第三話
半年以上間が空いてしまいました。
絵画の麗人(名前が分からないのでそう評している)は瞳に涙の粒を浮かべながらこちらを見上げている。
いをりの通う高校は共学だが、普段から異性の顔の作りとか気にして相手を見たことがなかった。見たことがなかったはずなのだが、あまりに非の打ちどころのない造形美の塊が目の前に座り込んでいて、そしてあたりは闇に覆われていてよく見えないはずなのに涙がきらきらとまるで宝石であるかのように光り輝いている。
造形美と宝飾に散りばめられたその個は、それ以上見ていられないくらいに眩く美しかった。
そう、兎にも角にも、彼は美しすぎたのである。
でもそれ以前に、彼の発言にいをりは首を傾げるしかなかった。
「……人参が、初めて?初めて見るんですか?」
「あ、ええと、ちょっと語弊があったかな。人参自体は食したことはあるけれど、この皮が付いた状態の取れたての姿のままの人参が初めてだってことなんだ」
彼はどこか恥ずかしそうに後頭部を掻いて小さく笑った。
そして、彼が隣の部屋に住む近衛さんの息子でないかというところに行きついた。
「えーと、もし間違っていたらすみません。お隣の……近衛さんのところの息子さん、ですか?あ、私は隣の部屋に住んでいます、鳴海と言います」
「あ、鳴海さん。父から聞いています。お隣の鳴海さんというお宅に僕と同い年の娘さんが住んでいると。こんなに早く出会えるとは思っていませんでした」
彼はそう言うと、慌てたように目元をごしごしと強くこすった。
「うわ、恥ずかしいな。泣いているところ、見られるなんて」
「ちょっと、話しづらいので隣に座ってもいいですか?」
彼はどうぞ、とばかりに片手を広げた。
いをりは少し間を空けて、彼の隣に腰を下ろした。
「泣いていた理由は特に聞きません。近衛さんも、急に生活環境が変わって、大変な不自由を強いられているかと思います。ただ、この青雲荘の人たちはみんなとてもいい人たちです。お互いの作ったものとか、貰った野菜とか分け合って何とか生活しています。良かったら、私だけじゃなく大家さんの橋本さんとかにも相談してみてください。色々と相談に乗ってくれると思います。近衛さんたちももし良ければ、我が家で作っている、まぁ主に野草料理とかですがお裾分けできますし―――」
「野草―――?食べられるんですか?」
凄く吃驚したように話す彼に、まぁそうだろうなという少し諦念の感情が入り混じったため息を漏らした。
「……大体の人たちには、そういった反応をされます。だけど、私が今持っているこの野草、ヨモギとスギナも食べられます。ヨモギはアクが強いので基本的には茹でてアク抜きをしてから調理します。有名なところでは草餅とか、あとは炒め物にしても和え物にしても美味しいです。スギナは生食は避けてこちらも茹でてから使います。ヨモギみたいに天ぷらにしても美味しいですし、あとはツナと一緒に炒り卵にしたり、あとは乾燥させてふりかけとかお茶になんかも出来ます。野草料理って、色々と活用できて栄養も豊富でいいこと尽くしなんですよ」
そこまで力説してから、いをりははたっと我に返った。話を聞く彼の表情に変化がないことに気付き、一気に恥ずかしさを覚える。
一時、クラスの男子に弁当の緑色を茶化されて、今のように野草の素晴らしさを力説して一気にドン引きされたことを思い出したからだ。またしても、やらかしてしまった。
でも、今更後悔しても遅い。いをりは脱力するのを感じながらも、早くこの場から去りたくて言い訳できる理由を必死で探していた。
「―――素晴らしいです!」
は?と思いながらゆっくりと顔を上げると、目をキラキラさせてこちらを見やる麗人の顔が間近にあり、いをりは心臓が飛び出しそうになった。
