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石炭紀紀行(鱗木SF・改)  作者: 夢幻考路 Powered by IV-7
前日譚 超時空ゲートのある世界
14/195

「より道ひとり旅」

時空共通暦五十二年、地球、旧東京。


重層都市礁のてっぺん、第一層。

空を見上げれば、橙色に燃える光が、くぐもった空を黄金色に染めていた。少しだけ、西に移動している。

灰色に染まる海原の向こうに、重層都市礁が黒々と、柱状節理みたいに壁をなしている。東京湾を囲うかのように、高さ250mの自己再生コンクリートの塊が、互いの骸を足場にしつつ互いに癒合して、灰色のカーテンをおろしている。

南を見やれば、霞んだ富士山のてっぺんが、宙に浮いていた。


地平線の彼方、はるか上空にきらりと、光るものがある。

細い糸のようなものが、天からおろされたようにつるされていて、あちこちで衝突防止灯が、きらきらと点滅している。

――軌道エレベーターだ。

望遠鏡で拡大すると、無数のぷつぷつが、ゆっくり、ゆっくりと空へ昇っていくのが見えるはずだ。

あれをみるたび、マヨイアイオイクラゲみたいだと、ケイは思う。

昇っていく貨物が、クダクラゲの孤虫とよく似ている。そして、3週間前に登って行ったその粒のひとつには、私たちの旅支度一式が収まっていた、はずである。


「明日、出発。東京もしばらく、見納めだなぁ、なあ、TWINS?」

返事はない。

ARグラスは、置いてきた。

置いてきたのである。どうせ石炭紀の惑星にサーバーはないし、ARグラスのバッテリーも、高酸素環境に対応した製品はなかった。

汎用端末が、何やらテキストを送り返している。

TWINSの返事である。

開いてみようとも思ったが、やめた。

かわりに、通知をOFFにして、アプリも直接見えないところに、しまってしまった。


明日から石炭紀に行く、そういう自覚は、まだなかった。

ケイは何度も、肩の荷物を確かめた。

軽すぎた。

「なんか、物足りない。街歩きに来た、ってことにすりゃ、ちょっとは気がまぎれるかな、なぁTWINS?」

返事は、見ない。


東の空を見やれば、きらり、と昼なのに光るものがあった。

「宇宙、ねぇ…」

そう、過去への扉はこの大空の遥か彼方。

重力圏を越えた、宇宙空間に設置された超時空ゲートなのである。

「落ち着かないし、実感もない」

そんなことをぶつぶつと呟きながら、ケイは何度も、パタパタとポケットや鞄の中身に手を入れては、首を傾げる。ジャケットのポケットにほとんど何も入っておらず、リュックサックもほとんど空っぽという状態が、なんともしっくりこない。

