シダは、ない。音も、ない。/足跡 〈淡水のクルジアナとルゾフィカスは、誰がつけた?〉
水面に浮かぶ頼りない木道は、湿原のさらに奥、もう少し先まで続いている。
空はすっきりと晴れ渡り、夏の盛りを過ぎた日差しが冷え切った大地に熱を与えようとしている。しかしその熱はツンドラの凍土を温めきることはできず、ただ虚しく吸い込まれていくようだった。
揺れる木道の上から見渡せば、網の目のように張り巡らされた茶色い水の道が、灰緑色をした植物の「島」の間を迷路みたいに駆け巡り、無数の小さな池を繋いでいた。
灰色と茶色が支配する風景の中で、池の水面は角度によって時折、空の青を鮮やかに反射する。しかし一歩進んで角度が変わると、またすぐに黒々とした茶褐色の泥水へと還ってしまった。
立ち止まる。
音は、ない。
ここが現代のシベリアの湿原であれば、せめて鳥のさえずりや羽ばたきの音があっただろう。
しかし、石炭紀の極地の空に、鳴くものは何一ついなかった。
「ほんっとに、静かね!」
アリアの明るい声が、絶対的な静寂を切り裂いた。
「そりゃ、そうでしょ。だってカエルだってまだ進化していないんだから」
私は周囲を見回しながら答えた。
「虫一匹鳴いてないし、恐竜ももちろんいない。動画を見たら『ぜーんぜん、何もいないじゃん!』って視聴者に言われちゃいそう」
「そんなことないよ。ほら、足元の水の中にカブトエビとホウネンエビならあんなにたくさんいる」
水面をさっと横切る大きな影もあれば、ぐいと水鏡を覗き込んでみれば、霞のように整然と並んだ小さな群れが水中をホバリングしている。
「そうそう、そういうの! わかる人が見たら『いるじゃん!』って喜ぶやつね」
アリアはそう言いながら、リュックサックから水中撮影用のアタッチメントを嬉々として取り出していた。
「いやー、キンッキン!何度だった?これ」
「9度」
「すご!カブトエビってそんな冷たくても生きてけるんだ」
「現生種だとLepidurus arcticusは10度未満じゃないと健康に飼えないよって、極地研に休眠卵届けたときに言われたっけ」
「レピドゥルス?」
「そう、北極圏に棲むカブトエビ。魚が住めないくらい冷たい水にいて、一年中水が枯れない湖沼なんかにも生息してた」
「過去形ね」
「現代の地球じゃ、どこにでも釣り用の魚を放したがる連中がいるから、どうにもならないよ。捕食されるし、地球温暖化で水温が十五度を超えると病気になって死んじゃうから、彼らが住める冷たい場所がなくなったってのも大きいけどね……。二十一世紀の初め頃までは通年水のある湖にもいたらしいよ」
「へぇ……!」
「ま、それはそうとして、この景色、植物は全然違うしヒグマもムースもいないし北と南の極地がまるで逆だけど……現代のツンドラ湿地にちゃんと生態系として繋がってるんだなぁ、って実感するよ」
しかし、アリアはいまいち釈然としない様子だった。
「うーん……私、こういう景観って過去の時代で他に見たことないかなって思ってたんだけど」
「そう?」
「こんなに寒い湿地を本格的に調査したことないかも。ま、私のフィールドは中生代の温室世界ばかりだからかな、あはは。……北極でも南極でも、中生代の夏は青々とシダが茂ってて、でも冬になると白夜の反対で延々と暗い、って感じだし。あ、ここの違和感わかったかも。シダがない! ぜんっぜん、ない!」
「あ、たしかに。リンボクっぽい小葉植物とかトクサとかを広義のシダと言っちゃうならいっぱいあるけど、いわゆるシダらしい大きな羽状の葉っぱは、さっきの木立にしかないね」
「そうそう!あのなんていうか?わさっと茂ってるシダの茂みが、ぜんっぜんない。」
「うん、ここに来てからいまだに、シダらしいシダを一種も見てないよ。変な、胞子で増える植物、ならあったけど」
見渡す限り、毛が生えた杭のようなBumbudendronと、スギナやミズトクサそっくりなトクサ類、その間にセンダンやニワウルシに似たAustrocalyxaceaeの低木が立ち並んでいて、ところどころに成長不良をきたしたNoeggerathiopsisの木立があるのみである。そこに、シダのロゼットの姿は、一つもなかった。
あるいは、シダがないからこそ、立ち並ぶトクサ類やBumbudendronがあたかも芦のように見えて、そこまでの違和感を持たせなかったのかもしれなかった。
「私にとっちゃこの風景が当たり前だけど、他の時代は全然違うのね!」
と、リリィは目を丸くして言った。彼女はこの石炭紀の植民市で生まれ育ったのだ。
