かわや
厠、を川屋に由来するというのは、民間語源であろうか。ただ、民間語源だとしてもよくできているかとは思う。
平安時代の遺跡からは、それがあったことを示す「卵」がーーそれはどうでもいい。
「舟が少なくて、よかった」
舵を切りながら、リリィがつぶやく。
筏は2つあって、丁度、前方後方墳を思わせるような形に組んである。
手前に張り出した側のほうは方形に近く、ちょうどその石室を彷彿とさせるように、真ん中に穴が空いていた。そして奥はそのまま、巨大なシダに似た葉の作る緑のトンネルの中へと向けて、数メートルほど食い込み、さながら小さな木道のように見える。
細い丸太というか、枝を束ねて渡しただけみたいなぼろぼろの筏に、緑色のレティクルが戦闘機の照準器みたいに追尾している。
ちょっと可笑しな光景だった。
「そんな面白い?」
ぐるり、と舵を切りながらリリィがいう。
「なんというか、凄いギャップだなって。文明…って言ったら悪いけど」
「そうよね?みんなあんまり乗りたがらないのよ、この船」
「扱い方がわからないから、じゃなくて?」
「それもあるけど…なんか、違うって。」
ギュゥウン。と独特の音ともに、船底をびりびりと震わせていた振動が、ふっと弱まる。
モーター航行に切り替わったことを示すマークが、ぽん、と灯る。
「…着いた?」
さっきまで沈黙していた船底から、声がする。
「なんだ、聞いてたんじゃん。狸寝入り?」
「体力温存よ、体力温存。そんなにピリついてても、いざというとき動けないわ」
そうアリアはいうが、私にとってはやはり、どんな瞬間でも眼を見開いておきたい思いのほうが強かった。
「次があるなら、そうするよ」
そういうと、アリアはふっと目を背けた。
「次もあるって言ったら?」そう、囁くように言う。
「そりゃ…でも、無駄にはしたくないね」
「そうね、じゃあ私も怠けてないで、がんばらないと」
アリアがうん、とのびをすると、私は急に体が縮んだような気がした。
「トイレだよ、そんなとこで頑張られても」
「……じゃ、寝てる。なーんて、いうと思った?あのね、こういうときこそ」
「はいはい、出られるタイミングに備えて休んどけって」
「違うわ」
そう、アリアは言い切った。
「同じトイレに、2回も入らないでしょ?」
「う。うん」
「リリィ、座標とれる?この船なら定点座標くらい、とれるわよね?」
「もちろん。いま表示するわ」
コンソールをポン、と叩くと、現在の位置を示す座標と、真冬の木々のような、水景をあらわす地図が窓に投影された。星座のようにその各所に大きな×印がうたれていて、その間にぽつぽつと小さな点が打たれている。
その小さな点のひとつの前に、ちょうどいた。
「もう、村はすぐそこね」
そう、×印が村のことなら、下流からさかのぼってきたことをふまえると、いちばん下流の村から2番目の×印はもう、すぐそこにあった。
「だから先客もいるってわけね」
「筏は茂みに続いてるし、奥から覗いてる?ちょっと見られながらっていうのは、気が乗らないな」私は丸木舟を指さして、ぼやく。筏の真ん中に空いた、おそらくそういう意味であろう穴は、ぽっかりと只開いているだけで周囲360度、全天全球の完全視界が確保されている。
「安心して、先客なんて、いないから。」
「じゃああれは?」
「あー、なんかいつも置いてあるのよ。前もボロボロの舟がいっぱい泊めてあって、ドキドキしちゃった。」と、アリア。
「ウキウキの間違いでしょ、すごい楽しそうだったじゃない」
「ドキドキだのウキウキだのって」
「なんか、目が冴えちゃうのよね。いなかったけど」
そう言いながらガバッと窓を開けると、しれっとサーモをだしている。
「今日ももぬけの殻ね。残念」
いたらどうする気だったのさ、と言いたくなったが、これ見よがしに見せつけるとか言われても困惑するしかない。
