前篇 檻の中の令嬢
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第一幕 私はさらわれることにした
春の朝、エヴァレット伯爵邸の食堂には、東向きの窓からやわらかな陽光が差し込んでいた。
磨き上げられた銀器が白いテーブルクロスの上で静かに光り、整えられた庭では、庭師が朝露の残る低木に鋏を入れている。
穏やかな朝——のはずだった。
「リディア、お前ももう十七だ」
父である伯爵が、ナイフとフォークを置きながら口を開いた。
「そろそろ候補を絞って正式に話を進める時期だろう」
向かいに座る母も、当然のようにうなずく。
「お話をいただいているのはいずれも良家ですもの。これ以上お待たせするのは失礼ですわ」
リディアは返事をしなかった。
淡い金髪をきちんと結い上げ、背筋を伸ばして席についている姿は、いつもと変わらない。
学園でも評判の優等生。エヴァレット伯爵家の長女として、申し分ない令嬢だ。
けれど、ティーカップを持つ指先にだけ、わずかに力がこもっていた。
「……異論はありません」
しばらくして、ようやくそう答える。
父は満足そうにうなずいた。
「そうだ。お前はこの家を継ぐ。婿を迎える以上、条件のよい相手を選ばねばならん」
——それは、正しい。
リディアにも分かっていた。
エヴァレット家には息子がいない。三姉妹の長女である自分が家督を継ぎ、婿を迎える。それは幼い頃から決まっていた未来だ。
家を継ぐことに不満はない。
父が守ってきた領地を守りたい。母が大切にしてきた家名を繋ぎたい。年の離れたまだ幼い妹たちにも、穏やかな未来を残したい。
そのためなら、努力は惜しまない。
けれど——
その相手のことをほとんど知らないまま、何度か見合いを重ね、その中からたった一人を選ばなければならない。
そのことが、どうにも落ち着かなかった。
そう——説明できない違和感が、胸の奥に引っかかっていた。
朝食を終え、自室へ戻り、扉を開けようとしたところで、アルフレッドが声をかけてきた。
「お嬢様、こちらをどうぞ」
差し出されたのは、貴族名鑑だった。
「これは……?」
「いえ。お嬢様のことですから、釣書だけでは足りず、より詳しくお調べになるかと思いまして」
いつもの穏やかな口調だった。
だが、その言葉に、リディアはわずかに肩をすくめる。
長年エヴァレット家に仕える執事アルフレッドは、有能で、忠実で——少しばかり目ざとい。
幼い頃から、何か企てるたびに先回りされてきた相手でもあった。
リディアはよく知っている。
彼は、自分のことだけでなく、エヴァレット家のすべてを把握している曲者なのだ。
扉が閉まった途端、リディアは小さく息を吐いた。
知らず、肩に力が入っていたらしい。
窓辺に立ち、庭を見下ろす――
芝生の向こうでは、末の妹が家庭教師と歩いていた。風に帽子のリボンが揺れ、その後ろを侍女が慌てて追っている。
あの子には、もっと自由な未来を残したい。
――そう思う。
なのに、自分は。
「……どうして、こんなに嫌なのかしら」
独り言が、静かな部屋に落ちた。
見合い相手達に問題があるわけではない。
いずれも身分も釣り合う。評判も悪くない。条件だけ見れば、申し分ない縁談だ。
――それでも、胸が重い。
そう……自分の人生なのに、自分で決められない。
選択肢が限られているうえに、まるで賭け事のような、ほとんど一度きりの機会で相手を選ばなければならない。
そのことが、どうしようもなく息苦しかった。
机の上には、父が置いていった数通の釣書がある。
リディアはそれを見つめ、そっと裏返した。
「見合いを断る——いえ、せめて先送りにする理由はないかしら……」
病気を装う。
すぐに医師が呼ばれるだろう。
修道院へ逃げる。
父が許すはずがない。
家出。
それはもっと駄目だった。伯爵家の長女が失踪したとなれば、家の名に傷がつく。
それだけは、したくない。
考え込みながら窓の外を見る。
ちょうど門前を、一台の馬車が通り過ぎていった。
街中にしてはずいぶん荒っぽい走りだった。
——まるで、誰かをさらって逃げる馬車みたいだ。
その瞬間、ふいに一つの考えが頭をよぎる。
「……誘拐」
思わず、自分の口を押さえた。
だが、その言葉は消えなかった。
「誘拐、されたら……?」
家出ではない——
自分の意思で家を捨てたことにはならない。
本人に責任はなく、進みかけている見合いの話も、いったん止まるだろう。
もちろん、名誉に傷はつく。
父も母も頭を抱えるに違いない。
だが——すぐに見つかったら?
