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第6話:恋人 ― 脈打つ密室と赤い糸の忘却 ― ①



教皇の放った白銀が、吐き気を催すほど生暖かい「赤」へと反転した。


足元の感覚が消える。期待した硬いフローリングの代わりに、粘膜のような湿り気が爪先を「グチャリ」と飲み込んだ。鼻腔を突くのは、かつて嗅いだ、あの逃げ場のない薬品の腐臭。そこに、酸化した蜂蜜のような、胃を焼く甘い匂いが混ざり合っている。


視界の端で、見覚えのあるテーブルの角が、肉の床にゆっくりと沈み込んでいくのが見えた。どこに何を置けばいいか、どの椅子が一番きしむのか、体がその「正解」を記憶している。ここは、かつて二人だけで立てこもったあの袋小路だ。


「……誰よ。こんな牢獄みたいなところに、あたしを呼んだのは」


ゆりえは、視界に広がる異常な湿度を睨みつけた。

そこにあるのは、使い古された白い二人掛けのソファーだ。右側の肘掛けだけが不自然に擦り切れている。メルミはその場所へ慣れた手つきで潜り込み、顎を乗せて鼻を鳴らした。


壁紙はもはや壁であることを辞め、巨大な肺の裏側のようにドクドクと拍動を繰り返している。血管の浮き出た肉のひだが、ゆっくりと天井から滴る蜜を啜っていた。


壁を埋め尽くす額縁の中は、どれも脂を塗ったレンズで覗いたようにひどくボヤけている。ゆりえは、蜜で汚れた指先で、その一枚の表面をなぞった。


「みんなピンボケの写真。よくもまあこれだけ並べたものね。……見て、メルミ。この不細工なの、犬かな? 飼い主の顔が見てみたいよ」


ゆりえは、写真の中の「誰か」を突き放し、冷笑と共にガラス面を蜜で濁らせた。

ソファーの端で、メルミがズルリと生々しい鼻水を垂らした。短い足を踏ん張り、波打つ床でバランスを取ろうとするその姿は、どこか滑稽で、痛々しい。背中の毛が、針のように鋭く逆立っている。


「悪いけど、今の私の血統書に『肉壁への忠誠』なんて項目はないわよ、ゆり。……ねえ、この部屋の設計者を呼びなさい。半焼けのステーキの『付け合わせ』にされるのが私の夢だなんて、一度も言った覚えはないわよ」


メルミは、尻尾のないお尻を激しく震わせて答えた。それは、一生終わらない「停滞」を強要されることへの、生理的な拒絶だ。


「うるさいわね。……見て、これ。すごく便利だよ」


ゆりえは、自らの小指から伸びた「赤い糸」を、ハープの弦のように「ピン」と弾いた。

糸は今や、メルミの背中の毛の下へ、皮膚を食い破って直接血管に癒着している。糸が震えるたび、メルミの肉が引き攣れ、ゆりえの指先には、あの子の熱い脈拍が電気信号となって逆流してくる。


「あは。……あんたの心臓が、あたしの指の中で跳ねてる。もう、糸をほどく手間もいらないじゃない」


ゆりえは恍惚とした表情で、自分の人差し指に糸を何度も、何度も強く巻き付ける。鬱血し、紫色のブドウのようになった指。感覚が消える代わりに、メルミの血流が自分の血管に注ぎ込まれる。

自分たちが別々の生き物であるという「事実」が、この糸を通して消えていく。それがたまらなく、心地よかった。


「あんたの痛みが、あたしの脈になる。……これでいいのよ。余計な隙間なんて、一つもいらないよ」


メルミは、ゆりえの紫色の指をじっと見つめ、顔の皺をさらに深く寄せて鼻を鳴らした。


「その指、もうすぐ腐って落ちるわよ。ゴミ箱はあっちの肉のひだの中かしら?」


「アンタの血が止まって、脳みそまで酸欠になってることに気づいてる? このままブルーベリーみたいに弾けて消えたいなら勝手にしなさい。でも、アンタの汚い血で私の自慢の毛並みを汚されるのは御免よ。一人で勝手に『溶けるそっち』の仲間入りをしないでくれる?」


メルミが不意に首を伸ばし、ゆりえの紫色の指を、容赦なくガブリと甘噛みした。


「痛いじゃない! ……ほら、もっとこっちに来なさいよ。この壁の方が、あんたよりよっぽど静かで優しいんだから」


「停滞という毒」に侵されていくゆりえは、痛みを快楽にすり替え、執拗にメルミを自分の方へ引き寄せようとした。何も考えたくなかった。正論を吐く犬も、罪を問う世界も、この脈打つ肉の壁の中に閉じ込めて、一つに塗り固めてしまいたかったのだ。


ゆりえがメルミを肉の床へと引き寄せようとした瞬間、世界が一度、大きく脈打った。


「ドクンッ!」と、空間を嚥下する音。


壁はもはや境界線ではない。それは二人を咀嚼するための準備だった。

ソファーが肉の襞に飲まれ、音が死んでいく。


「……狭くなるね、メルミ。でも、怖くないよ。きっとこの部屋が、あたしたちを一つにしてくれるから」


天井から滴る蜜がゆりえの頬を汚し、彼女の指先を床の肉へと癒着させていく。

がま口に刺さった「硝子の飛礫(棘)」が、彼女の手のひらを焦がすような熱を放った。それは「思い出せ」と叫ぶ、消えない現実の痛みだ。だが、ゆりえは奥歯を噛み締め、その痛みを意識の底へ、蜜の沼へと無理やり沈め込んだ。今はまだ、この甘い窒息の中にいたいのだ。


部屋が、二人を飲み込もうとあぎとを開く。

肉の壁が、二人の背中にそっと、吸い付くように触れた。


(つづく)



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