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後編

 





 暫くして、私は雑貨屋の仕事を辞めた。私のお腹に新しい命が宿ったと知った瞬間から急に心配性になったカイが、

「お前一人の身体じゃないんだぞ。何かあったら、どうするんだ? すぐ辞めろ。今すぐ辞めろ」

 と、しつこく言うからだ。雑貨屋の主人に事情を話すと、

「めでたいことだ。今までありがとう。これからはお客として来てくれよ」

 と笑顔で言ってくれた。給金は安かったけれど働きやすい職場だった。私は主人にお世話になったお礼を言って、その週いっぱいで辞めさせてもらった。その後は客として、ちょこちょこ買い物に行っている。


 妊娠初期にもかかわらず、悪阻(つわり)の症状がないばかりか、逆に食欲が増してしまった私。医者から、体重が増え過ぎだと怒られてしまった。なのに私が食事をセーブしようとすると、カイが煩いのだ。

「リーゼ、もっと食べろ。二人分食べなきゃダメだ」

「いや、医者に怒られたんだってば。『太り過ぎだ』って」

「妊婦が太るのは当然じゃないのか?」

「限度ってモノがあるのよ」

 やたらと私に食べさせようとするカイと攻防を繰り返しながらも、それは幸せで楽しい日々だった。



 ところが、そんなある日。仕事から帰って来たカイの顔が暗い。

「どうしたの? 何かイヤなことでもあった?」

 仕事で失敗でもしたのかな? 上官に怒られたのかもしれない。カイは私にあまり仕事の話はしないけれど、軍は上下関係が厳しく任務もキツイ。私もそれくらいは分かっている。

「いや……そうじゃない」

「……そう。言いたくなかったらいいの。ねぇ、カイ。夕食にしよう。今日はカイの好きなローストチキンよ!」

 私は極力明るい声を出し、テーブルに料理を並べようとした。

 すると……

「リーゼ。俺、西の砦に行くことになった」

 ポツリとカイが呟いた。

「えっ?」

 カイは苦しそうに顔を歪めている。


 西の砦――それは我が国との関係が良くない隣国との国境にある砦である。我が国と隣国とはもう何十年も緊張関係にあるが、軍事力・経済力に大差のない両国は互いに戦に踏み切るのは愚策だと考えていて、開戦には至っていない。しかし西の砦では数年に一度程度、小さな武力衝突が起きている。その度にどちらの国も「現場の兵士が暴走しただけであり王国としては遺憾である」と表明し、戦にならないよう必死に事態を収束させてきたのだ。

 兵士にとって西の砦は、我が国の砦の中で間違いなく一番緊張を強いられる任務地だ。その為、西の砦に配置される兵士の任務期間はきっかり1年間と定められている。極度の緊張状態での任務は兵士の精神も肉体も疲弊させる。1年が限度なのだろう。1年間任務に就けば必ず交代になる。だがそれ故に、王国軍の兵士で一度も西の砦に配置されない者はまずいないということになる。どの兵士にも最低一度は回ってくる任務なのだ。カイのような平民の一般兵士はもちろんだが、貴族出身のエリート軍人でさえ西の砦の任務を経験しないと出世できないし人望も集まらないらしい。つまり、軍に所属している限りは身分にかかわらず誰もが一度は通る道なのだ。


