後半:攫われたその先で
お目に留めていただきありがとうございます。
お楽しみいただければ幸いです。
*
学園の石壁が後ろへ流れていく。
裏通りを抜け、王都の外周路へ出る。車輪が石畳を叩く規則的な振動が、座席越しに伝わってきた。
リディアは窓の外を見つめた。
見慣れた学園の景色が遠ざかっていく。
それだけで、自分が本当に“戻れない場所”へ踏み出したのだと実感する。
胸の奥が、少しだけ騒いだ。
「……本当に、出てしまいました」
「いまさら?」
「なんだか夢心地で……ようやく、実感が湧いてきたところです」
「なら良かった。門を出る前に我に返って、泣いて尻込みされていたら困るところだった」
「子供じゃありませんから、泣いたりしません」
「そう言うと思った」
ノアはようやく肩の力を抜いたように、御者台から振り返らずに答える。
まじまじと御者が馬車を操る姿など、これまで見たことはない。
それでも、ノアの手つきが妙に迷いなく、馬の動きとひとつに繋がっているように見えた。
「なんだか……とても慣れているのですね」
「幼い頃から、よく操っていたからね」
「馬車に乗る方ではなく、操る方を?」
その問いに、ノアは答えず、ただ口元だけで笑った。
それが、かえって気になった――
けれど今は、それを追及している場合ではない。
リディアは膝の上で手を組んだ。
指先に、いつの間にか力が入っている。
屋敷では今ごろ、きっと大騒ぎになっているはずだ。
「……脅迫状は、もう届いている頃よね」
想像しただけで、父の顔が浮かぶ。
母は青ざめ、アルフレッドは静かに犯人を追っているだろう。
「そういえば、結局なんて書いて出したんですか」
「実に穏当な表現で、雅やかな書状に仕上げたよ」
「穏当で雅やかな脅迫状……?」
「『娘は預かった。心配無用』」
「ちっとも雅やかな脅迫状ではありません」
「そこを気にするのか」
思わず言い返すと、ノアが笑った。
その笑いにつられて、リディアも少しだけ口元を緩めた。
不思議だった――
こんな状況なのに、怖さより先に可笑しさがくる。
*
王都の南通りへ入った頃だった。
ノアの肩が、わずかに強張った。
「どうしました」
「後ろを見て――」
言われて振り返る。
遠く、石畳の向こうから、一台の白い馬車が猛然と迫ってきていた。
見覚えのある紋章――
エヴァレット伯爵家。
「な——」
リディアは言葉を失った。
「この馬車を追いかけているのよね。なぜ……?」
「……さあ。ずいぶん仕事の早い家だ」
ノアは軽く答えたが、その視線だけは一瞬、鋭く後方を測っていた。
――想定以上に、早い。
こちらへ気を取られているリディアは、その変化に気づかない。
「感心している場合ではありません!」
馬車は明らかにこちらを追っている。
御者は、見慣れた老執事だった。
「アルフレッド……!」
あれは間違いなく、エヴァレット家の執事だ。
しかも本気だ。
あの人は、本気で追ってきている。
子供の頃、いたずらして庭の花壇を台無しにしたとき、背後に何やら黒いものをまとい、無言で追ってきた――あのときの悪夢が蘇る。
「どうします!」
「逃げるわ――」
それ以外の選択肢などなかった。
ノアは手綱を強く引き、馬を走らせた。
速度が上がる――
次の瞬間、車体が大きく跳ねた。
「きゃ――!」
リディアの身体が座席からわずかに浮き、慌てて窓枠へしがみつく。
石畳を叩く蹄の音が激しくなり、景色が横へ流れていく。
「ば、馬車って、こんなに速く走れるものなのですか!」
「さあ? でも、走ってるじゃないか」
「すごく揺れてます! あちこち軋んでます!」
「舌を噛む。解説はあとで――」
「壊れそうです!!」
「万物は壊れるもの――――さ!」
そう気合いを入れた次の瞬間、
ノアは速度を落とさぬまま、馬車を横滑りさせて角へ突っ込んだ。
「え――っ!」
車体が傾く――
遠心力に振り回され、リディアは反対側の座席へ投げ出されそうになる。
市場通りへ飛び込む――
店先の果物籠が揺れ、林檎が石畳へ転がった。
悲鳴を上げた通行人たちが、左右へ跳びのいて道を空ける。
「申し訳ありません! 林檎は後で買い取ります――!」
反射的にリディアが叫ぶ。
「今それを言うのか――」
「大事なことでしょう!」
振り返れば――
アルフレッドの馬車も食らいついてくる。
恐ろしいほど正確に。
「執事って、馬車で暴走するのも仕事なんですか!」
「たぶん、きみのところだけだと思うよ」
さらに角を曲がる――
