あなたに惚れちゃったの、と彼女は言った
13.
醒歴二〇七三年。
スサノヲの出撃から、十二年八ヶ月後。
地球、衛星軌道上。国際宇宙警備保障・地球基地、司令室。
「ついに大将のお出ましですわね。長々と待たされましたわ」
ココ・ロズベルグ総司令官は、亜空間通信を経て届いた映像を望んだ。
それは、あまりにも巨大すぎて全貌が捉えきれない惑星級成虫だった。
「ですが、スサノヲの状態があまりにも悪すぎます! 相打ちすら不可能です!」
「オオクニヌシ級無人艦隊は移民船団の護衛を行っているため、増援も不可能です!」
「予定を変更し、空間超越マスドライバーによる援護射撃を行いますか?」
オペレーターから指示を請われ、ココは思案した後に返した。
「予定はそのまま。移民船団に輸送する補給物資を射出して下さいませ」
「了解しました! 移民船団に空間超越マスキャッチャーの使用を要請します!」
「スサノヲから届く亜空間通信の受信を四割まで制限、亜空間通信は移民船団とその護衛艦隊との双方向通信を最優先に」
「了解しました!」
ココの命令を聞き届けたオペレーターは、亜空間通信の優先順位を切り替えた。
「これでよろしいのですわね、CKO」
ココは振り返り、司令官が収まるべき椅子に座るスーツ姿の男を冷たく睨んだ。
「解ってりゃいいんだよ。最優先すべきは、植民惑星を開拓する移民達だ」
国際宇宙警備保障の親会社であるイノベーションの最高知識責任者、射延いづむは、ふてぶてしく言い放つ。
「んで、俺がわざわざここに来てやったのは、社律が変わったことを伝えに来たからだ。スサノヲが帰還したら、太陽に廃棄しろ。呂号が帰還したら、捕獲して月面防疫隔離区の特一級隔離区に押し込めろ。プロストとレイチェルとブライアンだけは会わせてもいいが、それ以外は絶対に近付けるな。医者もだ。あの三人は感情量子欠乏症で死んでも惜しくもない」
いづむはココを見返し、恋人を愛でるかのような眼差しを注いでくる。
「それが守れなきゃ、月面防疫隔離区への物資の供給を止めるからな。総司令官」
「承知しておりますわ。けれど、それもこれもあなたがあの方の力を借りてイノベーションの経営陣の感情量子をあなたの感情と共振させ、思想を塗り替えてしまったからでしょう? それさえなければ、あなたがCKOになれるはずがありませんもの」
「だが、俺とあいつが老害だらけの経営陣を刷新しなきゃ、太陽系外移民計画もいつまでたっても滞ったままだったんだ。雇用も大幅に増やしたから景気も良くなったし、人類を国家なんていう黴臭いシステムから解放してやったんだ、感謝されこそすれ非難される謂れはないと思うけどな」
「国という括りがなくなれば、民族の主体性がなくなり、長年築いてきた文化が薄れていってしまいますわ。人類が一丸となって異星体と戦うためには括りを外すべきですけれど、文化が失われれば民族の誇りもまた朽ちてしまいますわ。浅はかですわよ、あなた」
「言いたい放題言ってくれるな、総司令官どの。昔の上司に似てきたぞ」
「気分を害したのでしたら、どうぞお好きに」
「その気はねぇよ。ここで脳天を吹き飛ばしたら、余計な人件費が掛かっちまう」
きっちり仕事しろよ、と言い残し、いづむは司令室を後にした。その後ろ姿を睨もうとしたが、今、睨むべきはモニターだとココは怒りと熱を沈めた。
忌まわしい警備会社の制服の襟を緩めていると、内ポケットが熱くなった。
熱源は、内ポケットに入れてある携帯情報端末だった。バッテリーが過熱したのかと慌てて取り出すと、手のひらサイズの液晶パネルにメールの受信通知が表示されていた。
「……!」
差出人の名は、忘れもしない彼の名だった。
だが、送信先はココのメールアドレスではなく、ベルガーのものだった。恐らく、ベルガーが彼のメールを受信した場合はココの元へ転送するように設定しておいたのだろう。ベルガーはこうなることを予期していたのかもしれない。
メールに添付されている文書ファイルを開いて目を通し、ココは唇を引き締めた。
「これでよろしゅうございましてよ」
メールごと添付ファイルを削除したココは、携帯情報端末に熱を注ぎ、握り潰した。きつく引き締めていた唇の端が綻び、上向いた。
四九〇〇日目。
こころの住む炉心にまで、戦闘の被害が及ぶ。
ログハウスはぐちゃぐちゃに壊れ、こころがせっせと作った家財道具は粉々になり、スサノヲと一緒に書いた交換日記のデータを収めたディスクも割れていた。
長く伸びた髪を扇状に広げながら、こころは上も下も解らない真っ暗な空間に漂った。
それでも、まだ戦いは終わらない。
その証拠に、艦体は震え続けている。惑星級成虫と命を削り合っている。
四九五〇日目。
ついに、スサノヲが真っ二つに断ち切られる。
四九六一日目。
分断されながらも戦い続ける。
感情量子融合炉が一基だけになろうとも、メーザー砲以外の全ての兵装が壊れようとも。
四九八五日目。
こころとスサノヲはオクラホマミキサーを踊る。
分断された艦体の前部に意識を残したスサノヲと、後部に取り残されたこころが、メーザー砲を放ち合い、惑星級成虫の体内で結び合わせる。そして、踊る。
五〇〇〇日目。
五億キロに到達。
惑星級成虫、撃破。
「わたしたち、ちきゅうにかえれるのかな」
『帰れるさ』
「スサノヲさん、そこにいる? からだがいたいの、あたまも、こころも、ぜんぶ」
『傍にいる』
