第32話:喧騒②
暁の空が地面に色を落とす。空気が昼より冷え始める前のまだほんのり温かさの残った中、荒く呼吸を繰り返す純の体は熱い。
「はぁ、はぁっ」
サクサクと草を踏む音と自分の呼吸音だけしか聞こえないはずなのに、先程のハリソンの声がまだ耳に残っている。
エイダンに会う前、純を呼び止めたのは一学年上の男子生徒だった。また厄介な誘いかとその場から去ろうとした純は、突然生徒の口から出て来たハリソンの名に動きを止めた。ハリソンが、実は利益目的に純に近づいていた。話の内容はそんなものだ。他にも家督を狙っているとか、高位貴族に取り入ろうとしているとか、何か話していた気はするがよく覚えていない。何でもないように努めたが、純はとても驚いていた。驚いて、とても授業に集中できる状態ではなかった。
美術室での穏やかな時間。胸がドキドキときめくことはないけど、放課後にクラブがある日は気持ちがいつもより和らいでいた。それくらい、純はハリソンとの時間を心待ちにしていた。彼の優しさが作り物だと思いたくない。かけてくれた言葉が嘘だったなんて、思いたくない。
問いかけた時、純は否定して欲しかった。そんな事実はどこにも無いって言って欲しかったのに、ハリソンは「分からない」と答えた。
「分からないんだ。そんなわけないって思うのに、でも、そうなのかもって一度思ってしまったら、そうとしか思えなくて…。君を、利用しようと近づいたんだって、そう、思えてしまって、分からないんだ…」
「そ、んな…」
今にも泣きそうなハリソンに、純は腹が締め付けられた。
「ごめん、ごめんね、ジュン。どうか、許して」
請うハリソンを置いて美術室をどうやって出たか覚えてない。気づいたら寮への道を歩いていた。彼の言葉をもう一度思い出して、純はグッとお腹を押さえる。泣きたいのはこっちだと、叫びたい気持ちを一緒に抑え込むように。
(信じられると思ったのに、どうして…)
本当に?
苦しいと思う。泣きたいと思う。でも涙は流れない。本当は好きじゃないから、本当は傷ついていないから、泣けないんじゃないのか。
(そんなわけない。私は、本当に悲しくて、傷ついてて…)
寮は目前に、足は止まっていた。
泣けないのは、彼が利用しようと思って近づいたと聞いてそこまでの衝撃を受けなかったのは、どこかで疑っていたから。でも驚いたのは、彼の目に見える愛情に縋っていたから。優しくしてくれた、特別扱いしてくれた。照れた顔から、好意を感じ取った。好きなら裏切らないと、どこかで思っていた。
自分も打算で付き合っていたくせに、裏切られたからと彼だけを悪く罵るのか。
話し声が聞こえて咄嗟に物陰に隠れる。女子寮外の通りで話しているようで、男と女の声がそれぞれ一つ。純が隠れている植木の向こうで聞こえる声に、盗み聞きは罪悪感が湧くが今姿を見せるのも気まずく隠れていた。聞き覚えのある声に気づくまでは、耳を閉じていようと思っていた。
「本当に助かったよ。俺だけじゃ、女学生へのプレゼントなんて分からなかったから」
「良いのよ、貴方の頼みだもの。エイダン」
驚いて振り向いたことで体が植木に触れて音が鳴る。
「誰だ」
気配を消し、息を必死で止めた。別にバレても問題はなかったのだが、姿を見せるのを躊躇った。女の方が「きっと猫が通ったのよ」と彼らの意識は互いに戻る。植木の隙間から覗けば、ほんの少し人影が見えた。女性の服から、教員でも学生でもない、外部の人物だろうかと推測する。
「贈り物、喜んでもらえた?」
「あー…。いや、もらえたもらえた!あんなにセンスある万年質、喜ばない奴はいない!だろ?」
「フフッ。そんなに言ってもらえるなんて、嬉しいわ」
鞄の中に入っている、エイダンからもらった万年質は、彼が選んだわけではない。エイダンが頼んだあの女性によって、選ばれたものだったのだ。
お腹が、痛んだ。
人影が近づく。それ以上見ていられなくて、純はギュッと目を閉じた。
二人がいなくなってから寮に戻った純は、フラフラとベットに倒れ込む。ずっと、腹が痛い。腹の痛みに共鳴して頭も痛くなって来た。目を閉じると重なる人影が脳裏に蘇る。振り払っても消えてくれないし、よりによって明日はエイダンとの茶会だ。行きたくないが、行かなければ寮まで迎えに来るから結局行かなければならなくなる。