街歩きでもするんですか、という軽装だった。

出発までには、まだまだ時間がある。

明日までに、空港につけばいいのだが、家から直で向かうにはちょっと、通勤ラッシュと被って都合が悪い。それまで街で時間を潰す、悪くない話だった。

重層都市礁もへりに来てようやく、その周囲に広がる、別の街がみえてくる。

目下をみやれば、重層都市礁の内側、東京湾とのはざまに、キラキラとガラスのような光沢を放つ、薄く、繊細な縁取り。


さび付いた文字で、「新市街連絡エレベーター」と書かれた扉に、ケイは足を踏み入れた。

――たまにはこういう、“軽い”ひとり旅もいいかもしれない。これから来る、古く、重く、みっしりとしたふたり旅の前日に。

そう、手帳に殴り書きした。

旅行用メモ Vol.0 とあった。


灰のにおい。

石造りの棺桶みたいなエレベーター。

その窓を覗き込めば、その薄く、低く、繊細な街並みはまるで、芸術品みたいだった。

何もかもが、透明な街。

少し触ったら、壊れてしまいそう。

双眼鏡で覗けば、家一軒一軒の中まで、はっきりと見てとれただろう。


そこへ、いくつものスロープがおろされている。

観光エスカレーターだ。

あそこから覗けば、煌めく家々が一面に広がって、さぞかし絶景だろうに。

ただ、私が乗っても、キラキラと輝く街のあちこちで上がる土煙や、夕日に照らされたクレーンが、黒い影を落としているのにばかり、目が行ってしまう気もした。

その運賃を考えると、敢えて乗るほどでもない。

そう、揺れるエレベータ―の中で自分に言い聞かせたのだった。


透明で、壊れやすくて、それでも光と空を求めて立ち並ぶ家々。

そんな街並みを、空を行くハシボソガラスの群れが、見下ろしていた。


ケイは、大学にいたころのことを少し思い返した。


「ねぇ、なんで新市街って透明なの?」

そう言ったのは、アリアだった。

「…それ、たぶんほかのひとに言ったらブチ切れられると思うよ」

「なんで?」と言わんばかりに、アリアが口元に手を当てるのを、ケイは40センチほど下から、じーっと見上げていた。

「陽の光を浴びると目覚めがいい、とか?」

「あーもう、わかんないかなぁ。」

ケイはまた、あからさまに上、講義室の天井を見上げるのだった。

「空がきれい、とか?でも、プライバシーもなくして全部透明にする必要

ある?暑いし、小窓をつければいいじゃない。だって温室じゃん、あんなの。夏は想像したくないなあ、地上ですら40度行くのに」

「…それいっぺん言って、どこかで殴られてきた方がいい。日の光を浴びるほど享受できる第一層住まいには、どうせわからないだろうね、こう、見下ろしてさ」


コンクリ造りの重層都市礁に、自分の家というものはない。住処はすべて、何世代も前の、借り物。人工照明が一日を演出し、本物の空は、ステータス。

重層都市の外に住むことが解禁されたのは、40年前。

時空植民がはじまったときと、同じである。

それまで何世紀も、生身の人類が暮らせる場所は、地球しかなかったから。

目には美しい、1~2階建ての透明な街並み。

しかしそれは、世界の歪みの結晶だった。

家は持ち家、建て替えは、十年に一度はするものらしい。

樹脂が黄ばんで、かすれてしまう前に。

――なにもかも逆であり、反動的だ。



ガラスづくりのような街。

角度によって、風情が変わる。

スーツに身を包んで行き交う人々、奇抜なファッションに身を包むもの。

みな、見慣れた重層都市の人々よりシュッとして見えた。

何もかも新しく、軽薄な街――そんな印象を抱いていた。

けれど、実際にいざ歩いてみると、これもまた、わるくない。

ケイはきょろきょろと見回した。そして、思ったことを、メモ帳に書き留める。

――透明なもののデザイン性というのは、どうも、それがもたらす屈折によりもたらされるように思えてならない。もし屈折率がまったくのゼロの物体があったら、そこには微塵の美しさもないだろう。というより――光はそのまま直進し、背景を完全に忠実に透過させるだけ。つまり「存在しないのと変わらない」。――


透明な窓に、そっと触れると、ほんのりとぬくもりがあった。

こんこん、と叩いてみる。鈍い音がした。

ガラスでは、ない。もっと軽くて、しなやかな素材だ。

建材をよく見ると、光によく当たる部分は、しばしば黄ばんでいる――

いっぽうで、まったく黄ばんでいない部材もある。

柱にぐい、と顔を近づけると、

磨き上げられた界面に、小さな顔の輪郭が、幾重にも映って、ブリリアントカットのように煌めいた。

どうりで、この街の柱は、実態よりもはるかに細く見えるわけだ。

透明な柱の中に、それより透明度が少し低い心材が入っているのである。


なるほど。耐衝撃性と透明性をイソソルビド系ポリカーボネートで確保し、靭性を年輪のように幾重にも重ねられ、円筒状に曲げられたCNFナノペーパーで補っているのだろう。さながら透明で高強度な、紙筒だ。


ふと見上げると、透明に磨き上げられた壁の上に――男がいる。

彼は腰に命綱をつけながら、一枚一枚、窓や柱を磨いている。

「そこの坊ちゃん、何してるんですか?」

ケイは声を張り上げた。

「この街にくるの、初めてなもんで。この建材どうなってるかなって」

――自分で言っていても、怪しさしかない。と、ケイは思う。

子供にしか見えないいでたちでなかったら、即通報だっただろう。

こんな時ばかりは、容姿に呪われたことに感謝する――よほど怪しいことをしていても、少なくとも大きなトラブルには巻き込まれにくいから。

「この辺の街並みは、もう10年目だからねえ、建て替えましょうって方々で言ってるんだけどね」

「まだ、こんなにきれいなのに」

「まだきれいに見えるうちに建て替えないと、建て替え予約も三年待ちだからねえ。家を持つときには、とにかくこまめにコーティングを確認して、早め早めに動かないと――あっという間に、あばら家ですよ」

