第5話:教皇 ― 硝子の聖堂と免罪の機構 ― ⑤
聖堂が、内側から激しく脈打ち、断末魔を上げ始めた。
ゆりえの喉から溢れ出す二重奏が、無菌の空気を物理的な質量で震わせ、歪ませる。壁面にプレスされ、熱狂的に「死」を望んでいた数万の押し花たちの顔から、あの貼り付いた笑顔の仮面がボロボロと剥がれ落ちていった。
「……ぁ……、……嫌だ、死にたくない……っ!」
一人が上げた悲鳴は、瞬く間に汚染のように伝染し、巨大な地鳴りへと変貌した。
彼らはもはや、教皇の説く「穏やかな救済」など求めていなかった。硝子の壁に爪を立て、指先を削り、血を滲ませながら、ただ生への卑屈な渇望を剥き出しにして叫ぶ。
「出してくれ! 苦しくてもいい、まだ生きていたいんだ!」
数万人の慟哭。その熱い涙と脂汗が床を水没させていく。
あまりの湿度に聖堂全体が真っ白に曇り、無菌を誇った幾何学模様が「生身の不浄」によって腐食を始めた。
「……おかしいね。……計算が、合わない。……不合理だ……何故、完成を拒む……」
教皇の巨大な凸面鏡が、その蒸気の中で視界を失い、シュルシュルと虚しい機械音を立てて彷徨う。
ゆりえは、砕け散る寸前のそのレンズを見つめ、僅かに口角を歪に吊り上げた。
「救済だなんて、……押し付けないでよ! あんたの譜面にないからって、あたしたちの時間を勝手に『終わり』にしないでよ! ……一秒だって、一瞬だって、あんたなんかに渡せるわけない!」
教皇が吐き出した「正論」への、生理的な拒絶。 喉の奥がせり上がり、視界がチカチカと明滅する。そして、純粋であまりにも白い怒りから、堰を切ったように言葉が溢れた。
「……さよなら、レンズ面。あんた、計算ずくで死ねるなんて、幸せだったんだね」
パシッ、と。
レンズの正中に、取り返しのつかない深い亀裂が走る。
救済という名の効率しか知らなかった機械神は、自らが生み出した「生のノイズ」に溺れ、ただの曇った割れた鏡として、瓦礫の底へ沈んでいった。
その崩壊の、最後の一刺しだった。
砕け散る教皇の残骸から、一筋の鋭い硝子が、弾丸のような速さでゆりえを襲った。
「――っ!」
反射的に突き出した腕。抱きしめていた「がま口」の革を、その「硝子の飛礫」が深く、深く抉り、中心部へと突き刺さる。
パチンッ!
今までの、どの「らっきょうのかみ合う音」よりも重く、凶暴な音。
金属の口金が、逃れようのない「引き延ばしの罪」を噛み殺し、ゆりえの魂に直接鋲を打った音だ。
ゆりえは、指から流れる血をがま口の革で拭い、その棘を、自らの手でさらに深く、がま口の奥へと押し込んだ。
「……痛いよ。痛いけどさ……! これがあたしの『重さ』なんだ。あたしのエゴだからってなんなのさ! 誰にも渡してやるもんか……っ!」
それを合図に、聖堂の残響は完全に死に絶えた。
視界を埋めていた白銀が剥がれ落ち、後に残されたのは、何も見えないほどに眩しい、真っ白な虚空。
「……いつまでそこに突っ立ってるのよ。私の毛並みに、これ以上湿気を吸わせないでくれる?」
不意に投げられた、乾いた声。
メルミが、濡れた足を苛立たしげに振っている。
ゆりえは、焦点の定まらない瞳でその黄金の輪郭を追った。だが、メルミの姿は、逆光の中でプリズムのように激しく歪み、触れようと伸ばした指先は、温度を捉える前に空気を切った。
「……ねえ、メルミ。……あたし、何か、すごく大事なことを忘れてる気がするんだ」
ゆりえの脳裏に、不味い空白が広がる。
それを埋めようとした瞬間、脳漿がジャリジャリと砂を噛むような、激しい不快音が鼓膜の裏側で吹き荒れた。
「思い出そうとすると、砂嵐が吹くの。……あたし、誰かに謝らなきゃいけないような……そんな、胸のつかえが……。誰なの? あたし、誰をこんなに――」
「ハッ。アンタの感傷なんて、私の爪の間の汚れにもなりゃしないわ。勝手に怖がって、勝手に『何か』を捏造して……どこまでも傲慢ね、ゆり」
メルミは振り返りもせず、光の中へ歩き出す。
その背中は、救いというにはあまりに鮮明で、けれど同時に、触れることの叶わない「書き割り」のように遠い。
「……待ってよ! ……あたし、殺人犯として歩くよ。この棘を、死ぬまで離さないから!」
メルミは、無い尻尾を振る代わりにお尻を小刻みに震わせて答える。
ゆりえは、血に濡れた手でがま口を強く握りしめ、前をゆく黄金の獣を追った。
忘れられた空白。その中に何があるのか、まだ分からなくていい。ただ、この掌を刺し続ける痛みが、自分がまだ「あの子」を繋ぎ止めているという唯一の証拠だった。
『……la……lula……』
『laaa…… lu-laaa……』
執着と慈愛。
完璧に同期した二つのハミングが、一つの巨大なうねりとなって、真っ白な光の向こう側へと消えていった。
(第5話・完)




