねだりだと判ってはいるが、そう言う経験をしてみたかったな」
「アストロード様となさいませ。お兄様を慕っておいででしょう? それともアストロード様が信用できませんか?」
するとここで、一度ラシェット様は口を閉じた。黙り込んだ彼の様子を伺うようにその顔を見上げれば……ラシェット様は僅かに口の端を釣り上げて笑みらしきものを浮かべている。
それは微笑と言うより、自嘲と言えるような笑みだった。その笑みで、私はこの王子が私が考えているよりももっと多くの事を察しているのだと知る。
「そうではない。兄上が俺に心を砕いてくださっていることは知っている。けれど……何が何でも、生かしておきたい弟ではないことも、承知しているつもりだ」
今は、そして必要だと思われている間は守ってくれる。
でももしもラシェット様の存在がアストロード様にとって邪魔になる時がきたら、自分は兄に切り捨てられると考えている、そんな言葉だった。
私は何も答えずに、黙り込んだ。
そうではないとも、その通りですとも言えない。
だけど私がこうして沈黙するということは、ラシェット様が考えている可能性が少なからず存在していることを示している。
それにラシェット様も気付いているだろう。また少し彼は沈黙して、それから気を取り直すように顔を上げるとこう言った。
「俺にも、兄上のお考えが判るようになったら、兄上も俺をもっと必要としてくださるかもしれないな」
少しだけ困ったように微笑む私を一瞥して、それからラシェット様は立ち去っていった。少しずつ遠ざかる少年の背を見つめ、私は彼に聞こえないような小さな声で呟いた。
「……あなたが、あの方のお考えを理解できるようになったら……きっとあの方は嘆かれますよ」
アストロード様は、そうなることを望んではいないから。
様々な問題や思惑を抱えながらも、二つの派閥に別れた王子達の争いは、表向き静かに、裏では着々とその勢いを増していった。
これから数日後、再びアストロード様が襲われ、ラシェット様も刺客の襲撃を受ける事になる。
どちらもそれぞれの護衛騎士や私のような人間に守られて、全て失敗に終わるけれど、王子達の争いはまだまだ終わることはなく、時が経つ毎に周囲を更に巻き込んで続いていくだろう。
その終止符を打つ時はまだ見えない。それでも、少しずつその時が近づいてきている事は、誰に説明されるまでもなく関わる全ての人間が肌で感じているのだった。
次回の更新まで、またしばしお時間を頂戴します。目処が立ちましたら活動報告でお知らせしますね。




