第二話
大分間が空いてしまいました。すみません。
「え、じゃあさっきの近衛グループの社長さん?」
「正確には元・社長さんですよね」
山口さんの言葉に、大島さんはまたまた黒縁の眼鏡をくいっと上げて訂正した。
「……そんな有名な企業だったの?」
いをりが横に立っている央志に小声で話しかけると、「まぁ」とあまり気のない答えが返ってきた。
「あの人、小さい頃にパーティとかで会ったことあるから」
「へぇ、よくそんなこと覚えてるね」
「まぁ、早い内に社交場に出るのが億劫になって出るの止めたし、容姿も大分変ったからあちらは微塵も気づかないと思うけど」
「そっか」
それ以上央志の過去のことを逐一聞き出そうとは思わなかった。従弟とはいえ、あまり踏み込んで欲しくないことの一つや二つはある。
「あ、大島さんといをりちゃん央志くん、筑前煮をたくさん作りすぎちゃったんだけど、少し貰ってくれないかしら?」
「え、いいんですか?筑前煮、しばらく食べてないから嬉しいです!」
「私もです、ありがとうございます」
山口さんの提案にいをりと大島さんは口々にお礼を言った。山口さんは自分の境遇を隠さずに吹聴するので知っていることだが、お見合いで結婚した旦那さんに結婚35年を契機に三下り半を突き付けて離婚し、念願の一人暮らしを始めたらしい。
旦那さんは他所に女の人を作ったり、賭け事をしたりそういったことを一切しない人だった。育児もやってくれた。ただ、自分を一人の人間として一切扱ってくれなかったことに我慢ならなかったようだ。
二人の息子さんは無事に社会人として独立をし、夫婦二人だけの生活がこれからも続くと思うと耐えられず、旦那から数年後に退職するから二人でクルーズ船で世界一周旅行をしないかと提案されたときに口火を切った。
蒼天の霹靂とばかりに旦那は激高したり、縋りついてきたりしたが最終的には離婚に応じてくれたらしい。ローンを完済した大きな家に旦那さんを置いて、山口さんは青雲荘へやってきた。
「趣味とはいえ、子育てしながら色々と資格取得の勉強はしていたからね。家事育児を疎かにするなよって、元旦那はいい顔をしなかったけど。登録販売者とか、簿記とか、あとはファイナンシャルプランナーよね。FPは家計の支出を見直せたし、何より老後の資金準備の知識も得られたし。勉強して、資格を取って、子供たちが中学生くらいになったら資格を元に働き出して、自立できるのに何で私はこの人のお世話をしなきゃならないんだろうって思ったわ。今は好きなことして自由でなんて快適なんだろうって思う。やっぱりこれからは資格よ資格。何らかの専門職につければ、女性は男に頼らなくても一人で生きていけるから」
「でも……今は大学の講義とバイトで生活はかつかつです。山口さんのように自立できるかどうか、今から心配です」
大島さんははああと大きなため息をついた。
大島さんは地方の独特な因習に耐えられず、両親の反対を押し切ってこちらに出てきた。大学を出たら地元に帰ってくるよういわれているが、卒業したらこちらの企業で働きたいらしい。
「結婚したら結婚したで女性は男性のために休みなく働かされます。法事とか、正月とか、男性はふんぞり返って座っているのに、女性たちはひたすら食事とかお酒とか運んだりするのに動き回っています。小さい頃から、不思議で不快でたまりませんでした。その地方から出たことがない女性からすると、その実態が普通なんです。違和感とかそういった感情を抱かないよう麻痺しているんです。私には兄と弟がいるんですが、二人とも小さい頃からそういった姿が刷り込まれているので、私も当然そういった機会にはこき使われます。しかも、結婚しないとしないで、親戚一同から結婚して子供を産んで育てて男のために甲斐甲斐しく動くことが幸せだと言われ続けるんです。私も、そんな地方で自分の一生を終えたくない」
言葉尻の声が擦れ、大島さんは何かを堪えているようだった。
「……大島さんは、自分の人生を見つけるために出てきたのね。大きな決断だったと思う」
やさしく微笑みながら山口さんは大島さんの肩にそっと手を置いた。
「どうもこの日本はこうであれ、こうでなくちゃダメっていう逃れようのない強いレッテルを貼りつけようとする風潮があるのよね。だけど、そんなレッテルだらけの人生ってつまらないと思わない?そんなレッテルなんかなくったって、人々は、私たちは自由に意思を持って生きられるのよ、人生楽しいのよって誇示できるように生きていきたいわね」
山口さんからたくさんの筑前煮を受け取り、いをりは央志と部屋に戻ってきた。
筑前煮を受け取る時、ふと以前聞いた山口さんと大島さんの話を思い出した。
いをりは今のところ、我が家が貧乏なんだろうなぁという漠然とした現実を受け入れてはいるが、あからさまに生きづらいとは感じてはいない。
だけど、大人になった時に何となく生きづらいと感じることが出てくるのかもしれない。今のところ、母のみさをは仕事が大変ながらも楽しそうで笑顔で行った先の土地の話なんかを聞かせてくれる。だから、まだまだ大人=生きづらいという実感がわかないのかもしれない。
手の中の筑前煮の温かさが、そう思わせてくれているだけなのかもしれないけれど。
部屋に入る前に隣の202号室を通ったが、先程とは違って誰もいないかのようにしん、と静まり返っている。
