17 望むものを映す鏡
とうとう、あの子が視界から消えてしまった。
あの子は行ってしまった
あの子を雑に片手に抱えるのはやめてほしかった。
両手で、万が一にも落としたりしないようにしっかり抱いて。
気分が悪くなってしまうかもしれないから、揺らさないように気をつけて。
そんなふうに大事にしてほしかったけれど、あの海の神は随分慌てていたようだから仕方ない。
それだけ、僕という存在はユキにとって危険なのだと分かっているということだ。
それだけ、彼を大切におもってくれているということだ。
ユキが人間に捕まっているとわかって血の気が引く思いだった。
どうにか助けて出したけれど、彼がこれからも海の中で安全に暮らせるなら、僕の出る幕はない。
人間の体でも海神の加護があれば、海の中で生きていくことができるだろう。
人間の体といっても、以前の伊吹由貴ではない。
ユキはあまり深く考えていないようだった。
二本の足を得て、少しでも昔を思い出して、辛い思いはしなかっただろうか。
その日もいつものように、手順をふんで、人間の魂を食べた。
手順というのは取引だ。ユキが人間になる魔法の代償として、声を失ったように。
魔族は人間の願いを叶える。その代償に魂を貰う。
その人間は変わり者だった。叶えたい願いは大したこともないもので、なのに礼だと言って鏡までよこした。
――この鏡にはあなたの望むものがあらわれます。
最期の息をそっと吐き出して、彼女は動かなくなった。皺の刻まれた顔がどこか晴れ晴れとしていたのが不思議だった。
住処に戻って鏡を覗くと、赤ん坊が映っていた。鏡からは、弱々しい鳴き声まで響いてきた。
僕の望むのはこの人間の魂なのか。
そう思って鏡を見ていると、映っているのはどうもまるで異なる世界のようだと気付いた。
どれだけ僕の好みの味だったとしても、異世界の人間を手に入れるのは骨が折れる。
興味は薄れた。それでもなんとなく、たまに鏡を覗いた。
赤ん坊は男の子だった。
鳴き声は少しずつ言葉になった。
由貴と呼ばれて笑っていた。
小さな爪のついたむちむちとした柔らかな手。
誰かの大きな手とつないで、歩きだした。
背中をおおうような大仰な鞄を背負って、学校に通った。
一人で火を使って夕食をこしらえて、家に帰ってきた母親に振る舞った。
気付けば、僕はいつでも鏡を見ていた。
鏡のふちを指先で意味もなくなぞっていた。
なぜか彼から目が離せなかった。変わり映えのない日常に飽きることはなかった。むしろ、彼の穏やかなせせらぎのような日々に、さざなみが起こる方が嫌だった。
ずっと見ていたかった。彼に会いたかった。
もう随分食事をしていなかった。
僕は最後に食べた魂の正体に気づいていた。
鏡を僕に渡して、どこか安堵したように笑いかけた。
大樹の生きた証の年輪のように、深い皺の刻まれた顔。
その奥にひっそりと沈む瞳のあたたかな色。
鏡の向こうの彼と一緒にたびたび映り込む人がいた。
赤ん坊だった彼を抱きしめる女の柔らかな腕。
小さな彼の手を離さないように、覆うように握っていた爪の短い女の手。
当たり前のように彼を抱きしめる女の笑顔。
由貴の母親だった。
僕は由貴の母親を食べてしまった。
意味がわからなかった。
鏡の向こうでは変わらず、由貴は母親と過ごしている。
どんな理屈で由貴の母親がこちらの世界にいたのか。
ありえない。勘違いだ、そう思い込もうとしても無理だった。
鏡を見れなくなった。
頭と胸に、なにか重苦しいものが詰まっている。
はじめて感じる。この感覚はなんだろう。
わからないままに逃げるように鏡を見れないまま考えて、考えて。出た結論はこのままにはできない、ということだった。