何もなかったと言い張れるくらい、すぐに見つかれば——
「そうしたら、婚約相手としての価値は、下がるだろう……」
良縁は遠のくかもしれない。
致命傷にはならないはずだ。
けれど、それは同時に、家が“急いで決める理由”を失うことでもある。
条件の良さだけで話を進めることは、難しくなる。
ならば——
少なくとも、自分の意見を挟む余地は生まれるかもしれない。
そこまで考えて、リディアは椅子に座り直した。
婚約そのものをなくせるとは思わない。
けれど、時間は稼げるかもしれない。
もう少し考える時間。
もう少し、自分で選ぶための時間。
それが手に入るなら——
脈が少し速くなっている。
けれど、不思議と気持ちは落ち着いていた。
白紙を引き寄せる。
羽根ペンを取る。
そして、書き出した。
「まず、誘拐とはどのように行われるものなのか——調べなくては」
真面目な令嬢は、妙なところで律儀だった。
思いつきで動くのは好きではない。
やるなら、準備は徹底する――
場所。
時間。
方法。
犯人役はどうするのか。
脅迫状は必要か。
逃走経路は。
考えるべきことは、意外と多い。
だが、そうして書き出しているうちに、先ほどまで胸を塞いでいた重苦しさが、少しずつ薄れていくのを感じた。
このまま何もせずに、後悔だけするのは嫌だった。それならいっそ……
初めて、自分で未来を選ぼうとしている。
たとえその方法が、少々——いや、かなり妙であったとしても。
その日から、リディア・フォン・エヴァレットは、誰にも知られず「自分を誘拐する計画」を立て始めた。
その計画が、自分の人生を思いがけない方向へ連れ出していくことを、このときの彼女はまだ知らない。
第二幕 共犯者は図書館にいる
王立貴族学園は、王都の北区にある。
白い石で築かれた校舎は古く、それでいて手入れが行き届いていた。
春の陽気の中、蔦の絡む回廊には生徒たちの声が響き、中庭では制服姿の令嬢たちが昼休みの茶会を楽しんでいる。
その中を歩くリディアは、いつもと変わらぬ姿に見えた。
姿勢は正しく、歩幅は一定。手にした教本も、胸元できちんと揃えられている。
ただ、その日の彼女は——三度目でようやく、友人の呼びかけに気づいた。
「――リディア」
「……え?」
立ち止まったリディアの隣で、エミリア・ローゼンが呆れたように眉を上げる。
「今ので三回目ですわ」
「ごめんなさい」
「珍しいこと。あなたが上の空だなんて」
鮮やかな赤毛を揺らしながら、エミリアはじっと親友の顔を覗き込んだ。
「何かありましたの?」
「何もありませんよ……」
「その答え方は、何かある人のものです」
即答され、リディアは言葉に詰まった。
確かに、この数日は落ち着かなかった。
授業中も、食事中も、頭の片隅ではずっと同じことを考えている。
どうすれば自然に誘拐されるか。
冷静に考えれば、少しおかしい。
だが、ひとたび思いついてしまえば、あとは実行方法を詰めるだけだった。
「……少し、考え事をしていただけよ」
「その考え事は、私にも話せる種類のもの?」
「……いいえ」
「では、聞きません」
エミリアはあっさり引き下がった。
それがかえって申し訳ない。
「お昼、一緒にお茶でもと思ったのだけれど――」
「今日は……ごめんなさい」
「また図書館?」
ぎくりとした。
胸の奥を、指先で不意に突かれたような感覚だった。
どうやら、それはそのまま表情に出てしまったらしい。
エミリアは、そんな彼女を見て小さく肩をすくめた。
「やっぱり。あなた、何か調べものをしているのでしょう」
「……どうして分かったの」
「友人ですもの」
そう言って笑うと、彼女は手を振って去っていった。
「無理はなさらないでね」
残されたリディアは、小さく息を吐いた。
まったく、鋭い。
昔からそうだった。
こちらが何も言わなくても、隠したつもりのことほど先に気づいてしまう。