ポリカーボネートは紫外線で黄ばみやすい。混合剤とコーティングで対応するにしてもそれでも僅かな黄ばみや汚れは、この街ではあまりにも目立つ。

しかし、こんな高機能材料をたった10年や20年で廃棄してしまうのは、もったいない。飴色に鈍く光るのだって――そう、寧ろ落ち着くようにも、ケイには思えてならなかった。

建材一本を観察しているうちに、伸びない背の影ばかりが急成長していた。


――私だけを取り残して、時間はどんどん、先走っていく。

ケイはこのガラス張りならぬ紙張りの街において、どの店に入るか悩んでいた。

色々悩んだけれど、どうもこの街は何でもかんでもピカピカしていて、全然落ち着けない。夕日でギラギラした町は、なんというか、どうも古本屋のドブネズミがいてはいけない場所のように、思えてならなかった。

結局――

重層都市で通いなれた、サンバースト・コーヒー。

大衆派の、どこにでもある店。

有機ELの作る柔らかな光、黒系で統一された店内。

ふっと肩の力が抜ける。

そして、結局旅に出てもまた、日常を求めてしまう自分に気づく。

――しまった、ここは新市街らしく、もっとキャピキャピした、“女の子らしい”店に入るべきだったかもしれない。

でも――そんな店でフリフリのスイーツを食べる姿は、どうも想像すると――それだけで疲れがたまって、明日からの石炭紀行きに支障が出そうだ。

仕事を終えたサラリーマンたちが、大声で喋っている。

「うちもローンが終わってないのに建て替えろって話が来てさ、正直追い返したのさ」

「だから言ったろ?家を建てるなら、1階建てでできるだけ小さいのに限るって。」

「俺もローン終わらないうちに建て替え3回だよ、どんどん庭の面積が広くなってさ」

――やっぱり、そうなるか。

床板や天井まで鈍く透明なこの街が、背が低く1~2階建てばかりなのも納得である、と旅行メモに走り書きした。

そして、矢印を書いて、追記。

「ただ、たぶんこの終わらない建設ラッシュが、新市街の景気を作っているのだろう。おそらく「黄ばみによる高頻度の建て替えによって、この都市の高い経済活動が支えられている」。下線部要出典、後で調べろ!」

ま、調べるまでは本当かどうかわからない、仮説だけど。

――カフェというのは、本当にいろいろな観察ができて、面白い。

それに――少なくともここなら――ダラダラと時間をつぶしていても、許されるだろう。

「ピートコーヒーを1杯、シュガーなしで。テイストは全部お任せで」

持ち上げたコーヒーカップの裏を見れば、裏に小さく「G-リグニン樹脂使用耐熱カップ」とあった。

ケイは、カップにそそがれた、黒々とした液体を覗き込む。

中にそそがれた「ピート・コーヒー」に、コーヒー豆は含まれていない。

コーヒーを模した、代替物である。

値段はコーヒーの1/3くらいで、眠気覚ましの効果はほとんどない。

コーヒー農場に疫病が流行った際に発明されたものだという。

元々はタンポポの根を泥炭でスモークして作られていたそうだが、最近では蒸留泥炭と麦芽、タンポポの根をベースにしたブレンドらしい。

甘くスモーキーな香りが、鼻腔をくすぐる。

ちらりと、店内の会話が耳に入る。

「この前「本物」のコーヒー飲んだんだけどさ、あれ苦くて。苦み抜き!ってオーダーしたら、そんなことはできません、「本物」のコーヒーですからね、って…」

本物のコーヒーとくらべても遜色ないどころか、むしろ上回る地位を獲得している。なにしろ、オーダーメイドで渋みやコク、香りの甘さやミネラル感を調整できるのが大きい。

不味いかもしれない「本物のコーヒー」をわざわざ頼む気が起きないのは、わかる。

ただ――毎度「全部おすすめで」と流してしまうケイには、関係のない話だった。

それに、自宅では調節が難しいため――ピート・コーヒーは店で飲むもの、という地位を確立し、大量生産も容易であるため、チェーン店がこぞって有力産地を取り合っている。北欧、シベリア、チリ、などなど――。