「俺もいつかは行くことになると思ってた。たった1年だし、何とかなると思ってたんだ。でも、それが今だなんて。よりによってお前が身重の時にだなんて……クソッ」

 唇を噛み締めるカイ。

「リーゼ。すまない。一番側に居てやらなきゃいけない時に、こんなことになってしまって」

 私は妊娠5ヶ月になっていた。これから1年間カイが居ないということは、つまり私は一人で出産を迎えることになるのか……

「カイ、大丈夫よ。家族寮の奥さん達も助けてくれるし、私、頑張るから!」

「リーゼ……」

 私を抱きしめ、声を殺して泣くカイ。私は驚いた。カイが私の前で泣くなんて、初めてのことだ。

「カイ、大丈夫よ」

 私はもう一度言ってカイの背中に手を回し、ギュッとその逞しい身体を抱きしめた。


「好きだ」


 突然、カイがそう言った。へっ? その言葉に一瞬思考が停止する。

「俺はお前が好きだ」

「カイ?」

 私はカイを見上げた。カイの頬を涙が伝っている。

「お前は? お前は俺をどう思ってる?」

 真剣な声でカイが問う。

「私もカイが好き」

「本当に?」

「うん。大好きよ、カイ」

「大好きだ、リーゼ」

 私を抱きしめる腕に力を込めるカイ。

「私の片想いだと思ってた」

 思わず呟く私。するとカイは涙を拭って、優しい眼差しで私を見つめる。

「俺の方こそ、自分だけが好きなんじゃないかと思ってた。けど、ゴチャゴチャ考えずにもっと早くお前に気持ちを伝えれば良かった。素直に『リーゼのことが好きだ』って。お前は俺の子を身籠ってるのに、今頃ようやくだなんて……遅くなってごめんな。リーゼ」

「カイ……」

 嬉しい。私はカイの言葉に、喜びを噛み締めた。


 その夜。寝台の上でいつものように腕枕をしてくれるカイ。

「なぁ、リーゼ。お前、いつから俺のこと好きだったんだ?」

「う~ん。結婚して暫く経ってからかなぁ? 自分でもはっきりとは分からないのよ。最初は感謝の気持ちだけだったのに、気が付いたら本当にいつの間にか、カイのことを男として好きになってたの」

「そっか。俺はもっとはっきりしないんだ。最初、自分の気持ちに気付いた時は、結婚して一緒に暮らすうちにお前を好きになったんだって思った。でも、振り返ってみると『結婚しよう』って言った時には、もう好きだったのかもしれない、とも思うんだ」

「えーっ? でもあれって再会してすぐの事よ。私に同情して結婚を提案してくれたんじゃないの?」

「ああ。自分でもそう思ってた。けど、それにしてはおかしいんだ。だってあの時、お前を助けようと思えば他にも方法は幾つかあったんだから」

 え? 他の方法?


「どういうこと?」

「あの頃、隊の先輩の実家がやってる商店で住み込みの従業員を募集してた。俺はそれを知ってたのに、お前に教えなかった」

「何、それ? ヒドイ!」

「それに」

「まだあるの?」

「先輩兵士で真剣に嫁探しをしてる人が何人もいたんだ。中には俺が尊敬している真面目で信頼できる先輩もいた。その人にお前を紹介することだって出来たのに、俺はしなかった」

 何ですって!?

「も、もしかして、その先輩はカッコイイの?」

「長身のイケメンだ」

 くぅ~。カイめ! なぜ紹介してくれなかった!? 恨みがましい目でカイを見る私。

「そんな目で見るな!」

「だってー」

「お前に住み込みの仕事だって他の結婚相手だって紹介することが出来たはずなのに、なぜか俺はそうせずに自分との結婚を持ちかけた。あの時、自分では意識してなかったけど既に俺はお前のことが好きで自分のものにしたかったのかもしれない、って思うんだ」


 長身イケメンかぁ~。惜しいな~。

「おい、こら! リーゼ! 何を考えてる? 言っておくがイケメンの先輩はもう結婚したからな!」

 カイが私の頬を引っ張る。

「イタッ。いや、私は別に――」

「結局、俺はいつからお前のことが好きだったのか、はっきり分からない」

 結論はそれなの?

「カイ。だったらさー。実はお互い孤児院に居た子供の頃からずーっと好きだった、ってことにしない?」

「何だ、その捏造は?」

 眉を顰めるカイ。

「『子供の頃から』って、何かカワイイじゃん。どうせ家族寮の奥さんの間ではそういう設定になってるし。もう、そういうことにしようよ」

「『設定』って何だよ。バカか! だいたい子供の頃のお前ときたら、いつもムダに陽気で『コイツ孤児のくせに悩みねぇのかよ』って思うくらい能天気で、お前が居るだけで場が明るくなって、黙ってりゃ可愛い顔してるのに口を開けばアホっぽい冗談ばっかり言って、それでもやっぱり可愛くて、何だかんだ面倒見が良くて皆に好かれてて、しっかりしてるのかと思ったら時々ヤラかして、見てて飽きなくて、やっぱり可愛くて、気が付けばいつもお前を目で追って――――あれ?」

「どうしたの?」

「俺、やっぱり子供の頃から、お前のことが好きだったかもしれない……」

 はぁ?! さすがに呆れてしまった。

「……カイって、残念な男よね」

「何だとー!」

 その夜、カイの腕の中で、私は会ったこともない長身イケメンの夢を見た。我ながらヒドイ!


