寒い緑に湯気の街
頭上で甲高い音を立てていたエンジン音が、ゆっくりと冷えていく。
一瞬の静寂ののち。
ぷしゅう、という音とともに、キャビンのドアが開く。
すると、ほんのりとした、硫黄の香りが鼻を突いた。
ヘリコプターから一歩降りると、暑すぎも寒すぎもしない、初夏のごときちょうどいい気温とともに、もわっとする湿気が全身を包み込んだ。
ちょっと伸びた前髪が湿って、ぺとり、と額に張り付く。
滑走路の隙間には、コケ植物がちらほらと見えて、私は靴ひもを直すふりをしてそれを摘み、指先で感触を確かめた――いやもちろん、採集した。
コクピットから降りたリリィは、私が平然としているのを見て、ちょっと驚く。
「あら、ケイは平気なのね、このにおい。私が案内した人で初めてだわ!」
「――慣れてたもので」
すると、リリィは笑いながら、
「宇宙暮らしの人はみんな…アレを連想しちゃうのよ~。」
そう言って、リリィは尻を指さして、パタパタと仰いだ。
「Prrrrr! 昨日話したでしょ? 入植者たちはみんなスペースコロニー出身って。もう、Aldeia do Esgotoなんて呼んじゃうくらいなんだから!」
そう言って、リリィは大げさに鼻をつまんだ。 「……下水の村エスゴート」 「もうアリアなんて最初に来た時「毒ガスじゃない、逃げなきゃ」とか言い出しちゃって」
「Hey, cut it out!(ちょっと、やめてよ!)」
アリアが顔を真っ赤にして、リリィの背中をパシパシと叩いた。
「That’s ancient history!(大昔の話でしょ!)」
するとリリィは 「ケイ、聞いてよ!「やばいよ死んじゃう毒ガスだよ!」って!昔のアリア、もうほんっと可愛かったのよ!」
するとアリアは顔をさらに赤くしながら、反論する。
「だってマニュアル通りじゃない! 『腐卵臭がしたら硫化水素の可能性あり、直ちに低地から避難せよ』って! Basic survival skillよ! リリィなんてきょとんとして、たどたどしく「どく…なの?」だもの!」
どうやら、10歳かそこらのときの話らしい。
姉妹みたいにはしゃぐ姿をみて、つい頬がほころんだ。
――まあ、事実毒ガスだしな、硫化水素。
事前知識があればあるほど、怖くなるものだ。
――というより、温泉の臭いだと言って好き好んで浴びに行く日本圏の人々のほうが、おかしいのである。 私にとっては――やっぱり毒で、そこまでいい気はしない。
知るまでは幸せだったな、と思いつつ、下水管採集巡りなどをするうちに、どうでもよくなってしまったのだった。
探知計が大丈夫なら、それでいいのだ。 そして――肝心の硫化水素計は、まだ手元になかった。
「まず、宿で荷物を回収しましょ!」
リリィの声が弾む。
アリアはといえば、何度も訪れたはずの場所だというのに、初めて来た子供のようにきょろきょろとあたりを見渡していた。
「あー、もう最っ高の気分! 前に来たときはただの学生。今はもう研究者としてここに立ってる」
「私、会社員なんですがその、いちおう」
「立派な探究者かつ研究者じゃない、もっと胸張って、もう…!私は期待してるのよ。ホントに。見えない景色、見せてよね?」
アリアはグイと迫った。
「…善処します…」
「言った通り、まだ研究が行われてるのはパラーどまり。この村には、研究者は入ってない。鉱産用の資源調査がちょっと出て、そこの補遺に書かれただけ。」
「内容は?」
「Ridiculous!「なお、標本は採集しなかった」からの「動植物は今後の研究にゆだねたい」って!今後の研究する材料すらないじゃない!Lazy bums.」
「それ…」
「それが植民市の現状ね。フロンティアのスピードに、アカデミズムがぜんっぜん追いついてない。……ってことは?」
「……やりたい放題だ」
「その通り! 採って採って採りまくって、片っ端から記載していくのよ! 私たちが名前をつけてはじめて、この世界の住人は『それ』が何なのかを知ることになる。……We define the world.」そう言って、アリアはその豊かな胸を張った。
私ははぁ、と、自分より頭二つほど高い彼女の長身を見上げるしかなかった。