「鳴海さん、素晴らしいです!野草にそんな効能があるだなんて知らなかった。いや、僕は知ろうとしなかっただけなのだと思います。ただ、食事も出されたものを食べて咀嚼して嚥下して、美味しいとかもあまり感じたことがなかった。むしろ、食べることを億劫だとも思っていました。でも、それは僕の思い上がりでした。お察知の通り、僕たち近衛家は住む場所を追われ、このアパートに越してきました。僕と父はこうなった以上、ここで生きていくしかないと思っています。ただ母は、幼い頃から不自由を挫折を味わってこなかった所為か、現実を受け止められません。だけど、色々と文句を口にしたところで事態はそう簡単には変わらない。元には戻らない。だから、やれるところで必死に努力していくしかないと母に説きました。でも、母はなかなか受け入れてくれません。そのことで、僕は部屋を飛び出してここに来てしまいました。すみません、鳴海さんには恥ずかしいところを見せてしまいました。」
そこで彼はきっと眉を吊り上げて、いをりの手を両手で握った。
「鳴海さん、お願いです。僕に、いや僕らに野草料理や、家庭料理を教えていただけませんか。料理を全くしたことがないのですが、少しでもこの生活を享受するためにも少しずつ出来ることを増やしていきたいんです」
彼の手は想像していたよりもゴツゴツしていなかった。かといって柔いものでもなく、不思議な抱擁感に満ち溢れていた。
恥ずかしい気持ちもないわけではなかったが、彼の抗おうとする気持ちと享受したいという気持ちが混在している視線に、いをりは自然とそれに応えたいという強い思いが湧いてきた。
「うん、こんな私で良ければ。時間がある時に少しずつ教えていくよ」
「ありがとう、鳴海さん」
でもその前に、といをりは前置きすると人参を掲げて、
「まずは各野菜の形や皮の剥き方、処理の仕方などから進めていこうか」
と意気揚々と口にした。
お互いの部屋の前で別れると、「あきちかさん!どこに行っていらしたの!」と玄関から声がした。
どうやら近衛くんは「あきちか」という名前らしい。どんな漢字なのだろう。従弟の央志といいお金持ちの人たちは名前からして高貴な雰囲気がある。
「―――どうしたの、遅かったじゃん。先にシャワー入っちゃったよ」
パンツ一枚にバスタオルで髪の毛をわしゃわしゃ拭いている央志が目の前に立っていた。
「あのさー何度も言っているけどいちを親戚とはいえ年頃の女の子の前でパンイチはないんじゃないの、パンイチは」
「いをり姉の前じゃ羞恥心も何も感じねぇもーん」
そんな憎まれ口を叩く従弟にぎりぎりと歯を食いしばりながら、大分遅い時間になっていることに気付き、急いで手を洗ってキッチンに向かった。
「ごめん、急いでご飯の用意しちゃうね」
「単語テストの勉強一段落ついたからさ、俺も手伝うよ。ミツバ切る?」
「うん、ありがとう。あ、流石にTシャツか何か着てからやってよ」
へいへい、と生返事をしながら央志は隣の部屋へ向かった。
母のみさをと二人で暮らしていた時は隣の部屋で布団を並べて寝ていたが、央志が来てからは隣の部屋にいをり、リビング兼キッチンに央志に寝てもらっている。
最初の央志は暴れてわがまま放題で手の付けようがなかった。いをりは元の母との二人暮らしに何度も戻りたいと思った。だが、みさをは諦めなかった。ふみを叔母さんに宣言したためか、必ず央志を健康的な真人間にしてみせると日々いをりと共に奮闘した。
風船のような体はしゅっとして、性格も大人しくなった。いや、大人しくなったというか元の性格に戻ったといった方が正解なのかもしれない。みさをもいをりも気遣うような言葉が出るようになってきた。もう大分体調が良くなったと思われた頃、央志の方から「俺はここで暮らしたい」と告げられた時は本当に驚いた。それはみさをも同じだったのだろう。
みさをは何度かふみを叔母さんの元に戻って親孝行してあげなさいと説いたが、央志は首を縦に振らなかった。そして、あそこに戻ったら俺はまた元に戻ると思うとはっきりと言ったのだ。
央志がどのような環境で育ってきたのかは分からないが、みさをはその央志の一言で今後も鳴海家で預かるという決意を固めた。そして、ふみを叔母さんと央志を交えて三人で話し合いをしたらしい。