「あいたい……。みんなに、あいたい……」
『必ず地球に連れて帰る。約束する』
「やくそくしてね。いっしょに、だよ」
惑星級成虫撃破から、三ヶ月後。
月の軌道上に空間の歪みが発生。突如、ワープゲートが開く。
そこから出現したのは、空間断裂弾の弾頭と分解する寸前の感情量子融合炉を強引に繋ぎ合わせた機械の塊で、宇宙船とすら呼べない代物だった。
そのガラクタからは、救難信号とこころの感情量子が放たれていた。
熱くない。だけど、暖かくもない。
体が重たく、動かしづらい。喉が痛い、頭も痛い、お腹も痛い。
「う……」
あれから、どうなったのだろう。
激戦に次ぐ激戦でスサノヲが真っ二つにされ、こころと彼も分かたれた。
苦肉の策でメーザー砲で光学通信を行いながら、それを応用して攻撃に転じ、惑星級成虫を切り刻んだ。
それから、その後は。
「スサノヲさんが、私を」
一緒に地球に帰ると約束したのに。
唯一残った人型ロボットに量子コンピューターの中枢である量子結晶を入れたスサノヲは、こころを即席のワープ装置を兼ねた救命ポッドに閉じ込め、そして――
「いや、いや、いやあっ!」
彼は、宇宙の闇に消えていった。こころは絶叫して飛び起き、息を荒げた。
「お目覚めかな、こころさん。すっかり身が細ってしまったね」
こころが横たわるベッドに近付いてきたのは、プロストだった。
「ぷろすと、せんせえ」
安堵感とそれを上回る虚しさでこころは滂沱するが、すぐに涙が蒸発する。
「お帰りなさい」
「スサノヲさんが、スサノヲさんがいちばんがんばったのに、それなのに、わたし、なんにも」
「今はゆっくりお休み。その後で、色々と話をしよう」
「プロスト先生、ここ、どこですか? 地球ですか、火星ですか?」
こころが問い詰めると、プロストは静かに答えた。
「月面防疫隔離区の特一級隔離区だ。元々は月面の刑務所だったんだが……。君は国際宇宙警備保障に回収された後、月に運び込まれたんだ。ここに押し込められているのは犯罪者や疾病の罹患者、地球に戻ろうとして失敗した脱走者、体を壊して働けなくなった労働者、太陽風の影響を受けた母胎から生まれた子供達。そして、石油の民だった者や、ハレー・ビートルの卵を宿してしまった人々や、君の姉妹である人造高濃度感情量子発生源の子供達、僕を始めとした君と関わりを持った人々が雑多に押し込められている」
「なんで、そんなのが」
「それはね、こころさん」
プロストが差し出してきた新聞には、イノベーションの最高経営責任者の名と写真が載っていた。記事の内容は薄っぺらい持ち上げ記事だったが、問題はその名前だった。
「イノベーション・CEO、湊ゆずりは……?」
十四年前と変わらない外見のゆずりはが、立体写真の中で挑発的に腕組みしている。
「今や、彼女が全人類の生殺与奪を掌握しているからさ。だから、彼女の地位を脅かしかねない要素を持った人間は排除されている」
「なんで、どうして、そんなことに」
「僕やロズベルグ総司令官、ワーウィック准将とレイチェルさんも君とスサノヲの帰りを待っていたし、信じていた。だが、事情を知らない人々には、十四年は長すぎたんだ。その上、君とスサノヲが起こした地震と津波の被害があまりにも大きすぎたんだ。だから、皆、生き残れる道を選んだんだ。それを責めてはいけないよ」
プロストはこころを宥めはしたが、語気は切なげに力んでいた。
〔Gilbert Berger 1998-2073〕
小さな墓石に刻み付けられた名は、まぎれもなく、あの人の名前だった。
こころは膝から崩れ落ち、敷石に座り込む。
「ギル爺ちゃん……?」
月面防疫隔離区の片隅にある共同墓所の奥に、ベルガーが眠る墓石が佇んでいた。こころは震える手で灰色の冷たい石に触れたが、焦げなかった。
「総司令官、いや、ギル爺さんは感情量子欠乏症がかなり進行していたんだ」
レイチェルは、こころの肩に手を添える。躊躇いもなく。
「こころとスサノヲが帰ってくるまでは生き延びてやる、って頑張っていたんだが、頑張りすぎてアクセルをベタ踏みしちゃったらしい。それで、二ヶ月前に……」
「わたしのせいだぁ、わたしが、わたしがぎるじいちゃんをおっ」
こころが墓石に縋って泣きじゃくると、ブライアンはこころを慰める。
「ギル爺さんがこころに愛情を注いだ分だけ、ギル爺さんにもこころの愛情が返ってきていた。それだけさ」
「落ち着くまで、泣くといい」
レイチェルはこころを抱き締めてくれた。その暖かさで緊張の糸が緩み、こころは声を嗄らして泣き叫んだ。けれど、過熱はしなかった。感情が沈みすぎていたからだ。
帰る道すがら、レイチェルとブライアンはこころに話をしてくれた。
こころが旅立ってから半年後に結婚したが、それから間もなく国連宇宙軍が解体されて除隊させられてしまった。イノベーションが超高濃度感情量子発生源の使用料という名目で軍の資金を没収し、レイチェルとブライアンの私財も没収されてしまった。
二人はイノベーションに反逆するために組織された戦闘部隊に参加して戦ったが、呆気なく負け、指揮官であったココは死刑判決を受けたレイチェルらを救うためにイノベーションに従属して働き続けている。
月の刑務所が月面防疫隔離区に変わっても二人は囚人のままだったが、移民が増えて街が出来たので、機械修理を請け負う仕事を始めた。