そんな相手だからこそ、少しだけ後ろめたい。
隠し事には、いちばん向かない相手だった。
だからこそ、これ以上知られるわけにはいかない。
リディアは歩調を速め、図書館へ向かった。
*
王立貴族学園の図書館は、本館の奥にある。
天井は高く、古い木の書架が規則正しく並び、昼でも薄暗い。大きな窓から差し込む光の筋の中を、細かな埃がゆっくり漂っていた。
リディアは慣れた足取りで奥へ進み、人目につきにくい棚の前で立ち止まる。
「あった——!」
司書に尋ねるわけにもいかず、広い図書館を自力で探し回った結果、ここへ辿り着くまでに数日を要した。
「犯罪史……誘拐事件録……これね」
声に出して確認し、そっと本を抜く。
ふと隣の棚へ目をやると——
「脅迫状の書式集……?」
手が止まった。
——こんな本、なぜ学園図書館にあるのだろう。
そもそも、置いてよい類の本なのだろうか。
少し疑問だったが、今はありがたい。
腕に本を抱え、窓際の机へ移動する。
ページをめくる。
誘拐事件の多くは、夜間に行われる。
身代金要求は早い方がよい。
馬車の乗り換えは必須。
「なるほど……」
「何が?」
真横から声がして、リディアは本を落としかけた。
「——っ!」
慌てて振り向く。
そこには、学園で時折見かけたことのある男子生徒が立っていた。
茶色の髪に、灰色の瞳。
制服の徽章は子爵家。
顔立ちは整っているが、目立つほどではない。けれど、その目だけが妙に楽しそうだった。
「驚かせてしまったかな」
「ええ。かなり」
「それは失礼」
まるで悪びれない。
彼は机の上の本へ視線を落とした。
「犯罪史。誘拐事件録。脅迫状の書式集――」
ゆっくり読み上げる。
リディアは反射的に本を閉じた。
「覗き見は失礼ではなくて?」
「そうだね。でも、あまりに気になったもので」
彼は向かいの椅子を引き、当然のように座った。
「誘拐されたいの?」
あまりに直球で、リディアは一瞬言葉を失った。
「……違います」
「では、誘拐したい?」
「もっと違います」
「なら、どちら?」
逃げ道がない――
ここでごまかしても、この男は引かないだろう。
けれど、不思議と警戒心は湧かなかった。
なぜか、この男には話してしまってもいい気がした。
観念して、リディアは小声になった。
「……されたいのです」
言ってしまった――
口にした瞬間、自分で自分の言葉に眩暈がした。
何を言っているのだろう。
誘拐されたいなどと——まともな令嬢の願望ではない。
けれど、もう遅い。
リディアは逃げるように視線を落とし、返事を待った。
すると、彼は数秒沈黙し——
「それは面白い」
笑った。
「笑わないでください」
「いや、失礼。あまりにも予想外で」
彼は顎に手を当てる。
「理由を聞いても?」
「言いません」
「——では、計画を聞こう」
「なぜ、そこへ跳ぶのですか」
「興味があるから?」
まるで当然のことのように、彼は即答した。
この男は、間違いなく変人だ。
だが——少しだけ安心もした。
普通の人間なら、もっと引く。
呆れるか、距離を置くだろう。
彼は引かない。
むしろ、楽しんでいる。
「……まだ準備段階です」
「それは見れば分かる」
「まず、放課後に自然に姿を消して——」
「やり方次第かな」
「脅迫状を投函——」
「遅いと意味が薄い。タイミングが問題だな」
「馬車を——」
「馬車なら、手配できる」
リディアが顔を上げた。
妙だった――
こちらが言い終えるより早く、彼は次々と答えを返してくる。
否定されているはずなのに、不思議と腹は立たない。
むしろ、議論の続きを促されているようで——気づけば、自分も真剣に話していた。
「……あなたが?」
彼は微笑んだ。
「ちょうど、使えるものがある」
「なぜ……」
「家にあるから?」
「そういう意味ではなく」
