第2章 魔術師と霊媒(4)
虚ろの空間と聞いて、真守は言い得て妙だと思った。自分達が今生きているのはこの世であり、死んだ後の世界はあの世である。標山の森は夜刀神が存在していて、霊体が強い影響をこの世に与えやすい。それはつまりあの世に近いということだ。あの世に近づいていけば、いずれこの世があの世に変わる地点が出る。その境界線は一体どういうものなのだろうか。この世でもあの世でもない。どちらの世界でもなく、どちらの世界の理もない。つまり虚ろなのだと真守は考えた。
「では、魔術が使えたあの標山の森も、虚空間ということですか?」
「ああ、その通りだ。そして、もっとも虚空間としての性質が強いのは――」
「祠の洞窟ですね」
真守が答えると、ミヨクが首肯した。しかし真守は疑問に思う。よく考えてみれば、どちらの世界でもないというのはおかしい。
「みよ君。標山の家はこの世とあの世が混在するような場所です。虚ろという表現は適切ではないと思います」
真守は一応反論してみたが、すぐに否定されるものだと思った。しかし意外にもミヨクは納得したように頷く。
「真守の言うことはもっともだ。世界を振動数で考えると、今俺達が生きている世界の振動数は低く、霊体の世界に近づいていくにつれて振動数が高くなっていく。だから真守の言うこの世とあの世が交わる世界なら、振動数はその中間ということになってもゼロ、つまり虚ろということにはならない。だから、虚空間ではなくいくつもの振動数が乱立する空間だと唱える説だってある」
しかしそれは最も一般的な説ではない。ミヨクは言外にそう告げているのが真守には分かった。彼は話を続ける。
「虚空間にだって、その世界としての性質がある。樹木は視えるし触れるし、大地はしっかりと踏みしめられる。大気だってちゃんと吸い込める。人間がそこに行ったからって消失することはない。けど、霊体の世界ともつながりやすい。これがどういう意味だか分かるか?」
真守は考えてみる。ある世界であり、また別の世界であり得る世界。そして虚ろと言う言葉の意味。それらを考慮するとある答えが浮かび上がった。
「つまり、別の世界が入り込む余地があるということですね」
「そう。その通りだ。さすが真守だな」
ミヨクに褒められて少し照れてしまったが、エレンが睨みつけてきたのに気付いて、真守はすぐに真剣な表情に戻った。そしてミヨクが説明を再開する。
「別の世界が重なる余地がある、つまり空きスペースがある空間、それが虚空間だ。だからその場所では、世界の重なりを利用する魔術が使えるんだ」
ミヨクの説明はよく理解した。しかし真守には腑に落ちないことがある。ミヨクの言うことが信じられない、事実と異なるのではないかということではない。しかし真守には違う観点が頭の中で生まれたのだ。
「境界がないのではないですか……」
真守はその考えを口に出してみた。そして、ふと顔を上げてみると、ミヨクとエレンが真守をじっと見つめている。何か変なことを言ったのではないかと真守は少し心配したが、そうだとするとエレンが怒るか呆れるのではないかと思った。
ミヨクは真剣味を帯びた視線を真守に向ける。
「それはどういう考えなのか……是非聞かせてくれ」
思いつきで言ってしまったなんて今更言えない雰囲気だ。しかし思いつきには理由がある。真守はその思いつきに至るものに深く関わっているのだ。頭の中の考えを整理してから、答え始めた。
「夜刀神です。夜刀神の伝説は境界の物語でしょう。標の梲を立てて、人の領域と神の領域の境界をつくる。しかしこの地はそのようになっていません。そもそも標山家が夜刀神を祀っていた時から虚空間になっていたのかもしれませんし、伝説通りに標の梲を立てても虚空間でなくなる保証はありません。けど世界が重なり合うということは、それぞれの世界を区別する境界がないということではないでしょうか……」
思いつきには限界があったと真守は反省した。話を続けている内に、変に補足をしてしまったり、無理矢理結論につなげたりしてしまった。ミヨクとエレンを見てみる。二人は呆然として真守を見つめている。やはりもう一度分かりやすく言った方がいいのではないかと思いきや、ミヨクが満面の笑みを浮かべた。
「すげぇな真守。やっぱり最初から頼るべきだったな。お前がいてくれてすごく助かる」
「どういたしまして。みよ君のお力になれるなら光栄です」
真守とミヨクが微笑み合ったところで、大きな咳払いが聞こえてきた。エレンがわざとらしく口を押えている。それを見て、真守もミヨクも笑みを消した。
とはいえ、今のミヨクの言葉は真守としてはとても嬉しい。今までは夜刀神を知ったので仕方なく真守に協力してもらっているという感じがしたが、これからはミヨクの方から真守に協力をお願いしたいという気持ちがあるように感じた。
そこでミヨクはこんなことを訊いてきた。