 


 カイは西の砦に出立する前にと、子供の名前を考えてくれた。男の子の名前と女の子の名前をそれぞれ一つずつ。

「男の子だったら『アーロン』、女の子だったら『マーヤ』はどうかな?」

 カイにそう言われて、私は頷いた。

「うん、いいじゃん! 『アーロン』は男らしくて『マーヤ』は可愛らしい、良い名前だと思う!」

 ところが、私が賛成したというのにカイの顔が曇った。

「カイ、どうしたの?」

「……実は『アーロン』って、俺の弟の名前なんだ」

「えっ?」

 カイの弟は両親と共に流行り病で亡くなったと孤児院時代、院長から聞いた。まだ3歳だったそうだ。当時7歳だったカイは家族の中でただ一人生き残った。幼いカイにとって、とてつもなく辛い出来事だったであろう。故にその事について孤児院では誰も触れなかったし、結婚してからさえ私はカイに何も尋ねなかった。だからと言って今までカイの弟の名前すら知らなかったなんて……


「カイ、ごめんね。私、今まで弟さんの名前も知らなかった。本当にごめんなさい」

 私が謝ると、カイは慌てて、

「いや、いいんだ。俺が何も話さなかったんだから。そんな事はいいんだ」

 と言った。

「俺が言いたいのは、流行り病で死んだ弟の名前を子供に付けるのは、お前がイヤなんじゃないかって事だ」

「え……」

 ああ、そうか。病気で亡くなった子の名前を付けることを「縁起が悪い」と考える人は多そうだよね。

「お前がイヤなら他の名前にする」

「でもカイは『アーロン』って付けたいんだよね?」

 私が問うと、カイは複雑そうな顔をした。


「それは俺の我が儘だ。でも自分の子を死んだアーロンの代わりにしたいわけじゃない。弟に『アーロン』って呼びかけてた頃の俺は幸せだった。『アーロン』って響きは、俺にとっては幸せな家族の記憶の象徴なんだ。上手く言えないけど……俺とお前と子供とで幸せに生きていきたい、っていう願いを込めて付けたいと思ったんだ」

「カイ……」

 カイから家族の話を聞くのは初めてだった。「幸せな家族の記憶」……か。たとえ短い期間でも、カイにはそんな記憶があるのね。私にはない、宝物のようなその記憶を大事にしたいと思うカイの気持ちは、尊重するべきだろう。


「カイ。男の子だったら『アーロン』にしよう」

「リーゼ、本当にいいのか? 縁起が悪いって思わないのか?」

「うん。縁起が悪いどころか、きっと天使になった弟さんが私たちの『アーロン』を守ってくれるよ。きっとそうだよ」

「リーゼ……ありがとう」

 その日、カイから亡くなった家族の話をたくさん聞いた。優しかったお父さんのこと、気の強かったお母さんのこと、やんちゃだった弟アーロン君のこと……。

 カイは7歳まで確かに家族の愛情に包まれていた。私の胸はチクリと痛んだ。




 あっという間に、カイが西の砦に出立する日がやって来た。

 カイはこれから軍の本部に向かう。そこで今期派遣兵士の出立式が行われた後、西の砦に出発するのだ。

 カイと私は言葉少なに二人で朝食を食べた。そして私は玄関でカイを見送る。外まで送ろうとしたら、カイに、

「ここでいいから」

 と言われてしまったのだ。

 カイは心配そうに私の顔を見つめて、

「リーゼ。身体に気を付けるんだぞ」

 と言った。

「うん。私は大丈夫。カイこそ無理しないようにね」

「ああ、分かってる。手紙を書くからお前もくれよ。ただし検閲があるからそのつもりでな」

「うん。分かった」

「リーゼ」

 そっと私を抱き寄せるカイ。

「カイ。無事に帰って来て。私はここで待ってるから」

「ああ。もちろんだ」

「カイ……」

「リーゼ。愛してる」

 そう言って、カイは私に優しく口付けた。



 カイが西の砦に赴任してからというもの、今まで以上に同じ家族寮の人達が私を気遣ってくれるようになった。一人になって何となく気が抜けて、ぼぉ~っとしている私が頼りなく見えるのか、奥さん達はせっせと赤ちゃんの産着やおむつや寝具まで縫ってくれた。