車体が大きく傾き、リディアは座席の端へ押しつけられた。
窓の外で石造りの建物が一気に流れ、狭い路地がふっと開ける。
次の瞬間、視界いっぱいに白い飛沫が弾けた。
中央で水を高く噴き上げる、噴水広場だった。
広場で餌をついばんでいた鳩が、一斉に飛び立つ。
その白い軌跡を見て、リディアはふと思い出した。
幼い頃、両親に連れられて行った丘で見た、タンポポ畑から一斉に舞い上がる白い綿毛を。
「きゃっ!!」
風が吹き抜け、結い上げた髪が乱れる。
帽子が飛びそうになり、慌てて押さえた。
その瞬間だった――
胸の奥で、何かが弾けた。
可笑しい。
あまりにも。
自分は今、家の馬車に追われている。
理由は、自分が自分を誘拐したから。
こんな馬鹿な話があるだろうか。
「……ふ」
笑いが漏れた。
「ん?」
「ふふっ……」
止まらない――
とうとうリディアは声を立てて笑い出した。
「リディア?」
「だって……こんなこと、あるかしら……!」
笑いながら涙が出る。
怖くないわけではない。
でも、それ以上に——楽しかった。
風が頬を打つ。
髪が乱れる。
胸が熱い。
ずっと閉じ込められていた何かが、外へ飛び出していくようだった。
「ようやく笑った」
ノアが前を向いたまま言った。
「え?」
「その顔の方が、君には似合う」
その言葉に、リディアは返事を忘れた。
*
追走劇は、王都の外れで終わった。
細い坂道へ入ったところで、背後から大きな破砕音が響く。
リディアは振り返った。
あれほど正確に食らいついてきたアルフレッドの馬車だったが、ついに車体が耐えきれなかったのだろう。
車輪がひとつ外れ、大きく傾いていた。
完全に横転はしていない。
だが、これ以上の追跡は無理だ。
「止まりませんの?」
「大丈夫。御者に負傷の様子はない」
「それはそうですけれど……」
ノアは速度を落とさぬまま、坂を登り続けた。
やがて、視界が開けた――
狭い坂道を抜けた先には、王都を一望する小高い丘が広がっていた。
石造りの街並みの向こうで、夕陽がゆっくりと西へ傾き、空を赤く染め始めている。
ノアは、そこでようやく馬を止めた。
蹄の音が消える。
代わりに耳へ届いたのは、丘を渡る柔らかな風の音だけだった。
静かだった――
つい先ほどまで街中を駆け回っていた喧騒が、まるで遠い別世界の出来事のように思えた。
リディアはノアの手を借りて馬車を降りる。
足元が少しふらついた。
けれど、その顔には笑みが残っていた。
「……楽しかったです…ね」
「そうだな」
ノアも笑う。
「王都横断馬車競走という娯楽を考えてみるべきか……」
「なんでそこに行くのよ!」
リディアは夕陽の中で深く息を吸った。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
こんなふうに、心から自由だと思えたのは――
その答えを探すより先に、丘を渡る風が頬を撫でた。
空は、ゆっくりと赤く染まっていった。
第四幕 丘の上の夕暮れ
王都を見下ろす丘の上には、春の終わりを告げる風が吹いていた。
追走の熱をまだ身体に残したまま、リディアは馬車から少し離れた草地に立っていた。坂を駆け上がったあとの足元はまだわずかに頼りなく、頬には風に煽られた髪が張りついている。
それでも、不思議と気分は軽かった。
眼下には、夕日に染まる王都が広がっている。
石造りの屋根が赤く染まり、その向こうでは川面が光を返していた。
昼間はあれほど騒がしかった街が、この距離から見ると穏やかな一枚絵のように見える。
「……綺麗」
思わず漏れた言葉に、背後から足音が近づいた。
「気に入った?」
ノアだった。
馬の様子を見ていたらしい。いつの間にか上着を脱ぎ、腕まくりをしている。
その姿は学園で見かける“子爵家の次男”より、ずっと自然に見えた。
「こんな場所があるのですね」
「王都育ちでも知らない人は多い」
「あなたは知っていたのですか」
「逃げ切った先に景色のいい場所があると、満足度が上がるだろう」
その言い方が可笑しくて、リディアは笑った。
「計画的だったのですね」
「一応は――」
ノアも笑ったが、その目は夕景へ向いていた。
しばらく、二人は並んで立った。
言葉はない――
しかし、気まずさはなかった。
むしろ、それが自然だった。
同じ方向を見て、同じ風を受けているだけで十分だと思えた。
「……私、少し勘違いしていたようです」
リディアがぽつりと口を開く。
ノアは黙って聞いていた。
「婚約が嫌なのだと思っていました……」
それは確かにそうだった。