ついさっきまではハリソンのことで傷ついていたというのに、今はもう別のことを考えている。自分の薄情さに、吐き気がした。
どれだけ嫌だと思っても、時間は無情に流れてしまう。いつも通り始まった茶会、いつも通り話すエイダン。いつもと違うのは純だけだ。食べれば気分が上がるお菓子も、紅茶も、美味しいはずなのにどれだけ食べて飲んでも満たされない。
昨日からずっと、お腹が痛い。
原因が分からず戸惑う純の耳に、ため息が聞こえる。顔を上げて見れば、うんざりした顔のエイダンがもう一度ため息を吐いた。
「あのさぁ、流石にその態度はないだろ。お茶会なんだしさ、いい加減なんか話したらどうだ」
促されて、純は先日貰った万年質のお礼を伝えなければいけないことを思い出す。しかし、直ぐに言葉が出てこなかった。植木の隙間から見えた光景が蘇って、簡単な感謝の言葉の伝え方が分からなくなったのだ。
何も言わない純にエイダンはあきれ顔で「ハッ」と笑みを浮かべる。
「あれか、恋人の影響受けた感じか。やっぱり碌でもない奴だったんだろ?そんでその男の影響でも受けて、反抗的な態度を取ってるんだろ?思えば完全に無視するようになったのもその男と付き合い始めてからだよな。やっぱり悪い影響受けてるし、好きでもない男と告白されたからって簡単に付き合うと良くないって証明されたなぁ」
なぜ矛先が純からハリソンに向けられるのか。止めて欲しいと言いたいが、実際ハリソンと気まずい関係であり、彼が利用するために近づいた可能性が浮上した今となっては、始め付き合うことを止めていたエイダンの言葉を否定することができない。
「プレゼント渡しても、お礼も言わないし…。気に入らないものを渡したのは悪かったけどさ、貰った礼儀としてお礼は言うべきじゃないのか?いやまぁ、俺が勝手にしたことだけど、手伝ってもらって選んだものだったんだよ。選ぶのに手間も時間もかけたし」
全て、彼の言う通りだ。お礼を言わなければいけないというのも、反論のしようもない。しかし、そこから沸々と沸き上がるものがある。一方的な言葉に、腹の痛みも合わせて、純の中で膨れ上がっていく。
「俺だって暇じゃないんだよ。この茶会だってわざわざ時間を作ってだな、」
「別にこちらからお願いしたわけじゃないですし、帰りたいなら帰れば良いじゃないですか」
一人話していたエイダンは、ようやく純を見た。何か言葉を返されるのが久しぶりだったと言うのもあるし、それが反抗的な言葉だったと言うのもあって、驚きに言葉が詰まる。
「今までお時間を取っていただいてありがとうございました。とても感謝しています。万年質も、他の方の力を借りてまで選んでプレゼントしていただいて、本当にありがとうございます。…これで満足ですか?ご自分で勝手にやったことに、私が満足してありがとうございますってお礼を言えば、それで貴方は満足するんですよね?はい、これで良いですか?」
やがて思考が戻り、純の言葉の意味を理解したエイダンは顔を怒りに赤く染める。
「なっ、んだ、その態度は!完全に煽ってるじゃねぇか!あのな、俺だって好きでやってるんじゃない!これは、仕事だ!仕事で、お前の監視も込めてやってるんだよ!」
売り言葉に買い言葉、エイダンが激高したのに負けじと純も立ち上がる。
「じゃぁ、お茶会なんて余計なことしないで、監視に徹底したら良いじゃないですか!良かったですね、これからはやりたくもないお茶会もお世辞も言わなくて済みますよ!面倒な子守りも、プレゼント選びも、二度とせずに済みますよ!」
怒りに染まっていたエイダンの顔が困惑に変わったのに純は気づかない。自分の目から涙が出ていることにも、気づいていない。
「あなたのその、可哀そうだって目が嫌なんです!っ、そうですよ!私は可哀そうな人間です!実の親には捨てられて、優しい人たちに拾ってもらって救ってもらったのに、恩返しも碌にできずにこんなとこに無理やり連れてこられて!利用されて、騙されて、裏切られて!こんな可哀そうで哀れな人間、そうそういませんよね!こんな人間の面倒、見たくないですよね…!」
「ジュ、ジュン…」
伸ばされる手を叩き、近寄るなと鋭く睨み付けた。
「…今まで、迷惑かけて、すみませんでした」
鼻水を啜った時、ようやく自分が泣いていることに気づく。エイダンの前で泣いてしまったことを悔しいと思いながら、長いこと続いたお茶会に背を向けた。