「ありがとうございます」

 私が恐縮しながらお礼を言って受け取ると、奥さん達は口を揃えて、

「リーゼちゃん。カイくんが居なくて不安だろうけど、私達がついてるからね」

「困ったことがあれば何でも言ってね。遠慮なんてしちゃダメよ」

 と、言ってくれた。カイが居なくなって心細くないと言えば嘘になる。いくら私が繊細なタイプの女ではなくとも、初めての出産なのだ。不安だらけである。奥さん達の優しさが、じんわり沁みる。








 季節は冬になった。

 私は臨月を迎え、予定より1週間遅れて元気な男の子を出産した。カイと決めていた通り、息子には「アーロン」と名を付けた。アーロンはカイにそっくりだった。ブラウンの髪も翡翠色の瞳も鼻も口も耳の形まで全てがカイに似ている。手伝いに来てくれた家族寮の奥さん達も驚いたようだ。

「うわぁ~、カイくんにそっくり!」

「ホントに瓜二つね。びっくりだわ!」

 と口々に言われた。


「リーゼちゃん。とにかく無事に赤ちゃんが産まれたことを急いでカイくんに知らせるね。今、ジャンが特急郵便の手続きに行ってる。リーゼちゃんは身体が回復してから、ゆっくりカイくんに手紙を書くといいわ」

 ハンナさんにそう言われた。ハンナさんと旦那さんのジャンさんは、家族寮のまとめ役のような存在である。良かった。カイは王都に残した身重の私とお腹の子をとても心配していた。無事に出産して母子共に元気だと知れば安心してくれるだろう。


 カイが西の砦に赴任してから、私とカイはずっと手紙のやり取りをしている。カイからの手紙には、いつも私とお腹の子を案じる言葉が綴られていた。特に私の出産予定日が近付いていたここ最近は、実に頻繁に手紙が送られてくるようになっていた。検閲官も呆れていたのではないかと思う。離れているが故にカイの心配性に拍車がかかったようだ。

 ハンナさんの言うように、産後の身体が落ち着いたらカイに手紙を書こう。どんな風に書こうかな? そうそう、アーロンがカイにそっくりだって知らせなきゃ。自分に似てるって知ったら喜んでくれるかな? 早くカイにアーロンを抱かせてあげたいな~。なんて呑気に考えていたら、私が手紙を書くよりも先にカイから手紙が届いた。ジャンさんからの特急郵便で子供の誕生を知ったカイは、すぐに私に手紙を書いてくれたようだ。急いで書いたのか興奮していたのか、カイの字は少し乱れていた。《リーゼ、ありがとう》《早くリーゼと子供に会いたい》と、繰り返し書かれているその手紙を、私は何度も読み返した。そして私からも、こちらの様子を詳しく書いた手紙を送った。




 充分に暖かくした部屋でアーロンを抱いている私。曇った窓ガラスをそっと片手で撫でると、昨夜から降り始めた雪が舞っているのが見えた。木立ちも冬枯れしている、その真冬の寒々しい風景を眺めながら、私はハンナさんに話しかけた。

「ハンナさん。私もアーロンと同じ、この季節に産まれたんです」

「あら、そうなの? 母子そろって、こんな寒い真冬に産まれたのね」

 今日はハンナさんが一人で手伝いに来てくれている。だからだろうか。つい、口から言葉が零れてしまった。

「ハンナさんは、こんな真冬に、産まれたての、今のアーロンほどの小さな赤ちゃんを捨てることが出来ますか?」

「えっ?!」

 ハンナさんはギョッとした顔をした。そして、じっと私を見つめると、

「もしかしてリーゼちゃんは、この季節に捨てられたの?」 

 と、尋ねた。私とカイが二人とも孤児院育ちだということは、家族寮の人達は皆、知っている。けれど、どういう経緯で孤児院に居たかまでは話したことがなかった。

「私は産まれてすぐ、孤児院の前に捨てられました。底冷えのする真冬の早朝にです」

「……」

 絶句するハンナさん。私は続けた。

「私にはとても出来ません。こんな小さなアーロンを屋外に置き去りにするなんて考えられない」

「……うん。そうだね」

 ハンナさんが頷く。


「私、カイを妬んでるんです」

「えっ? カイくんを?」

 ハンナさんは戸惑った様子だ。

「カイは同じ孤児院育ちですが、7歳まで家族に愛されて幸せに暮らしていました。カイには短い期間ではあっても家族との幸福な思い出があるんです。そして何よりも、カイの親は彼を捨てた訳じゃない。両親とも流行り病で亡くなったんです。きっと亡くなる直前まで、残されるカイのことを心配していたでしょう。後ろ髪を引かれる思いで亡くなったはずです。私を捨てた親とは全然違う!」

