第1章 蛇神の森(2)
春休みの初日、真守は早速ヘンシェル教会を訪れた。時間は午前七時だが、朝早くから開放されているらしい。外観も内装も、教会のことをあまり知らない人がよく想像するような、ゴシック様式の綺麗な教会だ。
真守はベンチに座って周囲を眺める。本当に何の変哲もない教会だと思っていたのだが、すぐに信じられない光景を目にすることになった。
聖母がそこにいた。真守がそう見紛ってしまう程の美女がそこにいた。
肩にかかるくらいの銀髪が緩やかに波打っている。肌は白く碧眼である。真守は西洋人を見慣れていないのではっきりとは分からないが、おそらく自分よりはいくらか年上だろうと予想してみた。そして女性にしてはかなりの高身長である。少なくとも百七十センチメートルは超えているだろう。
さらに目を引くことがある。修道服の色が赤いのだ。教会やシスターに明るくない真守でも修道服は黒色や紺色が一般的だということは知っている。少なくとも燃え盛る炎を連想させるような修道服を見たこともないし聞いたこともない。
そのシスターが真守に近づいて来る。ふと、真守は気づいた。日本に来た外国のシスターだが、果たして日本語は通じるのだろうか。シスターが話しかけようとしたタイミングで、真守は立ち上がり苦し紛れに口を開く。
「あの……。アイ・キャノット・スピーク・イングリッシュ」
英語を話しているが、他の英会話が成り立たないことは本当だ。真守は、高等学校における英語の成績なら優秀だが、普段から英会話を行っているわけではない。突然外国人に遭遇しても対応できるわけがない。真守が適当な手振りで慌てている様子を見て、シスターがくすりと笑った。
「大丈夫です。私は日本語話せますよ」
とても流暢な日本語だ。意思疎通ができることに真守は安心した。
シスターが真守のすぐ横に座る。早速真守はシスターに話しかけた。
「私、久遠真守と言います。シスターさんのお名前は?」
真守が名乗った瞬間、シスターの眉がわずかに震えたのを真守は見逃さなかった。
「ソニア・ヘンシェルです。ようこそヘンシェル教会へ」
とりあえずは、真守は当たり障りのないようなことから質問していく。
「そうですか。ソニアさんはどこの国からいらっしゃったのですか?」
「イギリスですね」
「イギリスですか。そんな遠いところからわざわざ大変ですね」
危うく聞き流してしまうところだったが、真守はソニアの話で奇妙に感じた点を訊いてみることにした。
「あの……このヘンシェル教会とはどういった教会なのですか? あなたの名字が名前になっているようですが」
「聖公会の流れを汲む宗教団体で、いろいろな国で教会を構えています。日本ではこことあと三か所くらいですけどね。私の家系はこの教会を束ねていまして、私も将来その一人になるため修業していまして、そのために最近この地に来ました。私だけ修道服が赤いのはヘンシェル家の人間だからです。主な活動は他の教会とあまり変わりませんよ。礼拝を執り行ったり、慈善活動に参加したりします」
つまり一つの家系が取りまとめているだけで、他のことに関しては外国の宗教に明るくない人が想像するような普通の教会らしい。少なくとも表向きはそうなのだろう。
世間話はこのくらいにして、真守は本題に入ることにする。
「ひゃああ」
ソニアが突然、身震いしながら可愛らしい悲鳴を上げた。背中に何かが這ったかのように肩を縮めて背筋を伸ばす。そして何かから解放されたかのように肩を落とすと、恥ずかしそうに小さくお辞儀をする。
「すみません。急に寒気が……」
「構いませんよ。まだ三月ですからね。意外と涼しいですよね」
ソニアが落ち着いたところで、真守は話を切り出した。
「ソニアさん。ここに教会を構えているということは、ここから西にある標山の森についてはご存知なのですか?」
突然話題を切り替えられて驚いたのか、ソニアは少し戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに微笑みを取り戻して答えた。
「ええ、何でも蛇の神を祀っている森だと……」
たとえ真守のことを知らなくても、そう答えるのは別に不自然なことではない。実際にこの近辺では、標山の森は蛇神の伝説で有名だ。真守が通う学校の高校生ですら、そのことを知らない人間はいないだろう。
「それに、その森を開発してリゾート地にする計画があったそうなのですが、勝手に森に調査に言った人達が大量の蛇に襲われて、計画が中止されたなんて噂も聞いたことがあります。蛇神の祟りなんて言われているそうですが、さすがにそんな……」
「ありますよ」
ソニアの言葉を遮って、真守が断言した。ソニアは少しの間呆然として、それから気を取り戻したようで真守に訊く。
「何が……あるのですか?」
「だから、蛇神の祟りですよ。本当にありますよ」
その瞬間、ソニアの眼つきが変わった。頭のおかしい人間を見る眼ではない。まるで当たってほしくない予想が当たってしまった時のような眼だ。真守にはそう感じた。
そして意を決したかのようにソニアが言う。
「あなたが蛇神の巫女だったようね」
