第31話:喧騒
三限終了の鐘が鳴る。教室を出る生徒や話を始める生徒たちの音で、廊下が一気に騒がしくなった。
お手洗いに行こうと一人教室を出た純の耳に周りの声は良く聞こえる。
「次の定期試験、勉強してるか?何でも数字学担当教員が難易度を上げたらしい」
「はぁ?ふざけるなよ、今以上に難しくなると赤点取得者が増加してしまうじゃないか。抗議しに行く」
お泊りの翌日、純はヘザーと話をすることができずにいた。授業の教材を取りに寮から出た時、何か言いたげなヘザーとすれ違う。しかし朝の挨拶をすることもなく、目を伏せて彼女の横を通り過ぎた。
「聞きまして?例の話」
「えぇ、勿論。”金のオンシジューム”のことですね。一度は、と思っておりましたが、まさかこれほど早く好機がやって来るとは…」
「必ず席をこの手に取って見せますわ。皆様も、共に頑張りましょう」
良くない態度だった。ヘザーの手が僅かに上がっているのが目の端に見えていたから、彼女は純に挨拶をしようとしていたか、何か用事があったのだろう。分かっていながら見て見ぬふりをした。自分がそんなことをされたら傷つくのに、それでも今は、彼女と顔を合わせて話をしようと思えない。学園に到着してしまえばシドニーと共に過ごすため、ヘザーは声をかけてこなくなる。今日はシドニーが参加しない体を動かす授業もなく、ヘザーと話をしなくていいことに安堵した。
「——…一向に魔力量が増えなくて…——」
「——…そろそろ将来を決めなくては…——」
「——…訴えるべきよ、そんな男…——」
何気なく聞いていた会話たちは歩いている純の耳に僅かに残ってはすぐ消えていく。
「——…で、ロッケンベノークが、」
聞こえた単語に足を止めた。ロッケンベノーク。その名前に、動きが止まらないわけがない。純の脳内を数か月前の記憶が駆け巡る。嫌で最悪で気分が悪くなるのを、ぎゅっと目を瞑って堪える。かつての出来事だ、こんな場所で動揺するわけにはいかない。自分を律して、一つの会話に集中する。二人の男子生徒が話しているようだ。
「でもそんなの噂だろ?確証もないのに…」
「最近辺境で不法入国者が捕らえられた」
「それが彼の国ってことか…。まぁうちに最短で来るにも嘆きの森を通過するのは苦労するだろうし、そうなると辺境からってなるか」
物陰から盗み聞きをしながら、なぜこの国に不法に入国しようとするのか疑問に思う。別にロッケンベノークの人間だけ入国を規制しているわけではない。正規で入国できない、例えば身辺調査や手荷物検査をされると困る、などの理由があるのではと疑ってしまう。彼らが考えるのも同じだった。
「噂だから断言できないけど、持ち込まれたのは空間魔法が描かれた魔法陣だったらしい」
「空間…?まさか、兵を送り込もうと…!?馬鹿だ!空間魔法の使い手は少なく、兵を送りこもうにも魔力が足りない!」
大きくなってしまった声に慌てて声量を下げる。空間と聞いて、何か記憶の端に引っ掛かりを覚える。何が引っ掛かっているのか、と首を傾げた。男子生徒の一人が頭を抱えた。
「…そんなの、稀代の天才魔法使いか、伝説の勇者くらいしか使えないぞ…」
魔法、勇者。パッと頭の霧が開ける。キラキラ光りながら、浮かび上がった文字の羅列。職業が一般人と記されていた純とは違い、勇者と明記されていた彼は、共にこの世界に連れてこられた一人だ。高い魔力、空間魔法の所持。先程聞こえた、兵という言葉。
「もし、本当にそんなことが可能なら、噂は一気に現実味を帯びるな」
「あぁ。…ロッケンベノークがこの国に、」
「あの、ジュン様?そんなところで一体何を…」
突如かけられた言葉に、純は息を呑む。そこには見知らぬ女学生の姿。物陰にぼーっと立つ純を心配してくれたようだ。何でもないですと手を振った時、彼女以外にも多くの視線を集めていることに気づいた純は急いでその場から立ち去る。人の目を避けるように急ぎ足で進む純は、先程の男子生徒たちの会話に体が力に入ってしまった。思い出しても嘘だと思いたい。
———ロッケンベノークがこの国に、戦争を仕掛けようとしている…———
気づけば足を止めていた。周りに学生の姿はあまりない。次の授業が始まるため、皆それぞれのクラスに戻っていったのだ。少しずつ静かになる廊下で、騒ぐ心臓を押さえつけようとする純に、声がかけられた。
エイダンは探していた色を見つけて足を向ける。
「講義が始まったってのにさぼってる悪い子ども、見っけ」
「………」
裏庭に面した筒抜けの廊下で、段差に腰かけていた純は目だけでエイダンを確認してすぐ前を向く。めんどくさい、近寄るなのオーラが出ているのに気づいていながら、エイダンは遠慮なくその隣に腰かけた。あからさまな溜息を吐かれても、距離を取られても、少し眉が動いてしまったが気にしてはいけないと自身に言い聞かせた。
「こんなとこでどうした?」
「…………」
質問に対して返事がないことに、諦めの息を吐く。最近のお茶会もほとんどエイダンだけが話して、純は何も言わないことが多い。下を向きお茶菓子だけ食べる姿を見続けるのだ。横を見れば、庭の木々を見ている顔が目に入る。いつも見ている正面ではなく側面に新鮮味を感じた。