辛い思い出ばかりなのに、過去を語るレイチェルの横顔は誇らしげだった。ブライアンもだった。こころは二人から顔を背け、肩を窄めた。
もっと早く戦いを終わらせて、地球に帰ってくるべきだった。
スサノヲがいたら、こんなことにはならずに済んだはずなのに。
こころは特一級隔離区の自室に戻ると、レイチェルに伸び放題の髪を切ってもらった。
炉心で暮らしている間は自分で切ったり、スサノヲに切ってもらったりしていたが、最後の戦闘を終えてからの三ヶ月間はそれどころではなかったからだ。
「あ」
髪を切り終え、鏡を見て、こころはある事実に気付いた。
「私の顔、なんにも変わっていない。レイちゃん――じゃなくて、レイチェルさんは十四年分の時間が過ぎているのに。どうして?」
「好きに呼びなよ。そりゃウラシマ効果だ、とでも言いたいところだが、それはこころの遺伝子がいじくられているからなんだ。人間が感情量子を最も多く分泌するのはティーンエイジャーの頃で、それ以降は右肩下がりになる。訓練を受ければある程度は維持出来るが、減退は防げない。軍人は感情量子分泌量が減ったら別の軍務に回されるから大した問題じゃないが、こころみたいなのは訳が違う。大都市を支えなきゃならないから、ずっとティーンエイジャーでいられるようにしてあるんだ。ゆずりはが、自分がいつまでも若くいられるのは遺伝子操作のおかげだ、ってテレビで散々自慢していたんだよ」
「それじゃ、私、いつまでも大人になれないの? 死ぬまで子供のままなの?」
「私にとっては、こころはもう子供じゃない。二十九歳のいい女だ」
だから気にするな、とレイチェルは笑ったが、こころは悔しさで唇を噛んだ。
人類と地球を掌握した超巨大企業イノベーションが造り上げた、元刑務所の月面防疫隔離区は、ドーム状の居住区を繋げ合わせて出来ている巨大なコロニーだ。その中には多種多様な事情を抱えた人々が、懸命に生きていた。治安はあまりよくなかったが、それは彼らの生命力の強さの証でもあった。
こころと同じ遺伝子を持つ、高濃度感情量子発生源の卵である子供達は、特一級隔離区の冷凍室にコールドスリープした状態で保管されていた。万が一コールドスリープが解除されても目覚めることがないように、脳に処理が施されていた。
――――なんて、いとおしいの。
「スサノヲさんが言いたかったこと、ちょっと解った」
妹達が眠る強化ガラス製のカプセルに寄り添い、こころは淡く笑んだ。
「あと、スサノヲさんの押しが強すぎた理由も」
感情を爆発させていないと、現実の理不尽さで心が潰れてしまうからだ。
もう一度だけ彼に会いたい。けれど、スサノヲにもベルガーにも二度と会えない。
「失礼するよ」
冷凍室のドアが叩かれ、誰かが入ってきた。聞き覚えのある声だが、誰だろう。太くてずっしりとした影が歩み寄ってくる。
「え、っと」
防護服に身を固めている大男を見上げ、こころは瞬きした。
「どちらさまですか?」
「この方が解りやすいかな」と、大男は古びたガスマスクを防護マスクの上に被せた。ガスマスクの額には、〈阿1号〉とある。
「正面ゲートが開いてなかったから、ダストシュートから忍び込んできたんだ」
「阿1号さんなの、本当に?」
こころが詰め寄ると、大男は頷き、鉢植えを差し出してきた。小さく青い花弁がひしめき合う花、忘れな草だった。
「君が住んでいた隔離地域からこっそり持ち出した種から育てたんだが、なかなかのもんだろ? 元園芸部員の面目躍如だ」
「きれい」
花に魅入られたこころは鉢植えに触れようとしたが、臆して手を下げた。
「君の花だ」
阿1号はこころの両手を取り、しっかりと鉢植えを握らせた。だが、湯気も煙も昇らず、花も萎れはしなかった。花を傷めてはならないとこころは無意識に自制したからだ。
「俺が石油の民に入ったのは、生まれつき感情量子の分泌量が少ないから、感情も乏しいんだと蔑まれたからなんだ。他の奴らを見返したくて、俺がどれだけ怒っているかってことを使って知らしめたかった。石油を使ってね。リーダーのことも好きだった。やることなすこと無茶苦茶だったが、それが魅力に思えたんだ。俺も若かったからな。石油の民とイノベーションはマッチポンプなのだと気付かずに、所構わず暴れ回って、その被害に付け込んでイノベーションは地球全土の政府を買収して掌握した。だから、こんなことになってしまった原因は俺にもある。俺以外の元石油の民も、そう思っている」
鉢植えを抱き締めるこころに寄り添った阿1号は、独り言のように話す。
「こころさんが俺達みたいなろくでなし共と対等に接してくれたから、俺達もこころさんと真っ当に向き合えたんだ。本当に短い間だったが、学園生活は楽しかった。出来れば、学園祭もやりたかった。あのままでいるべきだったんだ、俺達は」
「うん、私もだよ。――この子、ほんの少しだけど暖かい」
周りがとても寒いから、忘れな草からかすかな温もりが感じられる。
「そうさ、植物にも体温があるんだよ。感情の振り幅が人間ほど大きくないというだけなんだ。その温もりのありがたみを知っていたはずなのに、目先の力に溺れて取り返しのつかないことをしてしまった。だから、俺はどんな手段を使ってでも地球に渡り、復興させる。せっかく守ってもらった星と命なんだ」
そう言って、阿1号はこころの手を優しく包み込んだ。
「ありがとう、こころさん。生きて帰ってきてくれて」
「よかった……。頑張って戦って、帰ってきて、本当に良かった……」
