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名前

シトシトと雨が降っていた。傘の上で水滴が跳ねてヘリを伝い、先端の丸いポールから滝になってぽたぽたと足先に落ちてくる。靴の合間を染みて、指先に冷たさが溜まったが、神経は麻痺し始めていて、あまり気にならなかった。

 胸の中にはデパートで購入した紙が濡れないように抱かれている。

「命名紙」子供の名前を記すものらしい。


冷たさの中で足取りは重かった。家に帰れば、この紙の中に何か意味を込めないといけない。子供が生まれて6日がたった。昨日から柳は病院を退院して家に戻っている。

名前は何も浮かばず、もうしばらく柳に急かされている。柳は何故か自分でしようとはしない。

「私が生まれた時には名前なんてなかった。他者との関わりが無いから。学校に着いた時、いつの間にか柳という名前が付けられていた。今にして思えば誰につけられたんだろうね。気づいたらそれが当たり前になっていた。私はあまり名前の必要性が分からない。でも、あなたはキゴウという名前をずっと持っていたんでしょ」

 彼女は赤子に母乳を飲ませながら掠れた声で言う。それは血液を与える行為で、ひどく喉が渇くのだという。これもシステムの調整で出来るようにしたものだった。母乳がでる人間は、今では自然主義者の中でも珍しいのだという。


 頭の片隅で子供のことを想像しながら歩む。

 小さく赤い、およそ自分と同じ人間だとは思えない物質。

 か細い声で喘ぎ、お腹が減ると胸に貪りつき、飲みながらすぐに眠ってしまい、眠りながらも息苦しそうに呼吸を早め、目を覚まして泣くと額から真っ赤に染まっていき、そして落ち着いている時は虚空をぼんやりと見ている。

 赤子の行動を分析して、その意味を捉えようとしてみる。それが名前に繋がるかと考えてみる。しかし、それでも意味を与えることはできない。そう考えると途端に思考は閉ざされる。

 何もない器からは何も流れない。子供が最初から意味を持つものだったらいい。

――ケイや、柳のように

 

エリア2に入って、システムに名前を問い合わせてもよかったが、柳は多分それを見抜くだろう。エリア3は不思議な場所だった。人の心が人の可能性を狭めていく。これがケイの言っていた魂に縛られるということだろうか。

 システム非管理の3に入ってから、解決できない問題が大分増えた。キゴウの記憶の中では唯一、完全に調整で消していた感情も戻りつつあった。


 雨がやみ、突然ふと眩しい光が透明な傘を透かしてチラついた。

 額をあげると、見慣れた人影が目前を通り過ぎた。

それは、そのまま滑るように路地裏へと流れていく。

 キゴウは無意識にその背中を追いかけた。

ビルの谷間の影は、別世界のように深い闇へと切り込んでいく。


 頭を乗せて、足が運んでいく。

 影が暗闇の中を歩いている時、影は自分の場所が分からない。

 裂け目から青い空が覗いている。

 頭を運び、影が暗がりの中を歩く。

 

「ケイ?」

 キゴウが闇に問いかけた。

 闇の中には、何者もなかった。

ただ、微かな感触が顔にかかって、蜘蛛の糸が目の周りから広がっていった。

 振り返り、路地裏から出る。

 

 影を抜けると街は死んでしまっていた。

 まばらにあった人間達が固まっている。

 人間だけではなく、全ての動いていたものが息を潜め、時間を忘れてしまったかのように静止している。

 

 キゴウは静かに歩き、止まっている人間に力を加えてみる。

 しかし、指先は透き通り、その物質に影響を与えることはない。

 いつかの先生の言葉が思い出される。

「不要なNPCが消えていく」

 消えたのはどちらだろうか。


 キゴウは家へと帰る。

 柳はめずらしく眠っていた。

 夜中に赤子に何度も起こされたせいで眠れていないのだろう。

 隣の籠では、赤子も眠っている。

 キゴウは二人の前たち、その様子をいつまでも見下ろしている。


――気が付くと、3人で暮らすための大きい家は、無くなっている。

 ただ、ひとつ、ポツンと一人用の黒い箱が目の前にある。


 それはひどく懐かしい気分を呼び起こさせる。


「キゴウ」と呼ばれて振り返った。


 岩トが手を振っている。

「人は、自分の見たいものを見ているんだ」

 

 キゴウが近づいていくと、岩戸も固まって、チリチリと滲みだす。

 薬指に結んだ花の輪を地面に落として、岩トは消えた。


 指輪を拾おうとすると、地面には既になかった。

 代わりに花が咲いて、すぐに枯れた。


 キゴウの周りで人の花が咲き誇る。

 柳、ケイ、岩戸、小森、先生。

 花となって数多のそれぞれ分身が咲き誇り、楽しそうに話をしている。

 そして、またすぐに枯れていく、


 自分の薬指に、綺麗な花が結ばれていた。

 そこにあったはずの柳との結婚指輪は、無くなった。


 岩戸の言葉がリピートする。

「人は、自分の見たいものを見ているんだ」


「それはエリア2以上での話だろ?」とキゴウは聞いた、

「一つを完璧に管理するということは、全てを完璧に管理していないとできないだろ?」

 分かり切った答えが、頭の中でこだました。


 自分の暗い箱の中に戻った。

 そこには、名前のない赤子が眠っていた。


「この子は、どうして?」


――また、目が覚めた。



■弔い



世界の時は、ある時は止まり、ある時は移り、ある時は捻じれ、ある時は逆行し、ある時は進んだ。また、ある場所では止まり、ある場所では移り、ある場所では捻じれ、ある場所では逆行し、ある場所では進んでいた。しかし、往々にして、主には止まっているようだった。