自分の意思とは関係なく未来を決められることが、苦しかった。
「自分の人生なのに、選べる道が限られていることが嫌だったのだと思っていました」
けれど、今なら少し分かる。
「……本当は、違ったのです」
風が草を揺らした。
「私は——
誰かに、連れ出してほしかったのかもしれません。
……決まりきった日常から」
ずっと真面目に生きてきた。
長女として、令嬢として、家を継ぐ者として。
そのことを誇りに思っていたし、後悔もない。
けれど、その枠の外へ一歩出る勇気だけは、持てなかった。
だから今日、自分で選んだ。
正確には——彼と一緒に選んだ。
そのことが、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。
「君は、自分で出てきたんだよ」
風に落ちた前髪を指先で払いながら、ノアが静かに言った。
「僕は、馬車を出しただけだ」
リディアは隣を見る――
夕日を受けた彼の横顔は、学園で見せる軽やかな笑みとは違って、少しだけ大人びて見えた。
「そう思っていいのでしょうか」
「もちろんさ」
言い切られると、少し照れくさい。
リディアは視線を戻した。
「……ありがとうございます」
「さて、何のことだろう?」
「共犯してくれて……」
誘拐計画に付き合ったこと。
馬車を出したこと。
笑わせてくれたこと。
ここまで連れてきてくれたこと。
そのすべてに――
ノアは少しだけ黙って、それから肩をすくめた。
「それなら、こちらこそ――」
「何を……?」
「期待以上に退屈しなかった」
それは彼らしい言い方だった。
けれど、リディアには分かる。
それだけではないことを。
だから、あえてその先は聞かなかった。
空の赤が、少しずつ濃くなっていく。
陽が沈めば、今日という日は終わる。
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。
この時間が終わってしまうことを、惜しいと思った。
「そろそろ戻らないと……」
自分に言い聞かせるように口にすると、ノアがうなずく。
「そうだね――」
馬車へ戻る前に、リディアはもう一度だけ振り返った。
夕焼け。
風。
王都。
そして、その隣に立つ彼――
今日という日を、きっと忘れない。
遠くから、車輪の軋む音が近づいてくる。
アルフレッドが、応急処置を施した馬車でこちらへ向かっていた。
現実が、追いついてきた。
「では――」
彼女は、努めていつものように微笑んだ。
「ありがとう。これで、お別れです」
ノアは何も言わなかった――
ただ、その言葉を受け止めるように、静かに彼女を見ていた。
その視線の意味を考える前に、リディアは馬車へ向かった。
振り返らなかった――
振り返ったら、名残惜しくなる気がしたからだ。
夕日は、二人の背中を長く照らしていた。
第五幕 正式なお迎え
王都の一角を騒がせた“誘拐事件”は、驚くほど静かに片づいた。
リディアが無事に帰宅した夜、父は珍しく長く黙り込み、母は彼女を抱きしめた。
末の妹はよく分からないながらも、泣きながら「もういなくならないで」と言い、執事のアルフレッドは「お怪我がなくて何よりです」と告げたあと、なぜか深く頭を下げた。
叱責は、思っていたほど厳しくなかった。
それどころか、家の中にはどこか奇妙な遠慮があった。
脅迫状が届き、娘が学園から姿を消し、正体もよく分からぬ令息と半日を共にしていたというのに、家は表立って騒ぎ立てなかった。
外聞を整えるためだろうと、リディアは解釈した。
それなら、それでいい――
自分もまた、余計な説明はしなかった。
——あの丘でのことを、誰にも話したくなかったからだ。
*
数日後――
学園の中庭では、エミリアの招きにより昼休みの茶会が開かれていた。
もちろん、目的がただのお茶会でないことを、リディアは理解していた。
白いテーブルクロスの上にあるのは、リディアが持ち込んだ林檎のタルトだった。
——市場通りで飛び散った林檎への、ささやかな罪滅ぼしの結果でもある。
「それで?」
「何が、それでなの?」
「その顔で“何が”は通りませんわ」
リディアは思わずカップを置き、頬に手を当てた。
「どんな顔をしているの?」
「前より少し、柔らかい顔ですわ」
エミリアはじっと親友を見る。
「何かありましたわね」
「……少しだけ」
「聞いても?」
リディアは少し考えてから、首を横に振った。
「まだ……かな」
「なるほど。まだ、なのね」
エミリアは紅茶を一口飲んだ。