ピー・ピー・という現場機械じみた警告音とともに、アジマススラスターが船体の向きを細かく調整している。
係留索をかけるためのアームに取り付けられたループが、筏から少し離して突き刺された大きな杭にかかる。杭というより、鱗木類のなにかを加工したのだろう、巨大な筒である。
まっすぐすぎて人工物然としているが、表面の擦れたささくれはまさに鱗状の葉枕のとれた、Knorria型のそれであった。
そして、後方でもループがかかった。
「梯子、かかりそう?」
そのまま窓から身を乗り出しながら、アリアがさっと手合図を送る。
係留索が巻き取られてテンションを調整する。
船はじりじりと、かすっただけで簡単にバラバラになってしまいそうな、頼りない筏へと近づけられつつあった。
筏へと梯子がかかる。
頼りない筏だが、四隅と縁が頑丈な板材によって囲われており、そこにちょうど乗る形になった。
「落ちたら泳いで船登るのよ、いい?」
――そんなこと言われても。
ただ、最初に渡るのは私だと宣言した。
落ちるのが梯子にせよ私にせよ、落ちるなら、する前のほうがいい。
ぎしり、と梯子が軋むたび、そう思った。
それとスラスター、止まってるよね?
トン、と乾いた音を立てて、筏に足を踏み入れる。
縁を補強する板材は、平行な溝のはいったシギラリアの樹皮であり、比較的には立派にみえる。
しかし、その内側に張られた筏本体を見るなり、足元がうすら寒くなった。
手首ほどもない太さの、大小入り乱れた棒というより枝が敷き詰められており、中には途中で折れているものまであった。
その、折れているものの中身がひどい。
真ん中にはぽっかりと穴があいている。小型のコルダイテス類を渡したものだろう。
ほかにも竹のような節と縦条の目立つ、カラミテス類もところどころで混ぜられていた。
おそるおそる足を踏み入れると、間にあいた隙間から、巨大な黒い影がみえた。
さっと、腰に冷や汗が染み、鼓動が速くなる。
「なんかあった?」
舟から声が飛んでくる。
「見間違い!」
そう、叫び返しておいた。
そう、見当違いであってほしい。
あるわけもない。ここは石炭紀だぞ。
しかし、あまりにも大きさといい形といい、其れに似ていたものだから、つい焦ってしまった。
はぁ、はぁ、と息が早くなる中、目で追いかける。
そこに大きな角ばった鱗や鋭い牙、上にぎょろりと突き出した縦長の瞳などどこにもなかった。
その巨大な物体はただ動かず、あまりにも大きく、左右均等で――ひび割れがあちこちに入り、内側には水が溜まって光を反射していた。
なんのことはない、朽ちかけた舟である。
気にしてみると、何隻もの舟の姿が、頼りない棒きれの間から確認できた。
双胴船のように、舟をある程度並べた上に足場を渡しているのだろう。
棒が折れて川に落ちるならともかく、水が足元に染みてきたりする心配はなさそうだ。
ようやく、出るものも出る気がしてきた。
水音に紛れて、どうも水面に何か連続した音がある。
何かが動いている気配がしてみてみれば、水中に平たい魚の影が、十数匹かそこらはいるだろうか、水に落とした鏡のように煌めいているではないか。
食べているものは、予想通りのものだろう。
穴の周りには、長さが30センチ、幅は8センチほどもある、靴べらのようなものが、穴をあけて棒に貫かれている。
この筏に限ったことではないが、ここの人々は便所紙の代わりにこの、コルダイテス類の硬く大きな葉をヘラのように使う。
手に取ってみると、平行に走る分厚い葉脈が、極小の段ボールのように仕切り状に配置されている。大きさのほうもちょうど手に馴染むし、中空になった部分のせいで、押すと少しぷかぷかして、木べらよりはだいぶ軽くて柔らかい。
最初の頃は尻が痛くなったものだが、慣れというのはおそろしい。
舟にせよ、筏にせよ、便所っ葉(今そう呼ぶことにした)にせよ、使われているのはコルダイテス類ばかりだ。しかし、あたりを見回してもコルダイテス類など、一本も見当たらない。