 最後の言葉は思わず吐き捨てるような言い方になってしまった。

「……」

 ハンナさんは痛ましそうに私を見つめている。

「私はカイを愛しているのに、どうしようもなく彼を妬んでいるんです」

 私は甘ったれている。こんな話をすれば、ハンナさんはきっと私を慰めてくれる。それが分かっていて口にしているのだ。私はハンナさんに「可哀想に」と言って抱きしめて欲しいだけの、情けなくて子供っぽい女だ……


「リーゼちゃん」

 ハンナさんは優しい声で呼びかけると、アーロンを抱いている私を、そのままアーロンごと抱きしめてくれた。

「私がリーゼちゃんの立場だったら、やっぱり同じようにカイくんを妬んだと思う。だって妬ましいものは妬ましいじゃない。仕方ないわよ」

「ハンナさん……」

「いいのよ。それでもカイくんを愛してるんでしょ? だったら、これからカイくんとアーロンちゃんと3人で幸せになればいい。それがリーゼちゃん自身の『家族との幸福な思い出』になっていくんじゃない? 悲しい過去は変えられなくても、これから先きっと良い事や楽しい事がたくさん待ってるわ。リーゼちゃんは若いんだもの。まだまだ人生これからよ!」


 それはありきたりな励ましだったかもしれない。けれど私は嬉しかった。どうしてだか、ハンナさんの言葉は素直に聞くことが出来る。

「ハンナさんが私のお母さんだったら良かったなー」

 甘えついでに言ってしまった。ハンナさんには、旦那さんのジャンさんとの間に15歳と13歳の娘さん二人がいる。

「だったら、リーゼちゃんはうちの一番上の娘だと思うことにするわ」

 ハンナさんは片目を瞑ってそう言ってくれた。

「ありがとうございます。ハンナさん」


 私の腕の中で、アーロンが可愛いアクビをした。





 *********************





 アーロンが産まれて1ヶ月が経った頃だ。

「王都で流行り病の感染者が複数確認された」という一報を聞いた。流行り病か……不安が胸に押し寄せる。

 すると、その日のうちに、ハンナさんとジャンさんがうちにやって来た。ジャンさんが何やら大きな荷物をうちに運び込む。

「あの、これは一体?」

 戸惑う私にハンナさんが説明してくれる。

「リーゼちゃん。これは小麦粉と干し肉とその他保存食モロモロ。野菜も購入したんだけど、それは私がうちの分と合わせてピクルスにするから、完成したらまた持って来るわね」

「えっ……? あの、もしかして流行り病への備えですか?」

「そうだ」

 ジャンさんが答える。そして続ける。

「まだ感染者は少ない。このまま広がらなければ、それに越したことはない。が、瞬く間に王都全体に拡大する可能性だってある」

「はい……」

 想像するだけで恐ろしい。もしもそんなことになったら……


「リーゼちゃん。アーロンちゃんはまだ生後1ヶ月。リーゼちゃんも産後の身で完全には体力が戻っていない。二人とも、もしも流行り病に感染したらひとたまりもないわ。脅かすようだけど本当の事よ。だからこそ備えないとね」

 ハンナさんの言葉にジャンさんが頷く。

「ハンナの言う通りだ。リーゼさん、なるべく外に出ないようにするんだ。人の集まる場所は避けなきゃダメだぞ。今運び込んだ食料があれば当分は買い物に行かずに済むはずだ」

「は、はい。分かりました。ありがとうございます。本当にありがとうございます」

 私は心からお礼を言った。

「まぁ、俺たちはカイに頼まれてるからな」

 ジャンさんはそう言った。

「え? カイに?」

「ちょっと、ジャン!」

 ハンナさんがジャンさんの脇腹を肘で突く。

「イテッ! あ、すまん。カイに口止めされてたな」

「まったくジャンったら」

 ハンナさんが呆れたような声を出した。

 口止めって、何?