――なぜなら、植生を既存の化石胞子記録とどう対応付けるか、という話ばかり考えていたからだ。
「あ、あと」
アリアが思い出したように指を立てた。
「何?」
「港の向こう側は、平日は立ち入り禁止。今日は前哨戦ね。明日が本番、いいね?」
「わかった」
湯気がカーテンみたいに立ち上り、街を、霞が仕切っていた。
正午を少し過ぎた陽が、温かく霞を光らせ、柔らかな光が村全体を、あまねく照らす。
村に張り巡らされた直線的な水路に流れる、温泉からの、湯煙だ。
立ち上がる硫黄の臭いには、もう慣れてきた。
温泉の流れる水路には白い湯の華がこびりつき、場所によっては鮮やかな緑色の藻類か、バクテリアマットが点々と彩っていた。
――あれは、サンプリング材料として実に興味深い。
薄灰色に煤けた建物――というより居住モジュールは、まるで、角砂糖みたいだ。
壁の厚さは――30㎝かそこらはあるのではなかろうか。
滑稽なほど小さな窓は、深く落ちくぼんで、おもちゃの家みたいだった。
覗こうにも、分厚い窓はくすんでいて、中は良く見えなかった。
街のあちこちに、寿命を迎えた機械の数々が、無残な骸を晒していた。
建設に用いられた機械なのだろうか、パーツはもぎ取られ、赤い錆が全身から噴き出して乾いた血のようにしたりおち、赤いつららをつくっていた。もはや、元が何の機械であったのかすら、見当がつかなかった。
足元を見下ろすと、石畳のように見えて、その間にはコケ植物が、隙間からはみ出すようにその、ミニチュアの糸柳のごとき枝を、豪奢に伸ばしていた。
石畳とは、この植民市にはめずらしく洒落ているではないか、と思った。
が、よく見ると角切りにされたコンクリートのようだった。
――なるほど、温度変化による収縮を加味すると、一枚岩では割れてしまうのだろう。石灰岩のまま使われていれば、化石観察も楽しめたのに。
コケを少し見てみよう。
その姿は今のものとほとんど変わりなく、ごく細長い、ヤナギゴケに似たようなものだった。化石で知られるもので言うと、一見したところはペルーのイタラレ層群、氷河性堆積物から知られるDwykeaに似ているが、コケ植物の同定に肉眼ほど怖いものはない。さらに化石記録の保存が荒すぎることもあって、私は一旦化石記録について考えるよりも、現生コケ植物の同定に必要な胞子嚢を探すことに専念しようと、きめた。しかし、少し下を向いただけでそう簡単に見つかるわけでもなく、またあとに回さざるを得なかった。――なにしろ、いまは袋すらろくにないのである。
さっき採集したコケ植物もまた、紙幣を三角折にして、無理やり突っ込んだものだった。
私たちのほかに街をゆく人の影はまるで見えず、村に来た、というよりも、人が滅んだ後の廃墟を歩いているような気がして、ならなかった。
看板の文字は煤け、もはや雨だれのように垂れ下がって、ぼんやりとした縞模様と化していた。
人の存在を示唆する干された洗濯物ですらも、むしろ人の不在を強調させていた。
――怖い、とか、美しい、とか、そういうことではない。
そういう、ポジティブと、ネガティブでものを語るべきではない。
目の前にある村は、ただ、私が親しんできたどんな村とも違っていて、単純に、興味深いものだった。
「誰もいないでしょ。昼間はみんな仕事で不在なのよ」
「むしろ静かで、ちょうどいいかな。」
「正直な感想を言ってくれて、助かるわ」
一拍の間が開いて、リリィは声を落とした。
「わび、さび、ね! 寂れた村を恥ずかしがる必要なんてないわ!」
静けさを破ったのは、アリアだった。
「ケイは旧日本圏出身よ、日本の人は伝統的に、静かで古びたものが好きなのよ」
「そんなこと、ある?それってホント?」
リリィに覗き込まれて、私は焦るとともに、静かな苛立ちを感じた。
――わび、さびはそういう意味じゃない。
私のような趣向がそう受け取られてしまえば、日本文化に失礼だと思った。
べつに質素が好きなわけでも、時の流れに風情を見出しているわけでもない。
でも、朽ちゆくもの、滅びゆくもの、そして物言わぬものには、心惹かれる。
「わび、さびに一般化できるかはともかく…私としては、好きだよ」