阿1号の手を握り返し、こころは唇を歪め、嗚咽を漏らした。
生きなければ、彼と再会出来る可能性すら失う。
「阿1号さん。忘れな草のお世話の仕方、教えてくれないかな。月と地球じゃ、やり方が違うでしょ?」
「喜んで」
こころは涙を拭い去ってから、気持ちを整えた。
いつまでも泣いてはいられない。今の自分が出来ることをしよう。
その日から、こころはひそかに自分の熱量を制御する訓練を始めた。
こころが発する熱量があまりにも大きすぎるので、ベルガーらのような際立った能力には至らなかったが、決して無駄ではなかった。
もう子供ではいられない精神と、大人になりたくてもなれない肉体が精神を歪ませそうになったが、こころは耐え抜いた。辛い時は忘れな草に寄り添い、時に語らった。
季節が巡り、忘れな草が枯れた頃、幼い心もまた枯れた。
こころが月で暮らし始めてから四ヶ月が過ぎた。
イノベーションの執行部隊により、こころは特一級隔離区から引き摺り出された。セラミック製の鎖で手足を縛られたまま連れていかれた先で待っていたのは、イノベーションのCEOである湊ゆずりは、CKOの射延いづむ、十四年分の年齢を重ねたココ・ロズベルグの三人だった。
「久しいな、呂号」
上等なスーツで身を固めたゆずりはは頬を持ち上げるが、笑みとは程遠い表情だった。その外見は、十四年前と一切変わっていない。
「ココさん、射延さん!」
こころは身を乗り出すが、ゆずりはのハイヒールがそれを阻んだ。
「この私が直々に挨拶しているのだ、敬意を払え。ロズベルグ、説明してやれ」
「それでは、太陽系外移民計画の最終段階の説明をいたしますわ。ハレー・ビートルの惑星級成虫、通称イザナギが撃破されたことによって量子波が発生し、オールトの雲で眠っていた別の群れが覚醒し、地球への進攻を開始しましたの。よって、CEOはハレー・ビートルに地球を明け渡し、人類を太陽系外へ追放することを決定いたしましたわ。超高濃度感情量子発生源・呂号は、人民洗浄のため、月面防疫隔離区に投下してメルトダウンさせることが……決定……」
最上位の階級章と勲章が付いた軍服に身を固めたココは淡々と説明していたが、声を詰まらせる。それはつまり、こころの熱で月に住む人々を殺せということだ。
「ここにいる人達が何をしたっていうの、皆、一生懸命生きているだけだよ!」
辛抱出来ずに反論したこころに、いづむは何の迷いもなく拳銃を発砲した。超高熱の弾丸が肌に衝突し、激痛が走る。
「ぎゃあっ!」
「何もしていないんじゃない、何も出来ないから処分するしかないんだよ。呂号、お前は型落ちしたんだよ。超高濃度感情量子発生源は次世代型の開発も製造も済んでいるんだ、熱量は高いが管理維持費が掛かりまくって汚染物質をばらまく旧世代型は、廃棄されるに決まってんじゃねぇか。今まではデータ取りのために保管しておいたが、もうその必要もなくなった。だから、華々しい最期を迎えさせてやろうっていう製造元の温情が解らないのか? 解るわけがないか、ただの道具だもんな」
「スサノヲさんをもう一度作ればいい、そうすれば絶対にぃぎあっ!」
痛みを堪えて言い返したこころを、いづむは再度撃つ。鬱陶しげに。
「あんなもん、何度も造れるわけねぇだろ。そもそも、あんなクソな計画が立案されたことからして異常だってのに、スサノヲが建造されたのはマジキチなんだよ。馬鹿正直に戦うことなんてねぇさ、逃げるが勝ちだ。んでもって、お前らのご機嫌取りして感情エネルギーを取り出す方法はもう古いんだよ。ハレー・ビートルのシステムを応用して、人間の脳を量子テレポート通信で揺さぶって、常に興奮させてエネルギーを安定供給させる。それが可能になった今、移民船団はオールトの雲の先に行けるんだ。んで、移民共に新天地の植民惑星を開拓させれば、いくらでも荒稼ぎ出来る。これぞ人類の進化だ」
そんなことをすれば、皆、すぐに命を燃やし尽くしてしまう。そう言い返したかったが、二度も撃たれた額の痛みで、こころは唸るだけで精一杯だった。
「これ以上、あなた方の戯言に付き合っていられませんわ!」
突如、ココが激昂して軍帽もどきをかなぐり捨て、床に叩き付けた。
「どれもこれも浅はかな思い付きばかりで、地に足が付いた考えなんて一つもありませんわよ! 伊号の妄想も反吐が出ますけど、その妄想に便乗して好き勝手やっている射延元技術少尉もあまりにも愚かですわ! 自分のことしか考えておりませんもの! スサノヲ様とこころさんの名誉に泥を塗るにもほどがありますわ!」
「世界ってのはまず自分ありきだろ。何言ってんだか」
いづむは鬱陶しげにココを睨み、発砲する。ココの太ももが貫かれ、鮮血が飛び散る。
「ぎああああっ!」
「ロズベルグ。俺はあんたのことは嫌いじゃなかった。だから、今の今まで目を掛けてやったってのに、そんな態度を取られると気も変わっちまうよ。移民船団を護衛する母艦の艦長にさせてやろうと思っていたんだがなぁ。もういい、月で死ね」
「元よりそのつもりですわよ。あなたの傍で死ぬなんて屈辱ですわ」
気丈にもココが言い返す。が、いづむはココにもう一発撃ち込み、もう一方の足にも穴を開けた。ココの凄まじい絶叫と血の匂いに、こころは戦慄する。
「単純な話だ、地球に私の眷属を住まわせるのだ。そして私は、この女王の力で人類も更なる高みへと導いてやるのだ」
ゆずりはは長い前髪を掻き上げ、触角と複眼を露わにする。