「あのな、リーゼさん。カイのヤツ、西の砦に出立する前日に俺の家に来て『自分の留守中、身重のリーゼを頼みます』って、俺とハンナに頭を下げたんだ」

「そうなのよ。カイくん、本当にリーゼちゃんのことが心配だったのね」

 私は驚いた。カイがそんな事をしていたなんて、全く知らなかった。

「カイがそんなことを……」

 私が呟くと、ジャンさんは、

「その時、カイに『自分がこうして頼みに来たことはリーゼに黙っててほしい』って口止めされたんだ。リーゼさんに知られたら恥ずかしいんだってさ。それを『恥ずかしい』なんて思うところが、カイのまだまだ青いとこだな。アハハ」

 と言って笑った。


 ジャンさんは、私が食料品のお代を払おうとすると、

「カイが戻って来たらアイツから貰うよ。リーゼさんは今、なるべく手元に現金を持っておいた方がいい」

 と言って、受け取ってくれなかった。

「何かあったら、すぐに言うんだぞ」「遠慮は無しだからね」

 と、ジャンさんハンナさん夫婦は、私に念押しをして帰って行った。 

 私は二人に感謝し、これで備えは万全だと安心した。

 けれど、この時の私はまだ、流行り病の本当の怖さを分かっていなかったのだ。




 最初の感染者が確認されてから3週間後、王宮から「非常事態宣言」が発表された。王都全域へと急速に感染が広がったのだ。

 そして、それから暫く後には、とうとう「王都封鎖」が現実の事となった。それは完全な封鎖だった。王都の中から誰も出られない。外から入って来ることも出来ない。王宮と軍は備蓄食料の配給を決めた。王都が封鎖された為、当然、外部との手紙のやり取りなども全く出来なくなった。私は、西の砦にいるカイと連絡が取れなくなってしまったのだ。どうしよう……王都で流行り病が蔓延し、非常事態になっていることは、勿論カイの耳にも入っているはずだ。私と連絡すら取れなくなって、どんなに心配しているだろう。生後3ヶ月に満たないアーロンが感染したら絶対に助からない。そんなことは、どんな素人でも分かる。私はカイの心中を思い、苦しくなった。

 12年前、私とカイの育った地方都市を流行り病が襲った。市民の実に3割が亡くなり、その時にカイの両親と弟も亡くなったのだ。そして家族を失い独りぼっちになったカイは、私の居た孤児院に引き取られた。当時7歳だったカイは、孤児院に来た当初、その瞳に何も映していなかった。あの時のカイの瞳を思い出す。悲しみや絶望すら映さない、何も見ていない瞳を……。

 今回の王都流行で、もしも私とアーロンが死ぬようなことになれば、カイは再び家族を失い、独りになってしまう。それはダメだ。絶対に。カイを独りぼっちにはさせない。私もアーロンも必ず生き抜いて、ここに帰って来るカイを二人で迎えるのだ。私はアーロンを胸に抱き、心に誓った。


 家族寮に軍の大型運搬馬車が何台も到着し、配給が行われるというので外に出ようとすると、ジャンさんに止められた。

「リーゼさんちの分は俺が運んで来るから、家の中に居てくれ。なるべく他人と接触しない方がいい」

「はい、分かりました。よろしくお願いします」

 私は言われた通り、家の中で待っていた。その後、ジャンさんが配給品をうちに運び込んでくれた。

「ジャンさん、本当にありがとうございます。それにしても、こんなにたくさん配給されるんですか? うちは私とアーロンだけなのに?」

 私は、その物資の量に驚いていた。ジャンさんは、

「ここに居ないカイの分も含まれてる。亭主が遠方に赴任している家庭に対する軍の配慮だよ。男手が無くて困ってるだろうっていう見舞いの意味があるんだ。だから遠慮なく貰っておけばいい」

「は、はい」

「前に渡した食料と今回の配給品を合わせれば、あと数ヵ月は大丈夫だろう? とにかく流行り病が終息するまで、家に籠るのが一番安全だ。ずっと閉じ籠っていると気が滅入るかもしれないが、辛抱だよ。リーゼさん」