「現在の地球の森ならまず、鳥の姿が見当たらないことはないし、必ずと言っていいほど鳴き声がするよね」
私が言うと、リリィは興味深そうに身を乗り出した。
「図鑑のデータでしか見たことない! 鳥って、どう鳴くの?」
「チチチチチッ、とか、だいたいはそんな感じ。もっと複雑で綺麗な鳴き方もあるよ。それを文章でそれっぽく真似たり。ほかにも、カタカタと嘴を鳴らしたり……」
「待って、それって人間みたいに『喋る』ってこと?」
「それはね、気管に笛みたいな構造があって、筋肉で制御しながら息を通すと、ピーって鳴るでしょ? あれと同じ原理」
「ヒトもまあ、気道の狭窄部位に空気を通して声帯を振動させるって点では同じだけどね」
「うーん、喉の奥に小さなホイッスルが入ってる、みたいなもん?」
そう言いながら、リリィは案内のために胸に下げているホイッスルを取り出して見せた。
「そうそう! 喉の一番下から胸の中にかけて入ってる感じ。人間だと発声器官は喉元だけど、鳥はもっと下の胸元にあるんだ」
「鳴管っていう器官だけど、たしか木管楽器の……えーっと、筒を短いのから長いのまで段々に並べてる笛。あれ、なんて名前だっけ……もシランクスって言ったりするよね」
「フルートかしら? ドビュッシーに『シランクス』って曲があるもの。あれも語源は同じよね!」
アリアが横から口を挟む。
「いや、フルートはキーがついた現代の笛でしょ。あの原始的なやつ、なんだっけ……」
私が思い出せずに悶々としていると、
「パンパイプじゃないかしら?」
と、リリィが助け舟を出してくれた。
「そう、それ。長さが違う木琴の下の共鳴パイプみたいなのをまとめて手に持つようなやつ」
「南米のサンポーニャとかもそんな感じね」
「もともとはインカ帝国の楽器だっけ。同じような構造の楽器が、時代も場所も違う世界中にあるのって、なんか不思議だよね」
「ほんっとそれ! まるで誰かお節介なタイムトラベラーが、過去に行って同じ楽器の作り方を世界中にばらまいたみたい」
「でも、パンパイプなんてあちこち持ち歩くタイムトラベラーがいたら笑っちゃうよ。だってめっちゃ嵩張るじゃん」
「それに、もしそんなことする奴がいたら重罪の大罪人ね! ヒトの歴史と遭遇しうる時代への渡航は、タイムパラドックス防止の観点から条約で全面禁止だもの!」
「あー。どうりでマンモスは、いまだに永久凍土からのDNAでクローン再生されたやつしか見られないわけだ」
実を言うと、私にとってマンモスはすでに「見慣れた生き物」だった。
現代地球では遺伝子からの復活プロジェクトがもう何世紀にもわたり行われていて、今ではアラスカの広大な自然保護区へ行けば、再生されたホラアナライオンやステップバイソン、オーロックス、ケサイあたりとともに群れている姿がサファリパークのように見られるのである。新たな環境に適応した氷河期の動植物の生態変化を観察するため、私は大学時代に何度もそこへ通っていたのだ。
「ま、いるって言っても、ちょっと毛がもさもさで牙が立派なだけのゾウだよ? 現代のアフリカゾウと比べてそんなにバカみたいに大きくもないし」
私が水を差すと、アリアは不満げに唇を尖らせた。
「いやま、そうなんだけど、やっぱ本物を見たいじゃん、氷河期の時代で! いや、見てみたくない? そもそも寒い氷河時代ってだけで、ロマンじゃない!」
「まぁ、アラスカにでも行けば……現代の地球も氷河時代の間氷期なんだから、じゅうぶん寒いし。ま、でもスケール感は全然違っただろうね。こんな感じで、海水面が思いっきり下がった巨大な湿地とツンドラ草原が、うわーっと地平線の先まで広がっててさ、きっと」
「そうそう。やっぱでっかい景色には、デカい獣、じゃん?」
アリアは腰に手を当てて、自慢げに言った。
「でっかいって、恐竜はどのくらいなの?」リリィが尋ねる。
「うーん、種類にもよるけど、装甲車やバスよりはデカいかな」
「そんなの、こんな湿地を歩いたら自重で泥に沈んじゃうんじゃない?」
「それが沈まないんだなー、これが」
そうこうしているうちに、木道は終点。
その先は、ちょっとした岩山になっていた。
ごつごつとした岩場の先には、白い湯気が上がっている。
「この先、いい温泉が湧いてるのよ。足湯だけでも、ちょっと寄ってかない?」
リリィの提案に頷きかけたが、私は不意に立ち止まり、木道の脇をじっと覗き込んだ。
目線の先には、足首ほどの深さのちょっとした浅い水場があった。
