13
四月も中旬になり、札幌の街角から雪が消えた。
北国の街にもようやく春が訪れたのだ。
だが和宏の気持ちは未だ真冬の海のように冷たく、厚い氷に閉ざされていたのである。彼の胸中では、長く辛い北国の冬が続いたままだった。
ヤリキレナイ川の地名の解析に明け暮れていた頃は、まだ良かった。
今の彼は、何をするでもなく部屋でごろごろと時間を過ごすばかりだ。時々部屋にやって来る母親とは差し障りのない会話をするだけで、つまりは雅代との同居の話をやんわりと断り続けているに過ぎない。
だが、ちょっとした変化もあった。
最近では、偶にテレビの電源を入れるようになったのである。
札幌の積雪がゼロになった――という昨日のテレビニュースを眺めていた彼は、どういう訳か、無性にヤリキレナイ川を訪れてみたくなった。先日、検察から電話があり、控訴した葛沢の二審裁判がもうすぐ行われると聞いたことが影響したかもしれない。
そのとき検事は、「恐らくは先の裁判結果が支持され、控訴も上告も棄却されるのではないか」という個人的見解を示していた。
和宏の興味がなかなか裁判に向かない中、意識は例の川に向かう。
(兎に角、行ってみよう)
そう思って久しぶりに重い腰をあげてみたものの、物事は簡単には進まないのが世の常だ。
冬の間、全く動かさなかった自家用車のバッテリーがすっかり元気をなくし、セルモーターが全く動かなかったのである。いくら力を込めて鍵を捻ってみても、エンジンはうんともすんとも言わない。
耳の無い車に向かって、和宏が盛大に舌打ちする。
そのとき彼は、玄関の靴箱の中に車バッテリー用の充電器をしまっておいたことを思い出した。車のボンネットを開けてバッテリーを取り出し、居室に持ち込む。午前中の時間を使ってバッテリーを充電した。バッテリーを車に取り付け、ヤリキレナイ川へと向かって出発した頃には、もう午後二時を過ぎていた。
凡そ半年ぶりのヤリキレナイ川。
彼の車も、冬にずっと放っておかれたことに不平不満を持っていたのかもしれない。エンジンの吹きあがり方が、いつもより何となく鈍い気がするのだ。
きっと車への思いやりと、それなりの整備が必要なのだろう。
都会とは違い、川辺にはまだ雪が残っている。
しかし、ここにも確実に春は来ていた。
コンクリート護岸の川岸近くのそこかしこでは、大気中の粉じんを吸って茶色くなった雪の層を突き破るようにして、ふきのとうが芽吹いていたのだ。
(川を遡れば、水源の池に行けるのかな)
久しぶりに目にした川の佇まいが、彼なりに結論した川の名前の由来の地形を思い出させ、実際にその目でその地を確かめてみたいという気持ちを彼に起こさせたのだ。
だが、彼は勇気を奮い立たせることまではできなかった。
いくら小河川と言えど雪解け時期の川の流れはそこそこ速く、彼の鈍った脚ごときでは遡れそうにもなかったのだ。
仕方なく、長男の宏太の亡骸が見つかった橋梁の近くで暫し佇むことにする。
そんな風に、ぼんやりと川の上流側を眺めていたときだった。
四角い形をした黒っぽい塊が、雪解けで水勢を増した川面を漂うようにして川の上流側からこちらに向かって流れて来たことに、気付いたのである。
「……!」
体が、勝手に動いた。
理屈は解らない。でも兎に角、体が動いたのだ。
ざくざくと音を立てながらザラメ質の雪に両足を踏み入れた和宏は、橋の袂から川へと降り立った。
漂流物に目掛け、ほぼ氷と同じ温度の冷水――yam‐wakkaの中へと両手を勢いよく突っ込んだ。川面から掬い取られた、黒い塊。
手にした塊から、水滴が滴り落ちてゆく。
和宏自身も、靴に靴下、スラックスまでびしょ濡れになった。が、冷たさは感じなかった。
「こ、これって――」
彼の言葉は白い水蒸気となって、空気中に消えた。
あやふやな存在の言葉にとって代わり、今の彼の手の中には、確実ともいえる存在の実体物あった。それは、警察に捜してもらったが最後まで見つからなかった、麻帆のハンドバッグだった。
彼女が肌身離さず持ち歩いていた、和宏からの贈物である。
「麻帆! 麻帆!」
元々淡いベージュ色だった外側の革は、一年半もの年月を経て黒く変色し、ボロボロに剥げていた。
震える手で、バッグ上部のチャックに手を掛ける。
かなりの力が必要だったが、チャックはぎこちなく動き、バッグを開けることができた。その中には、湿気でかなり痛んではいたが、二つ折りの革財布と携帯電話、そしてパスケースがあった。
パスケースを持ち上げた瞬間だった。和宏が思わず声を上げた。
それは、パスケースに貼り付くようにして一枚の写真――数年前に写した、ほぼ無傷な状態の家族写真――が出て来たからだった。
奇跡に近いというより、奇跡そのものといえた。
写真を手に取り、じっと見入る。
後方左側で緊張した面持ちで立つ、和宏。その右横で、にこやかに笑う麻帆。
両親に挟まれる形で、宏太と恵美の二人が椅子に座る。そのどことなく緊張した面持ちは、一生懸命に笑わせようとするカメラマンの期待に応えようと頑張っているからに違いなかった。
忘れもしない。
長女の恵美が中学に入学する際、写真館まで出掛けて撮った記念の写真だ。
(麻帆のやつ、いつもこの写真を持ち歩いてたんだな……)
誰に聞かれたって構わなかった。
吠えるような大声で、和宏は心行くまで泣いた。
まだ冬の冷たさの残る川水に足を突っ込んだまま泣く男の姿は、通りがかりの人から見れば、かなり奇異に映ったであろう。
だが川辺の残雪は彼に温かく、優しかった。
慟哭は雪によって吸音され、周りの人々に届くことはなかったのである。
「俺、ついさっきまで神様なんていないと思ってた。けど神様はいたんだよ、ここに……。家族という名前の神様が!」
神様の写った写真を胸に引き寄せ、抱きしめる。
暮れなずむ夕陽を見つめる和宏の視線の先は遥か遠く、そして力強かった。
〈了〉