何が“まだ”なのか。
説明できる言葉を、リディアは持っていなかった。
ただ、あの日から、自分の中に何かが残っている。
夕日の色。
風の匂い。
馬車の揺れ。
そして、あの笑い声。
「……でも、いつかはエミリアに聞いてほしい」
「そう――」
沈黙が落ちる。静かで、奇妙に心地の良い間だった。
「そういえば……」
エミリアが思い出したように言った。
「ご実家から正式なお見合いのお話が届いたのでしょう?」
リディアの手が、わずかに止まった。
「……どうして知っているの」
「社交界に秘密はありませんわ」
それもそうか――
数日後、正式な見合いを行う。
相手は留学から戻った第三王子。
父はそう告げた。
断る理由はない、とも。
正直、気が重かった。
自分で望んだ婚約回避のはずなのに、結局こうして別の縁談が持ち込まれる。
しかも、なぜか格上との縁談だ。 ますます気が重くなる。
「嫌そうな顔――」
「それは当然でしょ……」
「前ほどではないわね」
――残念ながら、否定できなかった。
*
見合い当日――
王宮の離宮にある庭園は、初夏の花で彩られていた。
整えられた芝は陽光を受けて柔らかく輝き、白や薄紅の花々が風に揺れている。遠くでは噴水の水音が絶え間なく響き、静けさの中に規則正しい気配を刻んでいた。
美しい場所だった。
けれどリディアは、その美しさをどこか遠くに感じていた。
一歩進むたびに、足元の感覚だけがやけに鮮明になる。これまでの茶会とも、学園の中庭とも違う、形式の重みがそこにあった。
胸の奥は不思議と静かだった。
落ち着いている、と言ってもいい。
ただ、その静けさが本当に自分のものなのか、少しだけ確かめきれない。
整えられた生垣の間を、侍女に案内されて歩く。
王族との正式な面会らしく、今日は礼装だった。
淡い青のドレスに身を包み、髪も丁寧に結い上げている。
それでも、胸は落ち着かなかった。
「第三王子殿下がお待ちです」
案内された先に立っていた人物を見て、リディアは足を止めた。
黒髪。
金色の瞳。
礼装をまとったその青年は、立っているだけで場の空気を変えるような気品をまとっていた。
——なのに。
なぜだろう。心が動かなかった。
自分の好みはもっとこう——
浮かびかけた面影は、まだはっきりとは形にならない。
けれど、少なくとも目の前のこの非の打ちどころのない青年ではないことだけは、確かだった。
「はじめまして、リディア嬢」
低く落ち着いた声。
丁寧な礼。
「ノアーブル・アレクシス・アストレアです」
いかにも第三王子らしい、立派な名だった。
リディアも礼を返し、庭園を並んで歩き始める。
花々の間を抜け、東屋へと辿り着く頃には、風は少し穏やかになっていた。用意された席へと案内され、侍女が静かに紅茶を注ぐ。
その所作が終わったとき、見合いの茶会は始まっていた。
最初の違和感は、目線の高さだった。
会話をしていて、妙に視線が合わせやすい。
立っているときも、座っているときも——
どこか、慣れた角度なのだ。
次に気になったのは、仕草だった。
歓談の最中、初夏の風が王子の前髪をわずかに乱した。
額へ落ちたそれを、指先で静かに払う。
何気ない仕草——
なのに、見覚えがあった。
そして、決め手は差し出された手だった。
「正妃様ご自慢の、薔薇園が満開だそうだ」
そう誘われて席を立つとき、彼が手を差し出した。
指先を少し上げ、相手が取りやすい角度へと整える。
それは数日前、王都の外れの丘で、馬車を降りるときに自分へ向けられた手と、まったく同じだった。
胸が、大きく鳴った。
あのときも、この人は同じように——
リディアは、その手を取らず、彼の顔を見上げた。
彼はわずかに首を傾げた――
その仕草に続いて、口元が先にやわらぐ。
その笑い方を、知っている。
黒い髪も、金の瞳も——
数日前の彼とは、何ひとつ重ならないはずなのに。
それでも、分かってしまった。
「……まさか」
喉が渇いた――
言葉が、ひどく小さくなった。
「あなた……」
青年の目が、楽しげに細くなる。
それだけで、もう十分だった。
「……ノア・ヴァレンティン」
彼は否定しなかった――
むしろ、ようやく隠す必要がなくなったように微笑んだ。
「母方の家名を借りている。学園では、王子ではなく一人の学生でいたかった」
リディアは、しばらく言葉を失った。
騙された——と思った。
同時に、どこかで納得もしていた。
あの手綱さばきも。
あの落ち着きも。
あの妙な余裕も。
子爵家の次男にしては、出来すぎていたのだ。