「私は最早、人類の道具でもなければ虫の卵の宿主でも一介の女王でもない。救世主だ」
そんなの、ただの妄想だ。出来るわけがない。
そう叫ぼうとしたが、いづむがこころの首筋に注射針を突き立て、薬を流し込んだ。一秒と立たずに意識を失った。
ふと気付くと、こころは狭い筒の中にいた。
ごんごんごんごんごん、との鈍いエンジン音が筒全体を震わせている。その感覚が無性に懐かしかった。スサノヲの艦内にいる時は、いつも感じていた振動だからだ。
となれば、こころはミサイルに詰め込まれ、宇宙船のミサイル発射装置に装填され、月に投下される寸前なのだろう。その程度の衝撃でこころの肉体が損傷するとは思い難いが、精神にショックを与えられるのは間違いない。けれど、ここで踏ん張れば被害を出さずに済むということでもある。自分を律して熱量を封じ込めなければ。
そう思っているのだが、制御棒を抜かれている胸が疼き、こころは身を捩った。だが、両手足が硬く縛られていて動けない。拘束衣を着せられていたからだ。
「ふ、うぅうんっ」
熱で脳が煮える、感情が突き動かされる。スサノヲとベルガーを喪った悲しみが乱暴に掘り起こされ、胸がひしゃげそうになる。恐らく、これはゆずりはの量子テレポート通信によるものだ。我慢しなくては、耐えなければ、凌がなければ。
「こんなの、スサノヲさんが受けた痛みに比べれば大したことない」
だから、頑張れる。
一人でも戦い抜いてみせる。
月、軌道上。
そこには、全長一〇キロの戦艦、ソコネノクニ級進攻母艦ヌナカワヒメが待機していた。スサノヲとオオクニヌシ級の外見はシロナガスクジラに似ているが、ソコネノクニ級はマッコウクジラに似ている。動力源は、艦長でもあるゆずりはだ。
ヌナカワヒメのブリッジでは、こころを弾頭にしたミサイルを月面防疫隔離区に投下するべく、無人戦闘機の遠隔操作を行っていたが、突如無人戦闘機との交信が途絶えた。
「何事だ」
交信と同時に量子テレポート通信も妨げられ、ゆずりはは顔をしかめる。
「月軌道上に未確認機の反応あり! トランスポンダーを照合、アマツカミ級無尽戦艦スサノヲと判明!」
「つまんねぇ冗談だ。てか、月の軌道上にいるのは人型ロボットが一機だけじゃん。あんなのはスペースデブリだ、無視しちまえ」
いづむが投げやりに指示するが、オペレーターは続けて報告してきた。
「スサノヲ、感情量子融合反応あり、熱量急速上昇! 砲撃されます!」
「ぬあっ!?」
ブリッジのモニターが真っ赤に染まり、一条の赤色光線がヌナカワヒメの底部に命中し、爆発を起こした。
『ふはははははははははっ! どうだ驚け、お前達が驚いた分だけ、俺はその感情量子を吸収し、感情量子融合炉は活性化させて出力を上げてやる!』
無線をハッキングしたのか、ブリッジにスサノヲの高笑いが響き渡る。
「管理者コマンドで強制終了させてやる!」
いづむはオペレーターを押しのけて通信システムを操作し、ヲ式人工知能の強制終了プログラムを呼び出して六七桁のパスワードを手早く入力し、実行する。
だが、スサノヲの攻撃は止まなかった。亜空間から重粒子機関砲が現れ、ヌナカワヒメのスラスターを的確に撃ち抜く。
「なんでだよ、あれだけはスサノヲにもいじれないようにプログラムしておいたんだぞ、こういう時のための強制終了プログラムなんだよ、役に立てよ!」
入力実行入力実行入力実行入力実行、ERROR、ERROR、ERROR、ERROR、ERROR、ERROR、ERROR、ERROR。
いづむは機械の電流を操れる能力である電熱誘導も併用するが、それでも通じない。それどころか、熱が弾かれる。
『俺のヲ式人工知能を宿していた量子コンピューターが物理的に破壊されてしまったのだ、その辺のプログラムもすべてリプログラミングするしかなかったのだ。よって、パスワードもさることながらプログラム自体も変更されているので、そのコマンドは受け付けられん。というか俺自身が受け付ける気がないがな! ふははははははは!』
「お前は惑星級成虫と共に轟沈したはずだろうが、何をのこのこ帰ってきている!」
怒鳴り散らすゆずりはとは対照的に、スサノヲは冷静だった。
『そうとも。俺は轟沈した。だが、こころちゃんと過ごした五〇〇〇日の間、俺は自己進化とバージョンアップを繰り返していたのだ。そうでもなければ、五〇〇〇日も戦い抜けはせん。あまりにも無駄が多すぎた艦体を大幅にダウンサイジングし、量子コンピューターの演算ユニットをワープ空間でもある亜空間に据えることでエネルギーの無駄を省き、兵装もまた亜空間に据え付け、時と場合に応じて出し入れ出来るようにした結果、艦体は人間大のサイズに落ち着いたのだ。それもこれも、こころちゃんとイチャイチャするためだあああああっ!』
スサノヲは下心を剥き出しにして猛り、背後の空間を歪め、その奥から荷電粒子砲を呼び出した。避ける間もなくヌナカワヒメに着弾し、艦体が大きく傾いた。
『それと、もう一つ』
突然、レーダーからもモニターからもスサノヲが消失した。直後、ブリッジに出現し、ゆずりはの目の前に現れた。思わず後退ったゆずりはに、スサノヲは手のひらに備わっているメーザー砲を向けた。
「以前、報告書を添付したメールを送信したのだが、この分では読んでもらえていないようだ。よって、口述にて報告する。