「はい」 

 頷く私。確かにジャンさんの言うように、長期間閉じ籠っているのは辛い。けれど、外に出れば感染リスクが高くなる。ここは辛抱するしかない。

「本当にありがとうございました」

 私がもう一度お礼を言うと、ジャンさんは、

「カイが戻って来るまで頑張れ!」

 と、その大きな手で私の頭を撫でた。子供扱い? と思ったが、実は嬉しかった。 

 そうして私はアーロンと二人、閉じ籠り生活を続けた。


 暫くして恐れていた事が起きた。ついに同じ家族寮の中で感染者が出たのだ。まずその家の旦那さんが感染し、奥さんと子供にうつったらしい。大人二人はその後、持ち直したけれど、5歳の子供は亡くなってしまった。流行り病で亡くなった人の葬儀には他人は集ってはいけないことになっている。感染拡大を防ぐ為の決まり事だ。わずか5歳で亡くなったその子は、身内だけでひっそりと見送られたらしい。可愛い女の子だった。私の大きなお腹を見て、「赤ちゃんが産まれたら私が遊んであげるね!」と言ってくれた時は、あんなに元気だったのに……

 その後、家族寮の中で急速に感染が広がった。どうしよう? どうしたらいいの? 私は生きた心地がしなかった。5歳の子が死んでしまうのだ。生後4ヶ月になったばかりのアーロンが感染したら……私は不安と恐怖で眠れない日が続き、次第に食欲もなくなってきた。ダメだ。こんなことをしていては体力が落ちてしまう。きちんと食べて充分に眠らなければ――――アーロンは私の母乳で生きているのだ。しっかりしろ! リーゼ! 私は心が折れそうになる自分をムリヤリ奮い立たせた。



 カイが西の砦に赴任して1年が経った。西の砦での任務はきっかり1年と軍で定められている。本当なら、この時期にはもうカイは王都に帰れるはずだった。それなのに……いまだに「王都封鎖」は続いている。もちろん西の砦に赴任している兵士達は王都に戻って来られない。そして王都からの交代要員も、西の砦へ向かうことは出来ないのだ。

 王都が封鎖されてから、私とカイは全く連絡が取れていない。カイはどんなに私とアーロンのことを案じているだろう。12年前に両親と弟を流行り病で失ったカイは、否が応でもその時のことを思い出しているはずだ。それでなくても西の砦の任務は常に緊張を強いられる、精神的にも肉体的にもキツイ任務だというのに、王都に残した家族の安否が分からないなんて、カイは今、どんな気持ちでいるのだろう?


 家族寮では居住者全体の2割にあたる人達が亡くなった。しかし、ここ3週間程は新たな感染者は出ていないようだ。ジャンさんが、

「ピークは過ぎた。あと少しの辛抱だよ」

 と言って、励ましてくれる。ハンナさんもジャンさんの隣で深く頷く。二人とも、随分やつれてしまった。私も人のことは言えない。鏡を見ると、「本当に私?」とギョッとするほど疲れ切った女が映る。けれど幸いなことに、こんな状況にもかかわらず、私の母乳は止まることはなかった。奇跡のように思える。おかげでアーロンは、丸々とまではいかずとも赤ちゃんらしい体型だ。栄養不足にはなっていない。もしかしたら、本当に天使になったカイの弟の「アーロン」君が、私のアーロンを守ってくれているのかもしれないと思った。




 王都全域で猛威を振るった流行り病が、ついに終息した。「非常事態宣言」と「王都封鎖」が同時に解除され、王宮から「安全宣言」が出された。王都に安堵の空気が広がった。ようやく終わったのだ。

 アーロンは既に生後8ヶ月になっている。ずっと二人で閉じ籠っていたのだ。外に連れて行ってあげたい。

「ねぇ、アーロン。ママとお外に行こっか?」

 私が話しかけると、アーロンは手足をバタバタさせながら、

「だぁ~!」

 と、元気良く返事をした。

 私はアーロンを抱いて散歩に出た。季節はいつの間にか初秋へと移っている。風に秋の匂いがした。生きている。アーロンも私も生きている。二人でカイを迎えることが出来るのだ。





 家族寮の集会所で、今回の流行り病で亡くなった人達を悼む追悼集会が行われた。家族寮の居住者のうち、実に2割もの人が亡くなったのだ。集会の出席者たちは皆、一様に沈痛な面持ちだった。死者と生者は紙一重だ。私とアーロンも、もしかしたらあちら側に居たかもしれない。

 どうか安らかに……私は祈りを込めて花を供えた。





 「王都封鎖」が解除されてから、私はすぐに西の砦にいるカイに手紙を出した。一刻も早くアーロンと自分の無事を知らせたくて特急郵便として送ったにもかかわらず、カイからの返事がなかなか来ない。もしかして、カイの身に何かあったのだろうか? 不安になった私はジャンさんに相談した。すると、ジャンさんに思いがけない事を言われたのだ。

「リーゼさんの送った手紙は、まだ西の砦に着いていないと思うぞ」

 へ? 何で?