えぇ。そこにいたのはやっぱり、カブトエビである。
「またカブトエビ?」アリアが呆れたように言う。
「浅いし、足跡(這い跡)を見やすいかなーって思って」
私はそう言って、さらに水面へ顔を近づけた。
「カメラ、出すべき?」
「うん、これは学術的にとても興味深い映像になるよ」
その浅い水たまりにいたのは、先ほどの深い池と同じ、カブトエビとホウネンエビ、カイエビ、そして謎のユーシカルシノイド類だった。
「さっきの湿原の池とおんなじじゃない」
アリアはそう言うが、私はファインダーから目を離さずに首を振った。
「種類が違うよ。こっちのカブトエビはちょっと甲羅の幅が広いし、尻尾の肛上板の形が少し幅広になってる。ホウネンエビも、さっきのやつよりずっと頭でっかちで寸詰まりな体型だ。水温もほら、十九度もある。それより何より、ここは水が浅いから、水底の泥についた『足跡』がよく見える」
「足跡って、そんなにすごいの?」とリリィが首を傾げる。
しかし、古生物学の勘所を心得ているアリアは、「そっか! 足跡! そりゃ撮らないと」と一気に燃え上がった。
「つまり、化石として見つかる生痕化石と、それを残した生きた種類の対応を完全につけられるってことね!」
「うん。現生種ですら、足跡と生痕の対応が怪しいものもあるからね。すごく重要な一次資料だよ。しかもここ、適度に柔らかくて形が残りやすい泥質みたいで、水面からクッキリ這い跡が見えてる」
水底には、泥を掘り返した痕が、あたかも小さな二本線の線路かのように残っていた。
中央は少し盛り上がっていて、溝の底には無数の脚で細かく引っ掻いたような跡が夥しく残っている。そして、ところどころ、立ち止まって深く掘り下げたような窪みがあった。
「この線状に長く続く這い跡がクルジアナ(Cruziana)で、深く掘られた休息・摂食跡がルゾフィカス(Rusophycus)だね」
アリアは少し首を傾げた。
「でもそれって、古生代の海の三葉虫の足跡として有名なやつじゃない?」
「うん。でも、残されたカタチは裏切らないよ。形態分類的には、立派なルゾフィカスとクルジアナだ。実際に今ここにつけているのは、三葉虫じゃなくて淡水性のカブトエビだけどね」
「もしかして、歴史的大発見!?」
「いやー、残念ながら。前々から一部の学者の間では言われてたんだよねー。『石炭紀からペルム紀の淡水層から出るクルジアナは、大部分がカブトエビによるものなんじゃないか?』って」
「え、なんで? カブトエビの化石と足跡が、同じ地層の同じ場所から一緒に見つかったの?」
「いや、それが、単に『淡水の地層から出るから、三葉虫じゃなくてカブトエビなんじゃない?』って、状況証拠から推測されてたくらいなんだ。でも、現生種のカブトエビの生態を見てみても、たいてい彼らが住む水田は泥濁りがひどくて足跡なんて観察できないし、そんなに泥を掘削するパワーもないから、『本当にこんな深くて立派なカブトエビの這い痕なんて化石に残るのかな?』って私はずっと疑問に思ってたんだけど」
「見ての通り、くっきり残ってるわね」
「そうそう! 石炭紀の古代のカブトエビのほうが、現生種よりずっとパワフルに泥を掘る生態だったのかも、って今見て確信した。まあ、三億年前のカブトエビが、現代のものと全く同じ生態なわけないもんね……」
「なるほど、ね……。現場の一次情報って大事ね」
「あ、ユーシカルシノイド類も泥に足跡つけてるよ。ディプリクニテス(Diplichnites)型だ。一般的には、巨大なヤスデの這い痕だって言われてる形状だけど」
「え!? じゃあ、あのでっかいディプリクニテスの生痕化石って、巨大ヤスデのアースロプレウラがつけた足跡じゃなくて、巨大なユーシカルシノイド類が歩いた跡だったってこと!?」
「いやいや、足跡化石の形状と生物の分類って、常に綺麗に一対一で一致するわけじゃないからね。だって中生代の恐竜の足跡も、獣脚類なら大抵なんでもグラレーター(Grallator)って名前で一括りに分類されちゃったりするでしょ?」
「今じゃ足跡の解析技術が進んで、ほぼ一対一で科レベルまでは同定できるようになったけど、昔の学問の解像度だとそうよね。恐竜も足跡と種類を対応付けるまでに、ずいぶんたくさん集めて統計をとったもの。めちゃくちゃ頑張ったんだから」
ごつごつとした溶岩質の岩肌を越えると、急に視界が開ける。
岩の隙間に白濁した湯がぼこぼこと沸き、黄白色の湯の華が岩肌に染み出していた。
なるほど。とケイは思う。
