第1章 蛇神の森(4)
真守は黒い影の力を抑えつつ、ミヨク達の安否を確認する。黒い影がミヨク達に届いていないのに安心したのも束の間、信じられないような光景を目の当たりにした。ミヨクが立ち止まり右手を前に掲げていた。
「Acht, Fünf, Drei」
ミヨクがそう言うと、彼の右手から光り輝く何かが現れた。それは円形を基本として、とても複雑な模様を形作っている。そして、その円からいくつもの光の球のようなものが射出された。それらは黒い影を次々に撃ち落としていった。
真守は冷静に思考を切り替える。
「蛇神様……。どうかお静まりください」
真守は叫ぶと、黒い影は全て姿を消した。真守が抑え込んだのだ。というより自分と黒い影とのつながりを強制的に切った。安全を確保したところで、真守はすぐにミヨク達の元に駆け寄ろうとする。
「無事ですか? みよ君……」
しかし真守はそれ以上前進することができなかった。女の子の霊体が真守の首を掴んでいたからだ。彼女は下から支えるように、両手で真守の首を包んでいる。彼女は物質化していて、真守の首には明らかに冷たい感触がある。
「少しでも動いてみなさい。首の骨をへし折るわよ」
遠くからエレンが言う。残り三体の霊体も既に現れていて、臨戦態勢を取っている。
「今のは何? あなたの仕業なんでしょう。答えなさい」
「待て、エレン。ちょっと落ち着けよ」
真守が返答する前に、ミヨクが割って入る。今にも怒りが爆発しそうなエレンに対して、ミヨクは冷静にエレンをなだめようとしているようだ。
「あれは確かによく分からねぇけど、要するに物理霊媒現象の一つだろ。だったら真守が意図的に起こしたわけではない可能性があるだろ」
「意図的に起こした可能性の方がその何倍もあるでしょ」
エレンが叫ぶ。その通りだと真守は思う。今の出来事は悪意によって起こされたものだと考えるべきだ。ミヨクは真守が幼馴染だから根は悪くないと思っているのだろうが、その認識は優し過ぎる。今はどれだけ警戒しても足りないくらいだ。
しかし、実際には真守の意図したものではないので弁解はしてみる。
「あれは、私の意図したものでは……うっ」
真守はそれ以上の言葉を発せなかった。黒い影が真守の首を握り始めたからだ。
「そんなことは訊いていない。あれは何なのかを私は訊いたのよ」
「やめろエリザベス。エレンも冷静になって考えてみろ。もし、真守が悪意を持って俺達を襲っているのなら、黒い影をまた出してくるはずだ。それがないってことは黒い影は無意識に出してしまったってことになるだろ」
ミヨクがそこまで言うと、ようやくエレンは肩の力を抜いた。もちろんまだ警戒を解いていないようだが、攻撃の意思は少し薄れたようだ。
「エリザベス。放してあげて……」
エリザベスと呼ばれた霊体の少女は真守から手を放した。解放された瞬間、真守はへたり込み、咳き込む。窒息する寸前まで強く握られていた。ゆっくりと息を整えてから立ち上がる。
「真守、大丈夫か……」
ミヨクが真守の元へ駆け寄ろうとしたが、エレンから彼の腕を掴んで止めた。
「馬鹿……。仮に、あの子に攻撃の意思がないとしても、あの子は危ないわよ」
エレンの言う通りだ。今は真守が黒い影を抑え込んでいるが、あれが再び出現する可能性はないわけではない。真守が提案する。
「とにかく、森を出ましょう。話はその後です」
とにかく祠から早く離れた方がいい。エレンも同意見のようでこくりと首を縦に振る。
「エリザベス。その子をよろしく」
エレンがそう言うと、エリザベスが手を差し伸べてきた。真守は迷わずに彼女の手を取る。優しくエスコートしてくれるわけではないだろう。真守はまだ拘束される身だということだ。こうして一同は祠のある洞窟から離れることになった。
真守とエリザベスが前を歩き、ミヨクとエレンそして他の霊体の少女達が後に続く。移動中、真守をもう少し自由にしてやるようにミヨクがエレンに言っていたが、エレンはまともに取り合わなかったようだ。十分程歩いて広場のようなところに辿り着くと、真守は立ち止まった。
「この辺りでいいでしょう。あれのことを説明します」
ミヨクとエレンも真守との距離を十メートル程あけたところで立ち止まる。少し距離を縮めてくれたが、依然エリザベスは真守の手をしっかりと握っているし、ミヨクとエレンは霊体の少女達に守られている。
「それで、まず訊きたいのはあの黒い影は何だってことよ」
エレンが訊くと、真守が答える前にミヨクが口を開いた。
「待て、エレン。俺が訊く。真守、あの黒い影はもしかして、夜刀神じゃないのか?」
ミヨクは元々標山家の人間だ。黒い影は見たことがないとしても、祀っている蛇神が夜刀神であることくらいは知っているようだ。
「その通りです。しかし実際に見るのは初めてのようですね」
「ああ。やっぱり神話の中だけの存在じゃなかったんだな」
「ちょっと待ってよ」
真守とミヨクが話しているところに、エレンが割り込む。彼女はミヨクの袖を引いて、困ったような表情で質問する。
「夜刀神って一体何なのよ? 私を置き去りにしないで」
エレンの疑問は当然だ。夜刀神は日本では、霊能力を持っていない人間の間でも知られている有名な神だが、海外では馴染みのないものだろう。真守は語る。