「……騙しましたの?」
「結果的には――?」
「確信犯じゃないですか!」
思わず声が強くなる。
「あなたは、最初から知っていたのでしょう。私のことも、家のことも」
「もちろん。君のことはずっと前から知っていた」
「では、あの誘拐も……あなたが?」
「何を言っているの。僕は共犯者にすぎないよ」
「そうじゃないわ」
リディアは眉を寄せた。
「よく考えたら、アルフレッドが追ってくるのが早すぎたもの」
ノアの目が、ほんのわずかに泳ぐ。
「そうよ——脅迫状!」
リディアは身を乗り出した。
「本当は、何て書いたの? ああなるように、わざと計画を漏らしたんじゃないの?」
ノアは、いつものような朗らかな笑みではなく、どこか誤魔化すように笑った。
「はは……」
「やっぱり!」
リディアは指を突きつける。
「主犯はあなたじゃない!」
「そう言うと思った」
ノアは声を立てて笑った。
その笑い方が、腹立たしいほど変わらない。
「――そういえば、あの脅迫状の書式集……」
「ああ、あれ? ちゃんと棚から回収しておいたよ」
「回収……? ということは——」
「置いたのは僕だからね。
本を探す時は、独り言は控えたほうがいいよ」
——呆れを通り越して、もう何も言葉が出なかった
「怒っている?」
「当然です」
「それは困ったな」
「困ってください」
言いながら、リディアは気づいた——
自分は怒っている。
——確かに、そのはずだった。
けれど、それ以上に——嬉しかった。
あの日の別れが、本当の別れではなかったこと。
知らない相手との見合いではなく、知っている相手との再会だったこと。
胸のどこかで惜しんでいた時間が、思いがけず戻ってきたようだった。
その事実が、胸の奥をじんわりと温めていく。
ノアは笑みを収め、まっすぐ彼女を見た。
「僕は、王位継承争いに興味がない」
突然の真面目な声に、リディアも姿勢を正した。
「母も同じだ。王宮で争って生きるより、別の人生を選びたい」
その瞳に、ふざけた色はない。
「だから身分を隠して学園へ行った。王子ではなく、一人の人間として、自分の未来を探すために」
ノアは、一歩近づいた。
「そして、見つけた——」
リディアの心臓が、また速くなる。
「家を継ぐ覚悟がある人を」
「自分の未来を、自分で選ぼうとする人を」
「そして——馬車で王都を逃げ回っても、笑っていられる人を」
思わず、笑ってしまった。
そんな求婚の言葉があるだろうか。
「……そういえば、馬車は——なぜ?」
「まだ気にしていたのか」
「気になります」
ノアは肩をすくめた。
「王子教育の一環だよ。御者が倒れたときに困るだろう?
何が起きても備えられるようにね」
「そんな教育、本当にあるのですか」
「ある。王族というのは、案外なんでもやらされる——実際、君の心を攫うのにも役立っただろう?」
「…………」
ノアは、いつもの笑顔に戻る。
「君の家に、婿入りしたい」
あまりに彼らしい言い方だった。
重々しくなく、けれど逃げ道もない。
リディアは彼を見つめた――
数日前の自分なら、きっと戸惑っただろう。
けれど今は違う——
もう、自分で選べる。
「……お受けします」
ノアの表情が明るくなる。
「ですが——」
「条件がある?」
「あります」
リディアは、この上なく優雅に微笑んだ。
「あの日は、ずいぶん乱暴に連れ回されました」
「そうだったかな」
「そうでした」
少しだけ顔を寄せる。
胸の前で両手を軽く重ね、あえて真顔で言った。
「次に私を連れ出して街巡りをする時は、今度こそ街の人にご迷惑をかけないよう——安全運転でお願いいたします」
一瞬だけ、ノアが目を見開く。
意味を理解した途端、その顔が崩れた。
彼は、堪えきれないように笑った。
「承知しました――」
そして今度は、きちんと右手を差し出す。
「リディア・フォン・エヴァレット嬢。今度ぜひ、街の散策をご一緒に——」
リディアは、その手を取った。
「ええ……でも、街の外なら……少しくらいなら速度を上げてもいいかもしれません」
「「そう言うと思った」」
一瞬、目が合い、どちらからともなく笑みがこぼれ、二人の声が重なった。
春の終わりの風が、庭園をやわらかく吹き抜ける。
あの日、丘の上で見た夕焼けとは違う。
けれど、この景色もきっと忘れない。
なぜなら今度は、逃げるためではなく——
自分の意思で、彼と歩き出すのだから。
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