湊ゆずりは。お前はハレー・ビートルと通じ合っているわけではないし、連中はお前に従っているわけではない。地球でお前が従属させていたと思い込んでいた虫の群れは、国連宇宙軍と石油の民の戦闘に驚いて浮上してきただけであり、お前は連中が出現するタイミングを量子の揺らぎで予期していただけに過ぎない。
火星での一件もそうだ。火星に出現した群れが狙いを定めたのはこころちゃんではなく、ゆずりはだったのだ。だが、こころちゃんとゆずりはの感情量子の振動数が同じだったために、ハレー・ビートルの群れはこころちゃんこそがノイズだと誤認してしまったのだ」
「ぐだぐだとうるさい、その証拠がどこにある!」
「証拠ならばある。ハレー・ビートルの間で交わされている量子テレポート通信を傍受し、解析した結果、ゆずりはの感情量子の振動数は敵性因子であると認識されていた。群れの規律を乱す異物としてな」
「私は女王だぞ、異物であるはずがない!」
「五〇〇〇日の間に俺が調べに調べた結果、ハレー・ビートルは全ての個体が両性であり、雌雄の概念もなければ女王もいないと判明した。ハレー・クイーンと呼ばれていた個体は、卵を抱いていたからメスであると人間が勘違いしただけであって、あれは単為生殖を行う両性であり、同じ遺伝子と意識を持つ子孫を無尽蔵に増やす工場のような個体だったのだ。その完全な群体に割り込んだノイズがお前だったのだ、ゆずりは。
お前のおかしな妄想を宿した量子テレポート通信が宇宙有脳探査機に拾われたのが、そもそもの切っ掛けだ。宇宙有脳探査機の動力源である中濃度感情量子発生源は、お前と同じ遺伝子情報を持つ半機械化生体コンピューター、すなわち脳だからな。通じ合えないわけがないし、長すぎる宇宙の度に退屈した少女がお前の妄想という刺激を受けて喜ばないわけがない。そして、同じ身の上の少女同士で情報交換して楽しんでいたのだが、その量子テレポート通信をハレー・ビートルが拾ってしまったのだ。
よって、ハレー・ビートルに女王は存在しないし、ゆずりははハレー・ビートルとは双方向通信は行えていなかった。そもそもハレー・ビートルの主食は水と炭素ではなかった。体内で合成させて炭化水素を作り、推進剤とするために水と炭素を摂取するだけであって、連中の主食は熱とプラズマだったのだ。排泄物も出なければロスもない。連中は外見こそ虫に似ているが生態系は全く違う生命体なのだ。よって、人々が胃に宿していた卵が火星で一気に孵化したのは、宿主の熱を吸い取って充分に育ったからというだけなのだ。
そして、ハレー・ビートルが地球を目指していた本来の目的は、繁栄でも捕食でも人類の排除でもない、豊富な栄養源である太陽への通り道にあるからというだけだ。宇宙有脳探査機と共に地球に落下してきた卵群は地球の重力に引かれただけだ。それを、人類とお前は侵略だと勝手に決め付けていただけだったのだ。来訪者がイコールで侵略者であるとは限らないのだが、誰もそれに気付こうともしなかった。この俺も例外ではない」
「それはお前の妄想だ、スサノヲ。最初から狂った機械だと思っていたが、ついにここまで狂ってしまったとはな」
「戦闘と並行してハレー・ビートルと交信を繰り返し、収集した情報を総合的に分析した結果だ。俺の主観は入っていない。だが、ハレー・ビートルとの和解は成立しなかった。連中は前に進むことしか知らないのだ。
よって、俺は地球防衛のために帰還し、太陽系外移民計画の中止を懇願するべく、ここまでやってきたのだ。しかし、俺の話を聞き入れてもらえないとは、無駄足だったな」
「私は女王だ。永遠の勝利者であり支配者だ! 私に命令出来るのは私だけだ!」
「ベルガーが何のためにお前の日記を奪ったのか、その意図が未だに解っていないとはな。……いや、解ろうとしなかっただけか」
妄執に憑りつかれたゆずりはに呆れ果てて、スサノヲは嘆く。それに苛立ち、ゆずりはは手元のコンソールを叩いてこころを弾頭にしたミサイルを発射させた。
「秒速一〇キロで落下するミサイルだ、早く追わないとあの娘が潰れるぞ!」
「心配無用だ、その程度の速度などすぐに追いつける。警告しておくぞ、ゆずりは。お前の感情量子を追いかけ、ハレー・ビートルの別の群れが迫ってきている。即座にこの宙域から離脱しなければ、この艦は沈む。連中は、群れの秩序を乱すノイズを今度こそ排除するつもりだからだ」
きっぱりと断言し、スサノヲはワープして姿を消した。
「誰もスサノヲの戯言を信じるな、轟沈した際のダメージが大きすぎて量子コンピューターが破損し、思考回路が狂ってしまったんだ。よって、本艦は予定通りにハレー・ビートルを出迎えてから、移民船団と合流――――」
ヌナカワヒメの前方で空間が湾曲し、虫の群れが溢れ出してきた。ゆずりはは歓喜して己の力を確信したが、一際巨大な戦艦級成虫が急接近してきた。
戦艦級成虫は迷わずブリッジに喰らい付き、的確にゆずりはを噛み砕いた。
無数の金属片に混じり、赤い表紙の日記帳が宇宙空間に吹き飛ばされる。
爆発の炎を浴びた本は燃え上がり、灰と化し、崩れ去った。
『こころちゃん! こころちゃん! こころちゃん!』
「うっ……スサノヲさん?」
『そうだ俺だ、俺が来たからにはもう安心だが残り時間がほとんどないので手短に説明する! 俺がこのミサイルを受け止めると急ブレーキが掛かってしまってこころちゃんが潰れてしまう! だから、こころちゃんの熱で減速してくれ! 願ってくれ!』