どんなことを話し合ったのかいをりが知る術がなかったが、帰ってきた央志が安堵したような表情を浮かべていたので、その詳細を訊くことはしなかった。
みさをは何日か仕事で家を空けることが多かった。それまではいをりは一人で過ごすことが多かったが、央志が一緒に暮らしてくれることで不安な気持ちが安心に変わったのは大きな変化だった。みさをも央志がいをりの傍にいてくれて良かったと話していたくらいだ。
そして、今もこうして並んでキッチンに立っている。とても心強いと思う。
憎まれ口をきいてくることも多いが、やっぱり央志が傍にいてくれて良かったなといをりは思うのだった。
山口さんから貰った筑前煮とご飯とミツバと油揚げの味噌汁を食べている時、突然ブーとチャイムが鳴った。
古いアパートのチャイムはもちろんモニターも付いていないので、央志がのぞき穴から外を見た。
「央志、誰?」
「んーわかんね。見たことのないおばさん」
「ごめんくださいまし!うちのあきちかさんに余計なことを吹き込んだ娘さんはここにいるんでしょう!」
その言葉でいをりは一気に顔面蒼白になった、気がする。
「いをり姉、あきちかって誰?あ、もしかして越してきた近衛さんのところの?俺が出るよ、いをり姉はそこにいて」
いをりが立とうとすると、央志は制止するように手のひらをこちらに向けた。
「央志、でも―――」
近衛家の息子さんに要らぬ入れ知恵をしたのは私自身で、と言おうとした時に小さく家の扉が開いた。
「夜分失礼しますわ。娘さんはいらっしゃるかしら?」
肩で息をしながら顔面を化粧で総動員した妙齢の女性が立っていた。服装もビシッとしたオレンジのスーツを身に着けている。
「いますけど、まだ夕食を食べている途中なんで俺が用件を伺いますよ」
「夕食を食べることよりも、私と話をすることが最優先でしょう!」
「いや、勝手に人の家に押しかけてきて勝手なこと言われても困りますよ。こちらにはこちらの時間のリズムってものがあるんですから」
「あ、あなたは誰なの!?弟さん?いいから早く出しなさい―――」
「お母様!やめてください!」
女性の肩を掴んで引き剥がそうとしている近衛くんの顔が目に入ってきた。
「何を言っているの!私たち、近衛家の人間に野草を食べろなんて、そんな乞食のような所業を勧める娘なんて有り得ないわ!私たちを、誰だと思っているの!」
「お母様、私たちはもう一般人なのです。近衛ホールデングスは倒産したんです。一からスタートしていかなければならないんです。今までのような暮らしは難しいのですよ。鳴海さんは、僕たちによかれと思って勧めてくれたんです。地に落ちた僕たちを揶揄して野草料理を勧めたわけじゃないんです」
近衛くんの言葉に、女性はわあっとその場に泣き崩れた。
「……いをり姉、いきなり初対面の息子さんに野草料理勧めたの?」
後ろを振り返りながらそう話す央志に、いをりは申し訳なさそうに頭を下げた。そして、立ち上がり扉の方へ向かった。
「近衛さん、初めまして。鳴海いをりと申します。こちらは従弟の央志です。誤解を招くようなことを息子さんに話して申し訳ありませんでした。我が家の習慣を、押し付けるわけではなかったんですが、一つの節約例としてお話ししたんです」
「―――余計なお世話よ。私たちは私たちに何とか暮らしてみせるのだから、あなたの家の奇怪な料理をあきちかさんに教えたりしないで頂戴!」
目を真っ赤にしてこちらを睨みつける女性はそのまま部屋に戻っていった。近衛くんは申し訳なさそうに一礼すると一緒に部屋に戻っていった。
「……ごめんね、央志。迷惑かけて」
「いや、いをり姉の善意は分かったよ。ただ、傷心したての近衛家に良かれと思うかは、微妙なところだな。自分が思う善意が、相手にとって善意と捉えるかは分からないから」
央志のその言葉が、いをりの胸に無数の針として突き刺さった。
もう少し間を空けずに書いていこうと思います。よろしくお願いします。