「夜刀神とは『常陸国風土記』で伝えられている蛇神のことです。伝説では、頭に角がある蛇の形をしていて、群れをなしています。新しい田んぼをつくろうとしたところ妨害して人々を困らせていたのですが、麻多智という人が立ち上がり、夜刀神を打ち倒しました。そして山の登り口に大きな杖を立てて、人間と神の領域を分けて、そこに社を作って夜刀神を祀ったとされています。ここはそもそも伝説で語られる場所ではなく、ここの蛇神に角もありませんが、伝説と類似していることが多々ありますので、夜刀神であると認識されています」
実際に蛇の形をしていて、その蛇が多数集まった神となっている。エレンも理解したようで、相槌を打ちながら大人しく聞いていた。
「じゃあ、お前が標山家の代わりに継承したってことなのか?」
ミヨクの質問に対して、真守は首を横に振った。
「いいえ。継承はしていません。継承の儀も何もせずに、標山家が去ってしまいましたから」
「そうか。なら、夜刀神が勝手に出てきても不思議じゃねぇな」
夜刀神の力を十全に制御するためには、前任者からの正式な継承の儀式を必要とする。他の方法もあるが、それを行うことは祖父の巌に反対されている。真守も現在はその必要を感じていない。だから真守は夜刀神の力を借りることができるが、蛇神の力を支配しているわけではない。
「しかし夜刀神を出したのは別に初めてのことではありません」
あなたの知る昔の私ではない。真守がそう言ったのはこういうことだ。神霊と呼ばれる霊体の力を現世に実体化することのできる霊能力者、真守はその一人だ。ただ祈祷を捧げて神託を授かるような霊媒ではない。
「なるほどな……。こんな力があったのか……。ヘルベルトはこれを手に入れようとしていたか……」
ヘルベルト。十年前の事故で死亡したミヨクの父親のことだ。外国人が霊媒の家系である標山家にわざわざ婿入りしてきたらしい。
「とにかく私は霊媒ですから、みよ君の力になれると思います。だから……」
「ふざけないでっ!」
ミヨクは頷こうとしていたが、エレンが大声を上げた。また怒りがぶり返してきたようだ。真守を睨みつけて言い放つ。
「お兄様をあんな危険な目に遭わせておいて、よくそんなことを言えるわね。あなたが危険な存在だと分かった以上、あなたをお兄様に近づけさせるわけにはいかないわ。今日のところは見逃してあげるから、お兄様の前に二度と……」
今度はミヨクがエレンの前に腕を出して、彼女の言葉を遮った。
「エレン、言い過ぎだ。それに、森の奥に行かなければいいだけの話だろ。別に俺達は夜刀神をやっつけに来たわけじゃねぇし。ただ十年前のことを調べに来ただけだ。さっきはあんなこと言ったけど、やっぱり真守に協力してもらおう」
ミヨクがそう言うと、エレンは落ち着いた。少し考えるような仕草を見せた後、再び真守を鋭い視線で見つめる。
「いいわ。お兄様に免じて、協力させてあげる。けど、あなたのことを信用したわけじゃないから。そのことは肝に銘じておきなさい」
そう言って、エレンは真守から目を反らした。元々あまりよく思われていなかったようだが、夜刀神を出してしまったことで嫌われたようだ。隣でミヨクが苦笑いしている。
「ごめんな。根は良い奴なんだけど、ちょっと神経質なところがあるというか……」
「悪かったわね。神経質で……」
エレンはミヨクにも顔を背けてしまった。かなり機嫌を損ねたらしい。ミヨクはなんとかなだめようと彼女の肩を触れようとしたが、エレンはひらりと躱す。とりあえず今は諦めたようで、ミヨクは真守の方を向いた。
「とにかく森を出てゆっくり話そうぜ。できれば家に入れてほしいんだけどいいか? こうなった以上、じいさんにもちゃんと挨拶しておきたい」
「分かりました。私は元々、みよ君を迎え入れるつもりでいましたし。エレンさんも大歓迎ですよ」
真守はそう言ってみたが、ミヨクが愛想良く笑ってくれただけで、エレンには無視されてしまった。とはいえ何も言わないということは、真守の家に来ることに反対しているわけでもないだろう。
ふと、ミヨクがこんなことを口にする。
「それにしても夜刀神って実在したんだな。驚いたぜ。まるでおとぎ話のようだな」
「いや……。みよ君がそれを言いますか……」
そういえば解決していないことが一つある。忘れていたわけではないが、言い出すタイミングを逃してしまっていた。真守も、真守からしたらおとぎ話のような出来事に遭遇したのだ。真守はミヨクに訊く。
「ところで、私が夜刀神を出してしまった時に、みよ君が出したあの丸い模様と光の球は何なのですか?」
ミヨクが夜刀神のような現象を見たことがないように、真守もミヨクが実行した超能力を見たことがない。あんなものが実在しているのかと驚愕しているのは真守も同じだ。
ミヨクは躊躇うように俯いたが、やがて決心がついたように真守をしっかりと見つめた。そして信じられないようなことを告げる。
「あれは、魔術だ」
「魔術……」
本当に、ミヨクには夜刀神の実在に対してどうこう言う資格はないと真守は思う。彼の言っていたことがようやく身に染みてきた。もうミヨクは真守が知っているような存在ではなかった。
「そうだ。俺達は魔術師だ」