「…あっそ。いつも通り、何も話したくないってことな」
わずかに純の眉にしわが寄るも、言い返されることはない。ふぅとため息を吐いたエイダンは口を閉じた。両者ともに口を開かない静かな時間が流れる。風が木々を撫でる音、鳥のさえずる音、それだけが聞こえる空間でしばらくして、純は隣にバレないように小さく身じろぎした。
(この人、いつまでいるんだろう…?…話さないならどこかへ行けばいいのに。王子の護衛とかいう仕事はどうしたんだろう。人にさぼりとか言ってそっちもさぼってるじゃん)
エイダンが座ったままでいるから純も自由に動けず、徐々にお尻が痛くなってきたというのに立ち上がることも姿勢を変えることもできない。早くどこかへ行ってくれないないかな、と横を見た時、純の目に入ったのはエイダンの顔ではなく、青色の何か。焦点を合わせようと瞬きをしていると、物を持っていたエイダンの手が先に離れた。
「…ペン?」
「万年質とも言う」
少し細身の万年質。目を凝らすと青の中に銀色で繊細な花柄が描かれており、少し、いや大分、センスがある。
「どう思う?」
「別に…まぁ、良いんじゃないですか。なんです、これ見よがしに見せびらかして。自慢ですか?」
王家からの支給という形ではあるが、純も万年質くらい持っている。いかにも高価ですという見た目のため、あまり気に入っているわけではないが愛着もそろそろ出始めた頃だ。誉め言葉にニヤリと笑うエイダンについ悪態をついてしまうと、突然彼はその万年質を「ほい」と純に差し出した。理解が追い付かず、咄嗟に受け取ってしまった万年質は、エイダンが触れていたところ以外は冷たく、ほんのり温かいところがより鮮明に分かった。
「今使ってる万年質、柄の部分が太くて使いにくいだろ?見てる感じ、結構な額渡されてるはずなのに自分の物積極的に買うとかしてないみたいだし、今までこういうの渡したことないなって思ってな」
使いにくさやお金を使っていないことに気づくほど見られていたことに、気持ち悪いと顔をしかめようとした。しかし、鼻の奥の方が熱くなって表情が上手く保てず下を向いてしまい、悪態をつくこともできない。
今日は純の誕生日だった。
元の世界と似た数え方をするこの世界で誕生日なんて分かっても、お祝いしてくれる人なんていないだろうと諦めていた。そもそも周りの人達に誕生日自体伝えてないのだ、初めから期待もしていない。きっとエイダンも誕生日だなんて知らないだろう。何も知らない彼からただ万年質を渡されただけで、何をこんなに喜んでいるんだか。
「あー…。そういうのに詳しい知人にアドバイス貰って選んだから、センス悪い訳じゃないと思うし、物自体もまぁそんな悪いものじゃない。気が向いたら使ってくれ」
ポリポリと頭をかきながら立ち上がったエイダン。
「っと、もう仕事に戻んないと怒られるな。じゃあな、あんまサボってると、おっかない先生に追いかけられることになるぞぉ」
おっかない先生、と言われて純は自分の担当魔法教員である彼女のことを思い出して周囲を見渡した。影もないことに胸を撫で下ろしていると笑い声が聞こえる。遊ばれたことに文句を言いたかったが、既に背を向けて歩いていたエイダンを追いかけるほどではない。はぁとため息をついて、手元の万年筆の存在を思い出す。
「あ…。お礼、言うの忘れてた…」
どうせ明日は例のお茶会だ。お礼はその時に伝えればいいだろう。腰を上げるとずっと座っていたことで痛んでいたお尻がだいぶ和らぐ。
エイダンと会う前、聞かされた話により気分が落ち込んでいたが、しっかりと前を向くくらいには気力は戻った。
「…話を、聞かなきゃ」
放課後、美術室。
教室の中から聞こえる高い食器音。扉を開けた先にいた先客は、見知らぬ幽霊部員ではない。
「ジュン」
純のために取り寄せた紅茶の準備をする、恋人だ。
「いいタイミングだ。丁度お湯が湧いたところでね。今日の紅茶は家から取り寄せたものなんだけど、僕の一番のお気に入りなんだ。君は後味を気にするから、この紅茶は気にいると思うんだよね。紅茶に合うお茶菓子も用意して…って、これじゃ一体なんのクラブか分からないな」
ハリソンは声の調子から笑みを浮かべているだろうことは分かるが、教室内に十分な光が入らず顔が見えずらかった。教室の入口から、一向に動かない純にハリソンは言葉を止める。
「…ジュン?」
外から聞こえてくる音も、見える景色も、場所も、人も、何も変わらない。しかしそれらを聞いて見て感じている純の心ひとつで、ガラッと変わってしまう。
「…ハリソン、先輩」
湯が沸いたから、熱気が伝わって体が熱くなっているのだと思う。胸ポケットに入れた万年筆の存在が純体を冷やした。
「私と付き合ったの、先輩の将来のためって話、本当ですか?」
ハリソンの目が開かれ、口が震えているのも見えた。明らかな動揺を押さえ込もうと彼は顔を伏せたが、顔を再びあげるのにそう時間はかからなかった。下がった眉と、一見笑ってるようにも見える歪んだ口角。笑ってるのに泣きそうな顔のハリソンに、動揺したのは純だ。
「…分からない」
投げやりな言葉は、2人の思い出が詰まった美術室に嫌に響いた。