夕景に染まる赤いビルの足元では朝日が照り、その地に広がる水たまりは夜に染まって、波紋が中央に集まって雨が宙へと上がり、水滴は顔の高さで固まっていたが、次に雲の中まで戻っていき、しかし気づけば雲はなく、ただ真っ青な空気の中に、錆びた塊が立っているだけだった。

人も同じようだが、大体は静止していた。たまに思い出したように巻き戻るものや進むものもいたが、どういう規則でそれが行われているかは分からなかった。


これまで通り安定して時を刻んでいるのはキゴウだけに思えた。

赤子に関してはよく分からない。進んでいるのか、戻っているのか、静止しているのか。元々の動きの予想がつかないので、判断しづらかった。

時が安定して進行しているのなら、食料が必要だろうか。

幸い液体ミルクはいくらか家にはあった。

3時間おきに食料は与えないといけないと柳から教えられている。しかし、この状況で時をどう図ったらいいものだろう。

赤子が顔を染めて泣き出すと、とりあえずキゴウはミルクをあげた。ゴクゴクとほっぺたを大きく揺らして貪りつく。しかし、ふと思い出したようにそのまま寝てしまう。何かを求めるように手が空を描き、布団に乗せると両の手をあげて眠る。

すると、突然ごぼごぼと口からミルクを吐き出す。慌てて溺れないように体を横に傾け背を撫でる。赤子の表情は案外落ち着いていて、顔を拭いているキゴウのことを観察している。

口を大きく開けて悲鳴のような表情のまま固まって動かない時もある。そういう時は静止しているのかと、一瞬疑う。


すぐ眠り、すぐ起きて、ミルクをあげ、その繰り返しが続く。

間に排泄物を処理したり、吐いたものを拭く。

どういう時間の周期で動いているかはよく分からず、何を考えているのか分からない。ただこの生物の要求に応えようとした。


世界のことを見る余裕はなくなっていた。

朝から夜までの流れはランダムでしばらく夜は来ていなかった。しかし、ふと急に太陽が月に変り、月すらも暮れて完全な夜が来た。

光は途絶え暗闇の中、眠る赤子の吐息も、聞こえない。

赤子が生きているのか死んでいるのか分からなくなった。

その口元に耳を寄せても、何も聞こえず息の感触もない。静止して、しばらく耳を澄ます。

呼吸が止まって死んだのだろうか?

そういうことがよくあると柳は言っていた。

起こさないように、静かに身体に触れてみる。

赤子の手は、ひどく冷たくなっている。

胸に手を乗せてみる。動いているのかよく分からない。

この赤子も、いつの間にか自分に見えぬ間にいなくなったのだろうか。

キゴウがしばらくジッとしていると、赤子は急にハッハッハッと息切れするように喘ぎだした。そして息苦しそうに頭を左右に振る。

小さい手でしきりに目を擦り、喘ぎ、やがて大きな声で泣き出した。

キゴウは慌てて液体ミルクを手に取ったが、これも夜のせいでひどく冷たくなっていた。服の中に入れて体温で温めようとするが、キゴウの身体も冷え切っている。効果はほとんどないようだ。

仕方なくそのまま赤子の口につけた。ゴクゴクと音を鳴らし呑み込んでくれた。そしてしばらくすると赤子は口をつけたまま目を閉じた。

荒く早い呼吸だが、眠っているようだった。

キゴウは赤子の寝息が静まるまでジッと見つめていた。

そして、静かになると死んだのかと思ってまたジッと見つめ続けた。


――夜を抜け、そしてまた夜は来て、日々を繰り返す。

キゴウの身体も限界を迎えたようで睡魔が襲ってくるようになった。

気絶するように眠っては夢から覚める夢を見た。

その度、赤子の泣き声で目が覚めて、ミルクをあげ、排泄物を処理し、体を拭いた。


意識は朦朧として、夢と現実と曖昧な中を過ごした。

しかし、繰り返しの中でも確かに消費されていき、液体ミルクの残りは僅かになってしまった。

キゴウは赤子を抱きながら旧市街の店を回ったが、自動計算器が静止していて機械の中にある物を得ることは出来なかった。家々も巡ったが、そもそも子供がいない街でやはりミルクを見つけるのは難しかった。


すぐに見切りをつけ、システムの助けを借りるためにエリア2へ向かった。

液体ミルクを鞄に詰め、布で赤子を自分の身体に巻き付けた。赤子はキゴウの胸に顔を擦りつけ、モゾモゾ動いては泣いて、眠った。

流れの止まった川を船で渡り、黒い立方体が積み上げられた箱街を抜け、やがてエリアの境界線を越えた。人の身体に害を成す可能性のあるものは全て排除され、空気は清浄になった。

エリア2はこれまでと変わらぬようだった。不快を及ぼす可能性のない整理された風景。

キゴウはすぐにシステムを呼び出した。

しかし、意識に返答はなく、ただ時間が流れた。

赤子が泣きだすまで、キゴウはしばらく呆然と、システムの返事を待っていた。


 ミルクをあげながら考えた。

ここでは元々、時を刻むものがほぼないので気づかなかったが、どうやらエリア2も3と変わらない状態のようだ。

システムすら動くのをやめた。であればエリア1も状況は変わらないだろう。

もう想像が創造されることはない。人はアーミールのように自然に縛られ、自らの意思を実現することが出来なくなったのだ。いや、今は自然すら機能していない。


キゴウには、初めての感覚がよぎる。

何をすればいいのか、分からない。

 その中で、ただ赤子が泣いている。

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