先日イリノイでこの木の群落を観察した際には、石灰岩地に面したドリーネに、比較的乾燥した、照葉樹林に似た森を作っていて、それはこの辺りにひろがる、森のようでまともな木が一本もないこの森もどきとは、似ても似つかない。
森の交易ネットワークが極めて広いということなのか、あの川岸に広がる巨大な「羊歯」の葉の向こう、剣山のように埋め尽くすリンボク類の向こうに行きつく手段がどこかしらにあり、その向こうから持ってこられているのか――私はまだ、なにも知らない。
ところで、下には相当な数の魚がいる。
何が集まっているのかわからないし、不衛生といわれても仕方ないが軽く雑魚釣りでもして記録しておいたほうがいいかもしれない――と思っていると、ぬっ、と、幅20センチはありそうな、箱型の巨大な頭が横切った。
「うわっ、なんか居る!」
「えっどんなやつ?」
アリアがバタバタとすっ飛んでくるものだから、頼りない枝をさながら葦簀のように組まれた筏に大穴があくのではないか、とひやりとした。
「どっか行っちゃったよ、そのうち出てくるって。あと…手は洗わないほうがいいと思うよ」
「どんなやつだった?」
「この前のリゾドプシスよりはでかかったよ。手くらいならパクっといきそうなやつ」
肺魚にしては、精悍すぎる顔つきに見えた。
あれはそこそこの大きさがある何か別な肉鰭類か、もしくは四足動物だろう。
「釣れそう?」
「先を急ぐでしょ、ほら」
私は空を見上げる。地平線を30m押し上げるリンボク類の柱廊に、太陽はもう少しでかかりそうだ。
「そうね。あとトレーサーの準備もしなきゃ」
「トレーサー?」
「使わないの?その、食べてるって証拠に」
私は内容を察したので、深く聞くことは避けておいた。
私は大きく伸びをして、もう手が届きそうなくらいのところに広がる巨大な緑へと向き合った。
ようやくだ。
ぎしり、ぎしり。と音を立てながら、私はあの巨大な「羊歯」の茂みにぽっかりと開けられた穴に、足を踏み入れた。
コルダイテス類の構造について軽く2つ、カラミテス類について軽く1つ。
1.コルダイテス類の髄腔は通例極めてよく発達し、円筒状に見えることが多いです。というか石炭紀において中実に見える”木”のほうが希少かも。
2.コルダイテス類の葉は、葉に平行に厚壁細胞条が配置され、段ボールのような配置になっています。生前はそこに葉肉が入っていましたが、乾けば段ボールのような構造になったはずです。
3.カラミテス類は二次木部がかなり詰まるので、イメージほど中空ではない種もあったりします。カラミテス類の節には仕切りがありますが柔組織性なので、竹のような使い方はできないでしょう。
※浮力材として使える石炭紀の植物は極端に少ないです。カラミテスの隔壁が柔組織性であることを踏まえるとさらにそうであり、また、他の植物もかなり密な厚壁細胞性の組織を主体とする部分と、軟弱で腐朽に弱いと想定される通道組織をもちます。
現在の樹木のような、維管束を主体とする木部を支持器官として用いる構造はカラミテス類やコルダイテス類などで用いられていますが、必ずしも多数派ではなく、後期石炭紀の湿地帯において現在の樹木に似た木部を持つ多数派のグループというとコルダイテス類に限られ、その分布はかなり局在的です。(乾燥地には初期の針葉樹が出ていますし、ペルム紀以降に出てくる比較的通常の木質部をもつシダ種子植物につながるような系統もどこかにいたはずではありますが…いずれも産出は極めて稀です。)
ゆえに、この時代の湿地帯で、いわゆる木材を確保しようとなると、それだけで相当なことです。
泥炭地は地盤が不安定で上陸が困難ですから、便所筏を作るだけでも大騒ぎになります。浮かべねばならないのに、長時間浮かぶもの自体が希少なのですから。