いをりは家主がちゃんと生きているのか心配になり、トイレットペーパーの芯を壁に当てて耳をそばだててみた。
「……おーい、そういうの止めろって。プライバシーの侵害だろ」
「うん、そうだよね、ごめん」
まぁ、どうせ声なんて聞こえないんだけど、と思いつつ何となくいたたまれなくなった。
「どうしようかな、山口さんから貰った筑前煮があるし、本当はふきのとうのオリーブ漬けのパスタにしようかと思っていたんだけど、ご飯とミツバと油揚げの味噌汁にして食べようか?」
「うん、ふきのとうのオリーブ漬けは保存がきくから別日でもいいんじゃない?」
「りょーかい」
いをりは数日前に採っておいたミツバを取り出し、洗い始めた。ミツバはごま油で炒めたり、ツナと和えたりしても美味しい。高校入学時当初、いをりの友人たちは青々とした緑の弁当の中身に目をまん丸くしてびっくりしていたが、いをりが野草の美味しさや料理のレパートリーが豊富なことを話すと興味深そうにしてくれた。
でも、いをり自身は黄色・赤・緑と色とりどりな弁当をただただ黙々と食べている友人たちの方が羨ましかった。
不景気や物価高とはいえ、基準を落とすことなく不自由さが露呈されることなく、友人たちの弁当の中身は変わることなく豊富なままだ。不公平さを感じることはないが、もっと選択肢が多い弁当がいつか作れるといいなぁと密かに思っている。
「あ、そうだ、下にヨモギとスギナを置きっぱなしにしてた。明日のお弁当に山菜おにぎり入れる予定だから取ってくる」
「俺、取ってこようか?」
「央志は明日単語テストあるんでしょ?勉強してて」
母のみさをから受け継いだ白のエプロンはあちこちに染みや汚れがついていて、元の色が判別がつかなくなってしまっている。今はベージュと言っても遜色ない感じのエプロンだ。
だけど、それはたくさん料理をしたりして頑張っている証拠よ、とみさをに言われたのでうまく言いまくられた印象があるものの、いをりはこのエプロンを誇ることにした。
そして、いをり自身も英語の単元テストが明日あったことを思い出したが、食後にやれば何とかなるだろうと楽観視していた。
外に出ようと玄関の靴を履こうとした時、ばあんと大きな音を立ててドアが開く音がした。
「―――!」
女性が名前を呼んだ気がしたが、足音であまりよく聞こえなかった。
後ろを振り返り、央志に何か話そうかと思ったが、央志はリビングの中央の小さなテーブルに向かって必死に問題を解いているようだ。
今の騒がしい音さえも気にならないくらいに集中していると分かり、そのままいをりは声を掛けずにゆっくりとドアを開けた。
野草をたくさん採り、小さなベランダの置き場にも困っていた時、大家の橋本さんに何気なく相談してみると今はもう使っていない小さな倉庫があるから貸してあげると言ってくれた。
橋本さんの亡くなった奥さんが干し野菜にはまっていて、それを保存する換気が出来る入れものやザルやすだれなどもあるそうだった。橋本さん自身も、子供たちも皆独立をしたので、使わなくて余っているんだとどこか寂しそうに話していた。
畑で取れたにんじんやきゅうり、大根などを晴れていた休日に何度かやってみたが、断然うま味が増していた。干し野菜は栄養素が増すし、長期保存も可能でいいことづくめだった。干し野菜の収納もその倉庫でしている。
(あ、きゅうりとかにんじんも持って行ってピクルスにしようかな)
ぎしぎしと軋んだ音を立てる階段をゆっくりと下りると、青雲荘の裏手に向かった。
裏手は数台の駐車場や駐輪場になっており、いをりと央志の自転車もそこに置かせてもらっている。
裏手に向かうと、すぐに誰かが蹲っているのに出くわした。
「お、おおう」
おやじのような低い声が思わず出てしまった。
だけど、蹲っている誰かは顔をつっぷしているのか、いをりの声も届いていないようだった。そして、どこか泣いているのか肩が少し震えている。
「あの、大丈夫ですか……?」
それでも返事はない。いきなり見知らぬ人に「大丈夫ですか?」と訊かれてもこの不特定多数がはびこる現代、不信感しか生まれてこない。
何か、きっかけがあればいいのかもしれない。
いをりはその人を労わる前に、倉庫の方へ向かった。
人参ときゅうり、ヨモギとスギナをむんずと掴むと、そのまま小走りで向かった。
「あ、あの、人参ときゅうりとヨモギとスギナがあるんですけど、おいしいですよ!良かったら、食べませんか?」
後頭部に向けてずいっと押し付けてみると、その人物は「人参……?」と呟きながらゆっくりと顔を上げた。
いをりは、ほとんど芸能人というカテゴリの人たちを知らない。
央志は元の家から持ってきたアイパッドでたまに楽しそうに動画を見ているが、いをりが横から覗いてみてみても誰が誰なのか全く判別がつかなかった。
だけど、目の前の人はその動画で見た人よりも断然に輝いて見えた。
中学の時の美術部の友人がイケメン絵画だと見せてくれたギュスターヴ・クールベや、日本の洋画家の東郷青児や佐伯祐三なんかを彷彿とさせる造形美の人物がうっすらと涙で目を潤ませながらこちらを見つめていた。
青年はいをりの手元の野菜を見つめると、「これが、人参?初めて見た」とうっすらと口元に笑みを浮かべてくれた。