「それに――」
彼は少し身を乗り出した。
「一人でやるより、共犯者がいた方が成功率は上がる」
その言葉に、リディアは黙り込んだ。
確かにそうだ——
犯人役は必要だと考えていた。
だが、まさか向こうから立候補されるとは思わない。
しかも、その声音には冗談めいた軽さがありながら、不思議と迷いがなかった。
本気なのだ。
この男は、本気で自分の馬鹿げた計画に乗ろうとしている。
——なぜ。
警戒すべきだ。
そう思うのに、追い払う気にはなれなかった。
むしろ、その名前を知りたいと思った。
「あなた、名前は?」
「ノア・ヴァレンティン」
軽く頭を下げる。
「子爵家の次男。暇を持て余している」
「それが、なぜという問いに対する答えだというのですか?」
「さて、どうなんだろうね……」
そう言って、ノアはわざとらしく肩をすくめた。
信用してよいのかは分からない。
けれど、この場で断れば、彼は誰かに話すかもしれない。
それは困る。
共犯者が必要なのも、確かだった。
だから——これは合理的な判断だ。
そう思ったのに。
胸のどこかで、少しだけ——
この男を頼もしいと思ってしまった。
「……条件があります」
「聞こう――」
「誰にも言わないこと」
「それは当然だな」
「途中で逃げないこと」
「逃げるのは君だけで十分だろう。僕まで付き合ったら、誘拐ではなく恋の逃避行になってしまう」
その言い方に、思わず笑ってしまった。
その瞬間、リディアは気づいた。
この数日、ずっと胸の奥に張りついていた重苦しさが、少しだけ軽くなっている。
「では――」
彼女は姿勢を正した。
「共犯、ということで」
ノアは満足そうにうなずいた。
「正式に受理しよう、リディア嬢」
名前を教えた覚えはない――
問いただそうとして、やめた。
そのくらいは、今さらだ。
どうせこの男は、最初から気づいていたのだろう。
リディアは閉じた本を抱え直し、図書館の窓の外を見た。
春は、少しだけ先へ進んでいた。
そして彼女の計画は、この日から「空想」ではなく「実行段階」へと進んだ。
第三幕 誘拐決行、ただし追跡付き
決行の日は、よく晴れていた。
王立貴族学園の授業が終わる鐘が鳴り、生徒たちがそれぞれの馬車へ向かっていく夕刻。校舎の正門側は迎えの従者で賑わっていたが、裏門へ向かう生徒は少ない。
リディアは、人目を避けるようにその石畳を歩いていた。
制服の上から薄い外套を羽織り、いつもの鞄を肩に掛けている。
見た目は普段と変わらない。
ただ、胸の鼓動だけが落ち着かなかった。
「今なら、まだ戻れます」
裏門の手前で待っていたノアが、穏やかな声で言った。
今は学園の制服ではない。濃紺の上着に乗馬用の長靴という、動きやすい服装だった。茶色の髪はいつも通り無造作に整えられているが、その立ち姿は普段よりずっと引き締まって見える。
「戻りません――」
リディアは即答した。
ここまで来て退く気はない。
ノアは、その答えを予想していたように、口元をわずかに緩めた。
「そう言うと思った」
裏門の外には、一台の馬車が停まっていた。
飾り気のない黒塗りの二頭立て。貴族の紋章はなく、街で見かけても目立たない仕様だ。
「これが?」
「見た目は地味だけど性能はなかなかだ」
「本当に用意したのですね……」
「疑っていたのか」
「少し……」
「そう言うと思った」
目元をわずかに緩めて、ノアは馬車の扉を開けると、わざと慇懃な口調で言った。
「どうぞ、お嬢様」
「その言い方はやめてください」
文句を言いつつ、リディアも馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まる――
その音が、思ったより重かった。
そして次の瞬間、馬車は動き出した。
*
後篇も同時にアップしておりますので、お楽しみいただければ幸いです。