「あの、それは一体? ちゃんと特急手続きもしたんですよ?」

「王都封鎖が解除になった途端に王都発着の大量の郵便物が一斉に発送されて、郵政事業の現場がマヒしているらしい。まだまだ混乱が続くと思うから、特急だろうが何だろうが当分着かないんじゃないかな?」

 そんなー!? 全然、知らなかった。特急料金返せー! いや、そこじゃない。私の手紙が届いていないということは、カイはいまだに私とアーロンの安否すら分からないままということだ。カイを早く安心させてあげたかったのに……

 がっくり肩を落とした私を励ますように、ジャンさんは明るい調子で、

「なに、王都封鎖が解かれたからには、近いうちにカイは戻って来るはずだ。直にリーゼさんとアーロン坊やの元気な姿を見せてやればいいさ」

 と、言った。


 その数日後、興奮したハンナさんが、うちに飛び込んで来た。

「リーゼちゃん! 大変!」

 え? 何事?

「どうしたんですか? ハンナさん」

「本部に、西の砦から兵士が到着したって! 今、解散式をやってるって!」

 えーっ!? 

「ハンナさん! 私、本部まで行ってきます!」

「うん。慌てないで。気を付けてね」

「はい!」

 カイが帰って来た! やっと帰って来たんだわ! 私はおんぶ紐で背中にアーロンをくくりつけると、急いで軍の本部へと向かった。家族寮から本部までは徒歩で15分の距離だ。走って行きたいけれど、アーロンはもう8ヶ月になっている。けっこう重いのだ。気は急くのに思うように足が動かない。自分の体力のなさが恨めしい。

 

 本部前に着くと、門の外にたくさんの人がいた。女性や子供が多い。きっと私と同じように、帰還した兵士を出迎えに来た家族だわ。軍の人間以外は本部敷地内に立ち入り禁止なので、門の外に人があふれ返っている。その中には既に泣いている女性もいた。流行り病が蔓延する王都で夫を待っていたんだものね。気持ちは痛いほど分かる。

 その時、急に人々がどよめいた。門の中から兵士達が現れたのだ。次々と出て来た兵士が、自分の家族を見つけて抱き合っている。子供を肩車する兵士も見える。私は目を凝らしてカイの姿を探した。私は視力があまり良くない。同じ制服・制帽を身に着けている兵士達の中から、必死にカイを探す。けれど、なかなか見つからない。どうして? カイはどこ? 私は周りをキョロキョロ見渡していた。そして、ある重大な事に気付いてしまったのだ。出迎えに来ている奥さん達――――皆、きちんとお化粧をしている。そして小綺麗な服を着ている。そうか! そうなのだ! 愛する夫と1年2ヶ月ぶりに感動の再会をするのだ。少しでも綺麗に見せたいよね。何という健気な女心なのだろう! そしてそれは、私に欠けているモノだった……。今の私の姿は、スッピン・ひっつめ髪・普段着。おまけにおんぶ紐でアーロンを背中にくくりつけた古き良きおかんスタイルである。う~ん、どうしよう? 今から帰って着替えてお化粧してくる? いやいや、ここまで来てるのに無理だ。でも、久々に会っていきなりカイに幻滅されたらイヤだなー。どうしよう? 


 一人、俯いて顎に手をやり真剣に悩んでいると、突然、私に向かって男の腕が伸びて来た。ひっ!? 何!? その腕は、背中のアーロンごと私を抱きしめた。えっ? もしかして? そして頭の上から懐かしい声がした。


「……リーゼ。良かった。無事だったんだな」


 見上げると、以前より少し痩せたカイが泣き笑いをしていた。

「カイ!」 

「リーゼ……良かった。赤ん坊も無事で、本当に良かった……」

 カイの声は震えていた。

「カイ! カイ!」

 私は夢中でカイにしがみついた。





「カイ、お帰りなさい」「だぁ~! んばぁ!」

「ただいま、リーゼ。ただいま、アーロン」















  終わり



 最後までお読みいただきありがとうございました。

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