19 いつまでも幸せに
暗闇のなかに横たわっている。胸のあたりに重みがあり、あたたかい。
ここは彼女の住処だった。質量のある闇そのもの。
魔族にとっては居心地がいい。
目を開けると、彼女がいる。僕の胸の上。自分自身すら見えない暗闇なので、彼女の白い毛並みは眩しいくらいだった。
無事? と聞くと小首を傾げて鼻で笑われた。当たり前のことを聞いてしまったらしい。それに僕も笑う。
僕が怖気付いていることに気付いていたらしい彼女が先んじて教えてくれた。
あの坊やも無事だ。
僕は安堵の息を吐いた。怖くて聞けなかった。情けないことに。そんな僕をじっと見つめて彼女はまた口を開いた。
ただ、いくつかの問題がおこったが。
それを聞いて気付いたらがばりと起き上がっていた。胸の上に乗っていた彼女がころりと転がる。
丸い小さな手がくるくる、と闇を掻き回すように動くのを見つめる。彼女が言いづらいことを言う時のお決まりのしぐさだった。
彼女いわく、即席で無理やり空間を繋げてしまったから、彼女の力が予測不能な形で作用してしまった。
つまりはどういうことかと言うと、由貴に彼女の因子が紛れてしまったらしい。
由貴は女の子になり、見た目もまるで違ったものになってしまったらしい。なんと言うことだろう。あの子の混乱を思うと申し訳なさで涙が出そうになった。
もう一つ、鏡が失われた。鏡の気配は彼女の力を持ってしても辿れなかった。ということは、あの混乱で鏡は由貴の世界へ飛ばされてしまったのではないか、と彼女は考えているとのことだった。
本来こちらの存在が、別の世界に行くことはあり得ない。
ただ、混乱の中、彼女という巨大な力を持つ者が干渉してしまったことであり得ないことが起こってしまったのかもしれない。
十全な結果とは言えないし、由貴の無事を確認する手段が失われたのは痛いが、そもそも彼女の助けがなければ由貴は蛸に食べられてしまっていたのだ。
彼女には感謝の気持ちしかなかった。
鏡が由貴の世界に渡ってしまった。
僕にとって全ての始まりと言える。
あの鏡を僕にくれたのは由貴の母親だった。
息子を失った失意のなか、鏡の中に由貴の姿を見たのだろうか?
どれだけ姿が変わろうとも、それが息子だと気付いて。
そうして何らかの方法を使ってこちらの世界にやってきたのだろうか。
息子のために。いつかの未来で、彼女にとっての過去で、息子を救うために。
由貴を見つける前の僕なら、ただの人間にそんなことは不可能だ、と判断した。別の可能性を考えた。
でもあの子を知ってから、僕自身も随分な無茶をしてきた。だから分かる。どんなに無理に思えても、足掻く姿が無様になろうとも関係ないのだ。
大切な人のためなら、不可能に思えることでも諦められない。ただそれだけのことだった。
僕は友人の庇護のもと、眠ることで体を癒した。
手っ取り早く、人間の魂を食べない僕に彼女は何も言わなかった。
蛸を攻撃するために、無理に魔力を通し続けた指先は焼けこげたように黒く染まったままだったので、手袋で覆い隠した。
以前の自分とは比べものにならない程に、今の僕はひ弱だ。それでもなんとかやっていけるくらいには回復した。
ありがとう、と告げて彼女の闇から出ていこうとしたその時、
あの子がまた厄介なことになっている……。
と彼女は何も悪くないのに、ひどく気まずそうに言った。
そうして、大慌てで由貴の元に駆けつけた。
僕ときたら、鏡越しではない本物の由貴を前にして感動と興奮でおかしな挙動になってしまい、あの子を随分怯えさせてしまった。
あの子の姿は鏡に映っていたものとは大分変わっているようにも思ったし、何も変わっていないようにも思えた。
「……可愛かったなぁ。」
万感の想いを込めて呟くと、肩に小さな四つ足の重みと温もり。
「もっと一緒にいたかったのでは?」
純白の毛並みを持つ僕の友人、アルマースだった。
「そうだけど……。やっぱりこれで良かったんだよ。今のユキは人間だから。もし、ユキに食欲なんて感じたら僕は自分が許せない」
「大丈夫だって自信があったから連れていこうとしたのでは?」
「そりゃあ、あの子の面倒を見てくれているのが海神だなんて思わなかったから。海神なら僕なんかよりよっぽどあの子の力になれるよ」
「……お前が一番あの子を大切に思っているのに」
不満そうにアルマースがひげを揺らす。それを見て僕はわらった。
あの子を抱えていた腕が、寂しいと訴えるように少しだけ痺れている。
「これでいいんだよ」
僕は紺碧の地平線を見つめる。波は常に形をかえて、寄せては返す。その遥かな海の底に、ユキがいる。
「こうして悪い王子の元から助け出されて、人魚姫の魔女はいつまでも幸せに暮らしました」
悪くない終わりなんじゃないかな。
強がっていたつもりはなかった。
けれどこの数日後、どうにか周囲を説得し、海神と人魚姫をお供に連れて、僕を探して会いに来てくれたユキを見て、僕はぽろぽろと涙をこぼして泣いてしまうのだった。