ここに来るために、木道が整備されていたのだ。
「せっかくだし、足湯だけでもどう?」
リリィは微笑みながら、湯煙に両手をかざす。
登山靴と靴下を脱いで、湯に浸す。
岩の隙間に白濁した熱い湯がぼこぼこと湧き出し、黄白色の湯の花が岩肌にべったりと染み出している。
なるほど、と私は思う。ここに来るために、あの立派なフロート式の木道が整備されていたのだ。
「せっかくだし、足湯だけでもどう?」
リリィは微笑みながら、暖かそうな湯煙に両手をかざした。
登山靴と分厚い靴下を脱いで、ズボンの裾を捲り上げ、湯に浸す。
冷え切っていた足先に、じん、と少し痛いような温かさが広がり、かじかんだ感覚が溶けていく。
「いやー、いい湯! フィールドワークの後の温泉ってホント、最高。この凍えるような寒い風も、温泉の温かさを引き立てるいいスパイスって感じ?」
アリアが隣で満足げに息を吐く。
「アリア、ほんと温泉好きよね。温泉って、火星のコロニーにもあるの?」リリィが尋ねる。
「ない! だから地球や過去の星の温泉がいいのよ」
「温泉以前に、火星にはそもそも豊かな水がないでしょ」と私。
「そりゃそうね。じゃあ、火山は?」
「あるわよ、すっごくでっかいやつ! 太陽系で一番でかいオリンポス火山。標高二十七キロメートルもあるんだから!」
「二十七キロ!? この星のパラーの近くにある巨大なカレドニア山脈の、四・五倍もあるじゃない!」
リリィの驚愕に、私は思わず噴き出した。
「カレドニア山脈って……。たしかに石炭紀にはまだヒマラヤ山脈は隆起してないけど、比較対象がマニアックすぎるよ」
「火星じゃ地球みたいにプレートテクトニクスがないから、火口の位置が動かないの。だからずーっと同じ場所から溶岩が出続けて、あんなに巨大になったってわけ。……って、私、火星にいた時間より、東京の大学にいた時間のほうが全然長いのよ?」
「ま、日本人のDNAに刻まれた温泉好きは異常だからね……」
その瞬間。
「うわ!」
アリアが大げさにのけぞった。
私たちの温泉の話を聞いていたかのように、ズシン、と地面が下から揺れた。
「震度2くらいかな」私は冷静に言う。
「今週で三度目よ、地震」とリリィが言った。澄ました顔である。石炭紀の南米大陸では、ちょっとした天気の崩れみたいな日常茶飯事であるらしい。
「やっぱ、地面のプレートは活発に動いてるんだなあって実感するよ。巨大なフェニックス・プレートとファラロン・プレートの継ぎ目が、まさにこの南米大陸の西海岸に突き刺さって沈み込んでるんだもん。そりゃ揺れるよね」
「火星には動くプレートって概念も、分かれた大陸って概念もないもの」とアリアが肩をすくめる。
「地表は全部玄武岩でできてるんだっけ」
「そう。プレートが動かないから、オリンポス山も延々と上に高くなるだけ。だから地震も、ほとんどないわね。もし起きたらコロニー総員退避って学校で習ったわ。『数百万年に一度の超巨大噴火の兆候かも!』って」
「そりゃ、日本で地震が起きるたびに、火星の実家から『大丈夫!?』ってヒステリックな安否確認の電話がかかってくるわけだ」
「それはそれよ! だって日本の歴史見たら、地震で大変なことになること、よくあるじゃない?」
「ま、そりゃそういう変動帯の土地だもん。どこを掘っても活断層があるって言っちゃ、過言だけど」
すると、アリアはふと怪訝な目で、目の前の泉源を追った。
温泉があちこちから湧いているラインがあり、そこを境に、ごつごつした岩肌が少しだけ不自然にズレている。
「この温泉、湿原から突然現れたじゃない? もしかして、だけど……この温泉って、活断層の割れ目から直接湧いてる、んじゃない?」
「そもそも、さっきまで泥深い湿地だったのに、直線的にいきなり岩肌が露出してくる地形の成り立ちからして、地質学的に怪しいでしょ、これ」
私たちが顔を見合わせると、リリィはあっけらかんと言った。
「ええ、勿論! 実は最初、今の村じゃなくて、ここに町を建てる計画だったのよ。温泉も湧いてるし、地盤もしっかりとした岩肌だからって。でも、調査したら活断層の直上で危ないってわかって、建設が中止になってね〜」
「危ないって言って中止になった今の町も、ここから二キロと離れてないじゃん……」
「ま、まぁ、ね???」
リリィは悪びれずに笑った。
人類が過去の地球の歴史へ時空を超えて植民を始めてから、五十二年。
この過酷な植民市で生まれ育った新世代は、とてつもなくしぶとくて、そしておおらかであるらしい。