「ちょっと北欧のはスファグナムが多いから酸っぱいんだよね」というような会話が一般にされているのは、ちょっと滑稽であった。

なにせ、聞いてみると彼らはスファグナムがミズゴケであることも、果てにはそれが植物であることすら知らないのだから。

そのくせ、「湿原の冷気のような軽やかさ」とか言ったりする。

――寒地の湿原は、甘い。けれど――実際に訪れずにいろいろ言われるのは、ちょっと歯がゆい。五年前に歩いた、足元のふんわりとした、しかしジワリと靴の中に水がしみ込んでくる感触が、まだ足の裏にこびりついている。

ミズゴケとスゲと、あとは周囲の落ち葉がなす高緯度の香りは、そんな地の果てまで旅に行かずとも、ここにくればカップの中でこだましている。

コーヒーの香りを楽しむというよりも、むしろかつて訪れたフィールドを味わっているような気がして、気づくと目頭が熱くなっていた。

――浴びるように通ったフィールドも、就職してからはすっかり足が遠のいていた。

ふと、カウンター横の新作告知が目に入る。

「限定入荷! Carboniferous ブレンド」

余韻が吹き飛ぶ。瞳孔が、その告知をしっかりとロックオンしていた。

どこの泥炭だろう。

メニューを見ると、小さく「現アパラチア」、とある。

その一行だけで、胸の奥がざわついた。

アパラチア炭田――かつて最高級の石炭を産し、19世紀後半から20世紀にかけて、アメリカの産業革命と鉄鋼業の発展を支えた名だ。

石炭としての特徴は、瀝青炭が中心であり、とくに硫黄分が少なく、灰分も少ない。

石炭の顕微鏡的構成要素を、マセラルという。この構成要素は、植物のどのような遺骸が変性して石炭ができたのか見えてくる。

アパラチア炭田の場合――リグニンなどの木質変性産物であるビトリナイトが大部分を占め、火災によって生じた木炭成分を基とするイナーチナイトや、樹脂を基とするリプチニットは少ない。

このことは――アパラチア炭田がもともと、極めて貧栄養な環境に高純度の植物遺骸がおそらく急速に堆積し、しかも火災にはあまり見舞われなかったことを意味する。

リプチニット、とくにセクレチナイトが少ないことからは、大量の樹脂を含むメドゥロサ類よりも、リンボク類がおそらく石炭の生成に関与していただろうことがうかがえる。瀝青炭が中心なのは、その後の変性が高度であることをあらわしている――そして石炭を含む層の厚さは、この炭田が恐ろしいほど長い期間にわたって堆積し続けたにもかかわらず、火災に見舞われなかったこと――つまり、地盤が徐々に沈下しながら、水位上昇の中で泥炭が堆積し、常に水に保護されていたことがわかる。

このように、石炭ひとつとっても、当時の湿地帯がどのようなものであったのか見えてくる。

さて、Carboniferous ブレンドに戻ろう。

咄嗟に頼んでみようとも思った――が、ちょっと躊躇した。

なぜなら、これから本物の石炭紀に行くのに、地球で石炭紀の香りを感じてから行ってしまうと――なんというか、旅の気づきが失われてしまうような気がしたからだ。

この旅から帰ったらしっかり楽しみつつ、石炭を作った森に思いをはせたいものだ。

ケイの隣の席では、学生風の男が、がっくりとカウンター前で項垂れている。

聞くとはなしに、耳に入る。「また品切れだよ。なんで俺の時だけ……」

どうも、“おまかせ生成”のマフィンが目当てだったらしい。

少なくとも、ここには知っている人はいない。

何の陰口も気にしないで済むし、妙な羨望のまなざしもなければ、妙に持ち上げられることもない。ただ一人で、世界を見て、考える時間。

そこがケイには、とても心地よかった。

**

夜が明けたら、出発だ。

深夜2時をまわった。

ケイの手元には、5杯目のピートコーヒーが、湯煙とともに芳醇な湿地の香りを立ち上げていた。

エストニア、カナダ、チリ、ニュージーランドと世界を巡ってきて――

――5杯目のこれは、日本の北海道だ。

店の外は、まだ真っ暗。

街路灯の下には、明らかに“制服の人”がいた。

ふと振り向くと、さっきマフィンに呪われていた学生風の男は、ジャケットを羽織って成人に“擬態”していた。彼も深夜3時までいるあたり、なにか家に帰れないか、明日早朝の便に乗らなければいけないかの事情があるのかもしれない。