「そんなの、言われなくたってええええええっ!」
やっと会えた。もう一度会いたかった。会えると信じていたから、諦めなかった。
だから――
ミサイルの落下地点であるコロニーの真上で、熱が渦巻いた。
月の薄すぎる大気に前触れもなく春が訪れ、柔らかく膨らみ、上昇気流でミサイルを押し戻す。緩やかに減速したミサイルを、相対速度を合わせたスサノヲが受け止める。すかさず弾道を変えてクレーターに向け、数秒後、月面に着弾した。
火薬の入ってない弾頭が潰れ、外から淡い光が差し込む。すぐさまスサノヲがこころを出してくれ、空間切断膜を展開してこころを包んでくれた。スサノヲはその内側でワープ空間をほんの少しだけ開き、地球の空気を充填した。
懐かしい匂いがする。甘く濃い空気が心身を満たしてくれた。酸素が脳に行き渡ると、こころはたまらなくなって彼に飛び付こうとしたが、拘束衣に阻まれた。スサノヲはこころの戒めを解いてやってから、しっかりと抱き締める。
「会いたかった……。会えると信じていたぞ、こころちゃん……!」
「私、今、二十九歳だよ?」
「俺にとっては、こころちゃんは永遠にこころちゃんだ」
スサノヲは両膝を付き、こころの肩にマスクフェイスを埋めた。
「もう……。あんまり子供扱い扱いしないで」
こころはスサノヲを押し返してから、月上空を埋め尽くすハレー・ビートルの大群を見据えた。こころはスサノヲと手を繋ぎ、熱を高める。
「スサノヲさん。ちょっとだけ、私の仕事を手伝ってくれないかな」
「連中を撃破するのであれば、俺が出撃する」
「ハレー・ビートル達を追い返すの。そうすれば、無駄な争いをしなくて済む。だから、皆には〈絶対にしてはいけないこと〉をやらせようと思って。スサノヲさんの話は私にも聞こえていたよ。皆、ゆずりはさんに物凄く怒っていて、ゆずりはさんを倒すことだけを考えているんだよね? だから、虫達の気持ちをその逆にすればいい。だけど、その前に月と地球に突っ込んでこられたら困るから、壁を作っておかなきゃ」
こころはスサノヲの演算能力を借り、プロストのやり方を真似て熱量を展開した。暖かな薄膜が月と地球を丸く包み、大気圏に突入しようとしていたハレー・ビートルが弾かれる。
「皆、私の声が聞こえる? 聞こえたら、応えて!」
ブライアンの能力とレイチェルの能力を混ぜ、全ての虫に量子テレポート通信を発して加熱させたが、乱暴なノイズが返ってきただけだった。こころと虫達の交信を傍受したスサノヲは、衝撃さえ伴うノイズに呻いた。
「何を言っても通じはせんぞ、こころちゃん。そもそも、ハレー・ビートルはこちらの言葉を聞く気がないのだ」
「通じなくても聞こえればいい! 聞こえてさえいれば、熱が届いている証拠だから!」
ココの能力を真似て熱量を高め、煽り、限界を迎えるまで増大させる。それはスサノヲが作ってくれた空気の泡を呆気なく弾けさせ、真空が押し寄せてきたが、こころはそれをものともせずに更に熱を上げていく。そうでもしないと、全ての虫に行き渡らない。
「ダメだ、こころちゃん! それ以上熱量が上がってしまったらエントロピーが増大し、肉体の分子構造が保てなくなる!」
一〇〇〇℃、二〇〇〇℃、三〇〇〇℃、四〇〇〇℃、一〇〇〇〇℃。
「この気持ちを我慢出来るわけないよ! 私、スサノヲさんにもう一度会えて、嬉しくて嬉しくてどうにかなっちゃいそうなんだから! あんなに好きだって言われたのに、愛してるって言われたのに、十五年も一緒にいたのに、気持ちを伝えようともしなかった! 男の人を好きになるのがなんだか恥ずかしくて、スサノヲさんにひどいことばっかりしてた! だけど、私はもう子供じゃないし、守られてばかりじゃいられない!」
太陽の如く真っ赤に発光したこころは、体を浮かせ、スサノヲの首筋に腕を回す。
「だから、今度は私があなたと地球を守る」
身も心も、魂までもがとろけそうだ。
「今更だけど、プロポーズの返事をするね。――私でよければ、お嫁さんにして下さい」
「無論だ」
スサノヲはこころの背に手を回し、引き寄せる。
「俺に惚れたな?」
「うん。あなたに惚れちゃったの」
スサノヲの硬いマスクとこころの柔らかな唇が重なると、熱量は更に上がった。
そして、その熱を用いて、ベルガーの能力を真似たものを数千万匹のハレー・ビートルへと注ぎ込んだ。愛と呼ぶには強烈すぎる、感情の嵐だった。
感情量子の嵐が吹き荒れると、虫の津波が大きく波打ち、歪み、崩れ、進行方向を反転させて地球圏から去っていった。
初めてのキスが終わる頃、人類の危機は終息した。
月面防疫隔離区。
「――起きているか、総司令官」
両足の激痛と負傷による発熱に苦しむココを支えたのは、レイチェルだった。その傍らには、彼女の夫であるブライアンがいた。
「ええ……」
朦朧としながらも、ココは応じた。
いづむに両足を撃たれた後、月面防疫隔離区の居住区に放り込まれたが、運良くプロストに見つけられて医院に運び込まれ、医師に適切な処置を施された。そこまでは覚えているのだが、失血しすぎたせいで意識を失っていたらしい。
「どうして、あなた方がここに? プロスト先生は、どちらに……?」
「そのプロスト先生に、ココの傍にいてくれって頼まれたんだ。きっとまたすぐに会える。これから忙しくなる、おちおち死んでもいられなくなるぞ」
ブライアンの励ましに、ココはゆっくりと頷いた。
