0 序
守りたい女の子がいた。
いつもいつでも前向きで、誰に臆することなく憧れを口にできるあの子。
地上に行ってみたいと言うのも、
助けた王子のことが気になると言うのも、
叶えてあげることは出来ても代償が大きすぎる。
蒼銀の鱗におおわれた下半身。透きとおった尾ひれ。
今ある美しさを捨てて、人の二本の足を得る。
そのためには、玲瓏たる声を奪い、そこまでしても与えてあげられるのは、歩くたびにナイフで刺されるのと同等の痛みを伴う不完全な足。
だから、かわりに見にいこうと思ったのだ。
こっそり王子の様子を伺って、溺れた後遺症がなく、元気にしているならそれで良し。具合がよくないようならば、それはそれで、人魚であるあの子が人間の王子にしてやれることはない。
僕の吸盤だらけの下半身で、城の近くの岩礁にでも、数日張り付いていればいい。それである程度、王子の現状も伺い知れるだろうと。
地上に行くか行かないかは、あの子がもう少し大人になってからあらためて考えてほしかった。
あの子は前世の僕の享年と、変わらない年齢の、まだ子供なのだから。
そうして、海底の城を抜け出して陸に近づき。
僕は悪魔のような王子に捕まった。
夢見る乙女が思い描く、理想の王子様。
輝ける金の髪、明るい青空の色の瞳。
均整のとれた体躯。
僕にとっては、
底なしの悪意をたたえた瞳と、暴力の体現。
珍しい魔物を手に入れたぞ、と。
城の地下、不気味な実験室に閉じ込められた。
悪意はない、以前海で溺れたあなたが壮健かどうか確認したかっただけなのだと、どれだけ言っても無駄だった。
言葉はたしかに通じているのに。
不気味なイキモノには何をしてもいい、ということらしかった。
人間と同様の腰から上も、下半身の蛸の足も。
切られ、切り取られ、焼かれ、凍らされ。
王子と、彼に連れられてきた何人かの魔術師に毎日のように弄ばれた。
あるとき、誰かが「この魔物を長く研究するためには、休息日を設けたほうがよい。触手の再生が以前より遅くなっている」というようなことを進言した。
今日は初めての休息日だ。
狭い水槽に満たされた、古い海水につつまれて。
僕は目を閉じて思う。
良かった、と。
あの子を地上に送りださなくて
無邪気に王子に会いに行かせなくて
いま、こんなにも痛いのも
怖くてしかたないのも
この仕打ちをあの子が受けていたかもしれないことのほうが恐ろしいのだから。
ぎいぃ、と重い扉が開く音がした。
目を開ける。霞んでよく見えない。
誰かが立っている。
近づいてくる。
「迎えにきたよ」
男の声。とろりと甘く響く。
「さあ、僕に願って」
……何を?
「決まってるだろう?」
仕方がない子、と甘やかすようなため息。
「君を傷つけた屑どもの」
内緒話をするように密やかで愉しげな声音。
「死を」
……ちょっと待って。
なんですと?
そんな十字架、背負いたくないんですけど。
僕、こう見えて平和な日本出身なんです。
この世界に来てからも、海の中で穏やか〜に生きてきたから、
「屑どもに死を」とか言われるとびっくりする。
びっくりしたから意識がはっきりしてきた。
水槽の外に立っていたのはすらりと背の高い美しい男だった。
さらりとした灰青色の髪。金の満月のような瞳は切れ長で、吸い込まれそうな妖しげな魅力があった。
黒づくめの仕立ての良い衣服に身を包んで、優しげに微笑んでいる。
普通の人間なのだろうか?
ぞっとする程の美人なことを除けば、どこから見ても人間だ。
でも僕みたいな蛸人魚を前にして
優しげに
うっとりと
なめらかな頬を薔薇色に染めている人間は絶対普通じゃない。
男が水槽にそっと両手をつく。黒い手袋をしていて、右手と左手の薬指に指輪がはまっていた。
額もこつりとガラスにあたった。
男は瞬きもせず、潤んだ金の瞳で僕を見ている。
怖い。助けてくれるかも、などと思うよりもなんだか怖い。
離れたいけれど水槽は狭い。せめてもと、背面のガラスに縋り付いて、できる限り縮こまった。
そんな僕を見て、男は瞳を細めて、
「……かわいい」
と呟いた。かすれた声だったのが本気具合を感じて恐ろしかった。
――どうして、こんなことになったんだっけ。
そうだ、僕は元はそもそも人魚なんていない世界で。
蛸人魚の女の子なんて生き物ではなく。
男子中学生だった――