「なあ、真守。夜刀神は何でできていると思う?」
ミヨクがそう訊くということは、真守がそれを知らないとミヨクが思っているからに違いない。単なる霊媒の常識では見つけられない秘密が夜刀神にはあるようだ。
「霊体であることしか分からないですが、何か考えがあるのですか?」
ミヨクは大きく頷いてから答える。
「夜刀神と対峙して思ったことで、本当に俺の直感なんだけど、夜刀神はエーテルの集合体なんだと思う」
ミヨクの言葉がただの推測にすぎないとは真守には思えなかった。真守にとっても、そしておそらく標山家にとっても夜刀神は未だに得体の知れない存在である。今まで判明していなかった特性が一つや二つあっても不思議ではない。とはいえ真守には深刻に思えなかった。
「みよ君。夜刀神がエーテルの塊だとして、何か悪いことがあるのですか? エーテルは肉体と魂をつなげるものなのでしょう。高密度になれば物質化するとのことですが、そんな方法なんて霊媒は知りませんし、結局霊体と変わりないのでしょう」
真守の意見に対して、ミヨクはあっさりと首肯した。
「真守の言うことがもっともだ。確かに、多くのエーテルで構成されているからといって物質化に影響はない。けど、他の点で大きな問題がある。真守なら思いつくだろ」
「なんでしょう……。憑依くらいしか思いつきませんが」
「それだよ。七つまでは神のうち。小さな子供はあの世に近い存在とされている。魔術師の間でも似たような考えがあって、別の解釈をしている。幼少期は肉体に対してエーテルが少ないんだ」
真守は首を傾げる。エーテルが少ないということは肉体と魂のつながりが弱いということなので、あの世に近いという理屈は分かった。分からなかったことはミヨクがそれを問題だと言った理由だ。
「それがどうして憑依とつながるのですか」
エレンはあからさまに呆れたように溜息をついたが、ミヨクはまったくそんなことはなく真剣に真守を見つめながら説明を続ける。
「簡単なことだ。さっき話した虚空間と一緒だ。成長すると、肉体と魂をエーテルがしっかりとつなぐようになるけど、幼い頃はそのつながりが弱くて隙が生じてしまうんだよ。夜刀神みたいなエーテルを多く持っている霊体ならその隙を通じて子供とつながってしまう。つまり霊能力以外での憑依をしてしまう可能性がある」
ようやく真守は理解することができた。つまり幼少の人間ならば、夜刀神は霊能力の有無に関わらず、その人間に憑依することが可能となってしまうとのことだ。しかしその理屈が正しいのならば、ミヨクにとってとても大きな問題が生じてしまう。
そこでミヨクが真守に微笑みかけてこんなことを言う。
「俺が夜刀神に憑依されたということも考えられるって言いたいんだろ?」
それだけ浮かない顔をしてしまっていたのだろうと真守は反省する。とはいえ本人から指摘されてしまえば、議論を避けるわけにもいかない。
「ええ……まあ、はい……」
おそるおそる頷く真守に対して、ミヨクは冷静に答える。
「そう考えるのも無理はねぇ。けど真守も知ってるとおり、俺は霊媒としての能力は低かった。物理霊媒能力もないしな。だから憑依されたとしても、夜刀神を物質化できねぇよ」
それは真守も分かっている。ミヨクが夜刀神に憑依された証拠などない。しかし真守にはどうしても頭の中から離れない言葉がある。
「なら、どうして澄香さんは、みよ君にあんなことを言ったのですか?」
「母さんが……?」
ミヨクに残した言葉だ。ミヨクが忘れているわけがない。真守は当時の澄香を再現するように、一言一句なぞるように告げた。
「あなたは『白い魔女』のようにならないで」
その瞬間、場の空気が凍りついたのを真守は感じた。特にミヨクは、平気そうな笑みがすっかりなくなって、ただ緊迫した表情で真守を見つめているだけだった。
『白い魔女』
真守にとっては遠い日の素敵な思い出だったが、二人にとっては違うらしい。
「久遠真守」
エレンが名前を呼ぶ。怒っているのだろうが、同時に焦りが零れたような声だ。先程までの威勢は消えているように真守には聞こえた。
「あの童話に、魔術的な意味はないわ」
エレンの言葉に、ミヨクがすかさず続く。
「そうだな。母さんは魔術師じゃなかったし、俺の標山家の立場とかを心配して言ってくれたんだと思う」
嘘だ。真守はそう直感した。単なる嘘というわけではなく、真実は分からないがそうであってほしいという願いを込めた嘘だ。とはいえ追及したところで二人は何も話さないだろう。嘘を覆すに足る根拠もない。
「分かりました。今日のところはこれくらいにしましょう。今から部屋に案内します。お疲れでしょうからゆっくりしてください」
こうして情報交換は終わったが、真守には疑念が残る結果となった。十年前から薄々感じていたことが真守にはある。今日の話で、その直感が現実味を帯びてきた。
澄香は十年前の事故の真相を知っていたのではないだろうか――。