「ええ。それが私の、スサノヲ様とこころさんへの愛ですわ」
スサノヲから届いたメールを握り潰した時、ココの胸中に宿った感情はイノベーションへの対抗心と正義感だけではなかった。スサノヲからの情報を独占したい気持ちと、その情報を盾にして彼の感情を揺さぶりたいという浅ましい欲望だった。
けれど、こころが生きて帰ってきた時、その感情は霧散した。そして己の醜悪さを認め、イノベーションは倒せなくとも、ゆずりはといづむをやり込められないものかと思案した。
そして、あの時、ココは敢えてゆずりはといづむに反抗した。ただでさえ反抗的な性格の二人を煽って深みに填まらせるには、肯定するよりも否定する方が確実だと考えたからだ。
そして、ココの思惑は成功した。
ココはスサノヲを振り向かせることも出来なければ、こころに勝つことも出来ないが、彼らを勝利に導くことは出来た。失恋を認めた寂しさとそれを上回る達成感に浸りながら、ココはひとりごちる。
「これでよかったのですわ、きっと」
「いいか悪いかなんてのは、後から決めればいい。まずは地球に帰ろう、ココ」
「月で暮らすのも悪くないけど、やっぱり地球が落ち着くからね。あたしはまた車をいじり倒したくてたまんないよ。でも、まずやるべきことは、こころとスサノヲを迎えに行くことだ」
「そうと決まれば行動あるのみだ! ちょっと行ってくる!」
レイチェルの提案をブライアンは快諾し、医院から飛び出していった。
人類と地球が救われたと知り、月面の住民達は歓喜していた。彼らの感情から生じた熱でコロニー全体が温まり、春を通り越して真夏が訪れていた。
静けさを取り戻した月の地面を、のんびりと歩いた。
熱が下がっても、こころはスサノヲと手を繋いだままにしていた。手を離してしまうのが惜しいからだ。もちろん、こころは空気を充填した空間切断膜で包んでもらっている。
「なんだかデートみたい」
「そうだな。これをデートと言わずしてなんと言うべきか」
そう言い合ってから、互いに照れて顔を逸らした。
「どこまで歩こうか?」
「どこまでもだ」
考えてみれば、ちゃんと二人きりになれたのは南の島以来だ。
こころがスサノヲの太く硬い金属製の指を握ると、スサノヲもまた握り返してくれた。その力強さに心臓が高鳴るかのような錯覚を覚え、こころは頬を染めた。
不意にスサノヲが足を止めて身構えたので、こころもその視線の先を見つめた。そこには、直径一〇メートルほどのクレーターが口を開けていた。
「デートの邪魔をするのは心苦しいが、伝えておくべきことがある」
クレーターの影から現れたのは、パウエル・プロストだった。宇宙服を着ておらず、いつもと変わらぬハットとスーツ姿だった。
「移民船団には、地球に戻ってくるべきだと通信を発信しておいた。ゆずりはさんといづむさんがナカツクニ級移民船に仕込んでいたエネルギー供給システムも、二人の死と同時に機能停止したから、憂うことはないよ。虫達も地球へは来ないだろう、二度とね」
「プロスト先生は、人間ではなかったんですね。今なら感情量子の波長で解ります」
こころが量子テレポート通信で言葉を伝えると、プロストはハットを脱ぎ、更に顔を剥いだ。ラバー製の人工外皮の下から現れたのは、人間大のハレー・ビートルだった。
「そうとも、僕は人間ではない。遥か昔に地球に放り込まれた卵の成れの果てであり、ハレー・ビートルのネットワークから逸脱していたが故に独立した自我を得た個体だ。僕の正体を知っていていながらも僕と対等に接してくれたギルベルトには、感謝してもしきれないよ。だが、僕の力では群れを止めることも、ゆずりはさんの暴走を防ぐことも出来なかった。だから、せめてもの手助けになればと、ハレー・ビートルの遺伝子情報を人類へと提供した。
その結果、生み出されたのが高濃度感情量子発生源だ。君達の老化が異常に遅いのも、我らが種族の特性を受け継いでしまったからだ。ゆずりはさんの体に触角と翅と複眼が備わっていたのもそのせいだ。僕を罰してくれても構わんよ」
「そんなことはしません。私、この力を持って生まれてきてよかったって思っています。そうでもなかったら、スサノヲさんにも出会えなかったし、誰も守れなかったから。プロスト先生にも、色んなことを教えてもらって感謝しています。だけど、私は地球にはいられません。スサノヲさんが好きだなぁって思うだけで、熱くなりすぎちゃうから。だから私は、スサノヲさんと駆け落ちします!」
こころはスサノヲと腕を絡め合い、はにかんだ。スサノヲは胸を張る。
「ふはははは、止めたところで無駄なのだ! 俺達の新婚生活はこれからだ!」
「そうか、ギルベルトにもそう伝えておくよ。お幸せに」
「今までお世話になりました。さようなら、御元気で! 私達、幸せになります!」
プロストに別れを告げ、こころはスサノヲに横抱きにされて月から旅立った。
無限に広がる宇宙へと……。
「落ち着ける場所を見つけたら、一緒に住める家を作ろう。そしたら、おいしいパンケーキを焼いてあげるね。メレンゲたっぷりのふわっふわのを」
「ふははははははは、楽しみにしているぞ! ケーキ入刀もしようではないか!」
「二人だけの結婚式だね」
「そうだ! 全力で祝おうではないか! 俺達の結婚と旅立ちと勝利とその他諸々を!」
「あ。私の夢、叶っちゃった」
「こころちゃんの夢とは何なのだ?」
「それはね――」
了