この瞬間、真守はソニアやヘンシェル教会が安全だと認めた。ソニアは真守や標山の森について詳しく知っているわけではない。それに一連のやり取りで、真守を監視しているのがソニアやヘンシェル教会の人達ではないことは明白になった。
「蛇神の巫女って何のことでしょうか? 私はそんなものじゃありませんよ」
嘘はついていない。真守はそんなものになった覚えがない。そもそもソニアは、蛇神の巫女とはどういう存在なのかを理解していないだろう。
「あくまでしらを切るつもりね」
「いいえ。私は蛇神の巫女ではないというだけの話です。ただ蛇神のことはよく知っています。私の家は標山家と関わりがありましたし、今では蛇神を祀る標山の森を管理していますからね。家もそこですし」
重要な部分は省きつつも、真守は久遠家のことを話すことにした。おそらくソニアは、真守の周りに起きている異変と何らかの関わりがある。情報を得るためにも協力した方がいいだろうと判断した。
「ところでソニアさん達は、どうしてこの地にいらっしゃったのですか?」
ソニアが危険な人間ではないと分かっていても、標山の森を管理する者として彼女達の目的は知っておかなければならない。真守が問い詰めると、ソニアは観念したように話し始めた。
「そうね。標山の森と深く関わっていると言うのなら、あなたには話しておくべきことがあるわ」
そう言いながらソニアは一枚の写真を真守に見せる。
「この男の名前はエドガー・テルフォード。歳は十八歳。身長は百八十五センチメートル。見てのとおり西洋人よ。心当たりはないかしら?」
男性にしては少し長い茶髪で、かなり整った顔立ちをしている。少し中性的な感じもする。やはり日本人である真守からしてみれば、普段滅多に見ることがない西洋人だ。
「いいえ。全くありません」
「この写真の男は我が国で何人も殺した危険人物です。この付近で目撃されたと報告があります。もしかしたらあなたが住む森に来るかもしれませんので、念のため警戒してください。くれぐれも話しかけてはダメですよ」
「分かりました」
真守は嘘偽りなく答えたつもりだったが、ソニアは怪訝そうに真守を見つめる。
「こう言ってはなんだけど、怖くないの? 危険人物があなたの住むところに来るかもしれないって言われているのよ」
そう言われてみれば、自分の反応があまりにも呑気すぎると真守は気づく。今更怯えた振りをしても遅いだろう。適当な言い訳を考えた。
「いや……初対面の人に突然そんなことを言われても、実感がないというか……」
「そんなものかしら……」
殺人犯が標山の森に来るという根拠は何なのだろう。それも気になったが、真守は違うことを訊くことにした。
「そういう人を追っているということは、ソニアさんや最近ここに来た教会の人達って……外国の特殊捜査官とか、そういう方なのですか?」
教会に拠点を構えているというのは異様だが、敢えて変装しているというのも考えられる。殺人犯を追っているのだから警察関係の人だと真守は推察してみた。
「ええ……ええ、まあそういう者よ。とにかく、小さなことでも構いないから、何か情報があればヘンシェル教会まで知らせてください。これが電話番号よ」
何とも歯切れの悪い答えだ。全く違うということではなさそうだが、もっと本質的なことは隠しているようだ。結局、連絡先は教会であることも怪しい。
とりあえず真守はもう一つの疑問を訊ねることにした。
「ところで、その人が標山の森に来るかもしれないというのは、どういうことですか?」
真守の質問に対して、ソニアは目を逸らす。真守に聞かれてもいい内容を考えていたのか、やがてソニアは意を決したかのように答えた。
「まだはっきりとは分からないけど、エドガーは標山の森の秘密を知っていて、その森にある何かを狙っているかもしれないの」
「そういうことでしたら、分かりました」
エドガーの目的が判明していないことに偽りはないのだろう。真守は忠告を素直に受け入れることにした。
「それと、ある兄妹を探しているの。兄と妹ね。この二人は犯罪者というわけじゃなくて、むしろ保護しないといけない子たちよ。この地に来ていることは分かっているのだけど、消息がつかめないの」
そう言いながらソニアはもう一枚の写真を見せた。そこには二人の金髪の男女が写っている。女の子もどこかで見たことのあるような顔をしていたが、それよりも男の子の顔を見て、真守は驚きを隠しきれなかった。
「うそ……まさか……」
殺人犯に襲われるかもしれないなんてことよりも、真守はこのことに酷く動揺する。それと同時に、どうしてソニアが真守のことを知っていたのかはこれで合点がいった。
「彼のことはよく知っているようね。十年前まではこの地で暮らしていて、あなたの家でお世話になったこともあると、本人から聞いているわ」
髪を金色に染めていて、勝気そうな面持ちに変わっていても、十年前の面影は残っている。真守が見間違えるわけがない。
「ミヨク・ゼーラー。この地では標山明空と呼ばれていた少年よ」
「みよ君……」
真守がずっと会いたいと願っていた、しかしもう二度と会えないと諦めていた男の子の姿がそこにあった。