ただその様子からわかるのは――こんな夜中にいれば、しばしば補導されることだ。

――市警か。

白っぽい軍服風のジャンパー。

裾は少しよれて、くすんだ灰色に近い。

艶消しの布地。クリスタルな街にただひとつ混じった、濁りだった。

そのくせ、腕章だけはやけに新しく、ぎらりと反射して妙に浮いている。 

大して忙しそうでもないくせに、そういうときだけは仕事熱心だ。

硬い靴音がコツコツと響き、足元をタップしている。

一人を楽しみたいケイにとっては、心底不愉快な音だった。

そして――ひとりで座っているケイにちらちらと視線を寄越してくる。

しばらくして、扉が開いた。

制服の男が入ってきて、あたりを見回す。

目が、あってしまった。――というより、目を、合わせられた。

「こんばんは、ぼく。ひとり?」

やれやれ、いつものことだ。

「はい。二十四ですが、なにか」

――ついでにいえば、性別も違うぞ。

運転免許証を見せると、男は一瞬だけ絶句した。

それから、ごまかすように愛想笑いを浮かべた。

「いやぁ、若く見えるね。未成年補導の報告が入ってね、つい」

ケイは会釈で済ませた。”ピートコーヒー”はもうぬるいし、口の中が渋い。

――実際、こういうのは慣れっこだ。運転しているとしょっちゅう止められるし、いいかげん顔認証で「この顔を見たら子供モドキです」と周知してほしいのだが。

アトラス、どうせ見てるんだろう?

まあ――何よりこの時間に、手荷物一つで、ぽつんと街にいるのがいけないのはそうだ。

市警は隣に座ってピートコーヒーを一杯頼み、話しかけてきた。

「俺、気づいたら、すっかりおっさんになっちゃってさあ。気付いたらもうアラサーだよ。夜歩きする側が、いつの間にか取り締まる側になっててさ。…で、深夜まで残業さ。」

…なれなれしい。

でも、たぶんこれは私のことを心配して言ってるわけじゃない。

ただ、誰かに言いたかっただけなのだ。

——ナンパとか、そういうのでもないと思う。

「で、こんな夜中に話す相手もいないってわけさ。補導にしてもアトラスにやらせりゃいいって意見には、反対だな。そもそもアカウントをもってないんじゃ、ねえ。」

ケイは思う――アカウントを再発行したら、またマークされる。

――再発行の翌日に、姿を消した人の話は聞いている。

どこへ行くのかは誰も言わない。戻ってきた人も、いない。

少なくともBANされたまま何もしなければ、消えることはない

――いまのところは。

ケイは、口を開けなかった。

「あと俺はさ、やっぱり人と話すのって大きいと思うわけよ。誰にも返事しない、通知を見もしない奴もいるだろ?でもこうやって顔を見りゃ、ああ、生きてんなってわかる」

ケイは目を合わせず、リグニン樹脂のカップに目を落とす。

冷めかけたピートコーヒーを、また一口だけ飲んだ。

市警はそれを合図ととったのか、軽く手を上げて出ていった。

彼が出ていくと、マフィンに呪われ君はほっと息をついていた。

誰にも話しかけられたくない夜は、決まってこんなふうに、誰かが話しかけてくる。

夜が、少しずつあけていく。

まだ青とも黒ともつかない空の下で、ケイはゆっくりと立ち上がった。

背中のリュックが、わずかに重みを伝える。

12個あるポケットのうち、すぐ右腰のそれに指を差し入れて、中身を確かめる。

汎用情報端末──入っている。

そのすぐ横に、いつも持ち歩いている高強度型の小型カメラ、HP-5。

カメラの角が、指先に冷たく当たる。

ちゃんと、ある。


SUP①

ところではるか昔、なんでも石油で作っていた時代があったらしい。

古今東西、さまざまな透明素材が使われてきた。

ガラス、アクリル、ポリカーボネート、などなど。

その中で、とくに長く生き残ったのはー―

植物から作られる2つの堅牢な物質、

イソソルビド系ポリカーボネートと――なんと、紙だ。

紙は白いじゃないか。そう思う人がいるだろう。

しかし――白いというのは、なにか?

白いというのは、光が散乱している、ということである。

透明なガラスを、細かく割っていくことを考えてほしい。

はじめは透明だったガラスも、砕けばだんだんと――白っぽく見えるようになる。

これは、空気とガラスの界面で光が屈折、反射を繰り返して散乱するためである。

紙が白いのも、同じ理由だ。

紙は無数の細く透明な繊維が絡み合ってできている。

だから、繊維と空気の界面で光が散乱する――というわけだ。

――では、繊維をどんどん細かく、密にしていったらどうか?

光の散乱が抑えられ、ガラスのように透明、かつ軽量な紙ができるのである。

ケイが足元をみおろすと、そんな人工的な街の柱の隙間から、ごく小さなハマツメクサがいくらか生えているのが見当たった。

――こんな人工的な街中にも、植物はしたたかに進出している。

あるいは、「パクった材料で何のさばってんだ」とでも言いたいのかもしれない。

セルロースは生物においてはかなり人気がある物質だ。

陸上植物だけでなく、緑藻や一部のバクテリア、さらにはホヤにまで使われている。

――まあ、もっともありふれた単糖類であるグルコースをα-1,4結合させて堅固な鎖構造にしたものだから、大人気な分子なのもうなずける。

陸上植物においては、すくなくとも4億年前からこちら、細胞壁を作り、細胞を支える物質の大部分は、大きく分けて3つからなる。

セルロース、そして腐朽耐性や耐水性を与えるリグニン、セルロースの橋渡しをになったりリグニン沈着の起点となる、ヘミセルロースだ。

植物はこの、「3種の神器」で体を支え、過去4億年にもわたって地上を支配してきた。

セルロースには、その鎖構造の立体配置が異なる2つのタイプ、IαとIβがある。

藻類がつくるセルロースは、おもにIαだ。

しかし――陸上植物では、リグニンやヘミセルロースによって強化されたセルロースIβが、陸上で重力に抗うために用いられるようになった。

自然界に見られるセルロースは、じつに多種多様だ。

その性質を決めているのは、おもに細胞の原形質膜上に局在する終末複合体である。その配列や規模、作るセルロースのタイプはさまざまで、出てくるセルロースの、リボン状のもの、とても細い柱状のもの、中にはその何倍も太いもの――と、とにかくいろいろだ。

これは、生物の進化の過程でセルロースが試行錯誤の末に洗練されていったことを無言で物語っている。

――このごろは、人間も加わったようだ。

緑藻の終末複合体を分子設計することにより、より高強度で純粋なセルロースIβが合成できるようになった。耐熱性にはそこまで強くないのが残念だが、部分的にはカーボンナノチューブに匹敵しうるらしく、製造の容易性もあってよく普及している。

――なにせ、培地と光と水あれば、とくに高度な化学工場がなくとも、洋上ファームで大量培養できてしまうのだ。

食用のデンプンを作る生産ラインと、ほとんど共有できてしまう。

なお、ここまで話をすると、セルロースなんて、どこにでもあるじゃないか?作物残渣を使ったらどうだ、などという質問が出てくるかもしれない。

――しかし、陸上植物の作物残渣を原料とするには、セルロースをつなぎとめ、膠のように補強するリグニンおよびヘミセルロースの除去に極めて大きなコストがかかるし、その過程でミクロフィブリルがぶつぶつと切れてしまう。

もっとも、利用しやすいようにリグニン含有量や化学組成を変えた作物は古くから数多く作られてきたけれど――耐病性に劣る品種が多かった、とする文書も、古書堂で見かけた。

たしかに、リグニンは植物を水や病原体から守る楯であり鎧といえる。

それを削減すれば――そうもなるだろう。



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