《Not Yet》
だいぶ遅くなりました。
最近忙しくなって、放置気味です。
次はもう少し早くできるように努力します。
大浴場といっても差し支えない風呂場で、怖気つきながら軽くシャワーを浴びて汚れを落とした後、まだ髪の湿気が抜けきってないうちに逃げ出したい衝動に駆られている。割り当てられた部屋に戻ったものの、非常に居心地が悪い。アンティーク調の家具が整頓された、厳かな空間が視界を埋め尽くしていた。
「はぁ……。無理だって」
決して貧乏性というわけじゃない。内装まで凝った部屋にいても緊張を強いられて落ち着かず、シヲンは静かな足取りで廊下に出た。腰には忘れずに、毒々しい赤の柄が映える刀を佩いている。悪目立ちしかしない自分の容姿を見下ろして、嘆息さえ出ない。
夕食まで多少の猶予がある。それまでにしこりのようなこのやり場のない感情をどうにかしたいと思った。課題はイムカとどう折り合いをつけるか。
『シヲンさん、あなたは人でなしですッ。どうして守ってあげられなかったんですかッ!!』
かつて彼女に言われた言葉。
その糾弾にやるせなくなり、なかば逃げるようにして街を去ったことを想起する。
レインシェッドというギルドで過ごした日々がもはや遠い昔に見た夢のように感じられていた今日、イムカとのお世辞にも感動とは程遠い再会は、あまりに冷酷無残で堪えるものだった。
「はぁ……」
重々しい溜息とともに脱力感が増幅される。鏡を覗き込めば、精彩を欠いた顔が見れるに違いない。心境を物語るように、身体さえも忌々しいほどに重い。拭いきれない影を纏いながら、シヲンはのっそりと階段を目指した。
イムカ邸の構造は、玄関口を抜けた一階フロア正面の壁際に、一階から三階までを繋ぐ階段が設置され、階段の奥に連なるように廊下が伸び、廊下の両脇に各部屋がある。奥行きのある構造で、主に一階には食事や会談スペースとしての大広間、浴室がある。二階が男性用として、三階が女性用となっており、現在は五人(?)の住人が生活環境としている。
厳かな内装は気安く触れるのを躊躇させる。曇った金色の輝きを発しているドアノブや、木肌の杢面が美しい硬木のドア。天井から吊るされた水晶の照明からは柔らかな電球色の光が零れている。畏れの感情を抱くのは仕方のないことだろう。血赤色の絨毯の上をぎこちなく歩きながら、シヲンは微かな心労を抱えた。
ゆるく曲線を描いた階段の前まで来ると、そこに掲げられた看板を見て、上を見上げて嘆息。
『──男性立ち入り厳禁。なお、侵入が発覚した場合は、極刑に処す』
後ろに綴られた文字はマリアのものだろう。美しい楷書体の後ろに続く丸みを帯びた字体。極刑というのは穏やかじゃない。
「ったく、なんだよ……」
ふいに怖気が走って、シヲンは身を震わせた。
三階の方から張り付いてくるような視線を感じた。
──触らぬ神に祟りなし。
何もなかったように装って、シヲンは階段を降り始めた。背後からじっとりとした視線を感じながらだ。きっと相手は口元に小馬鹿にするような冷笑を浮かべているに違いない。
『よ、意気地なしーッ』
「意気地なしで悪かったな!!」
振り向き仰げば、マリアが可笑しそうに笑いながら手すりの奥に消えるところだった。シヲンはやれやれと芝居がかった様子で首を左右に振って肩を落とした。マリアの方はこの館での生活をどうやら満喫できているらしい。どうせこれから風呂にでも入ってくるのだろう。
無人となり閑散とした階段付近でしばらく呆けたように突っ立っていたが、耳に痛い静けさで我に返る。歩みを再会して、一段一段着実に下りていった。
一階に行ってまで何をしたいということはないが、落ち着ける場所にいられればそれで良しと思っていた。
一階のホールはやはり誰もおらず、シヲンは一人でだだっ広い空間に立った。年季を感じさせる館内の様子をぐるりと見渡したところで、確かイムカには病床の父親がいたはずだと思い至る。と同時に怖気が背筋を駆け上がるのを感じた。
「その心配は要りませんよ。イムカさんの父上は、二年前すでに不治の病に罹っていました。イムカさんには気遣いは余計です。あなたとの再会で過去のつらい思い出を思い出したのは確かで、イムカさんはその哀しみを克服できていないのが事実です。ですが、それは専らユキナさんたちとの日々であって、イムカさんにとって忘れがたい大切な思い出です」
シヲンの心を覗き見たような言動に驚く暇もなく、並べ立てられる言葉の羅列。
いつの間にいたのか、シヲンが降りてきた階段で数段上から見下ろしてくる人影があった。イムカの護衛という話だが、素顔さえ分からない仮面の少女が残りの階段を下りてくる。漆黒の装束は袖にかけて大きく広がった格好。丸みを帯びた身体の線でどうにか女性だと判断がつく。仮面をつけているために、声は若干くぐもって聞こえる。
「もしよろしければ、街の様子を見てきてはどうですか? シヲンさんが過ごしていた頃とは随分と街並みは変わりましたが、面影も残っていますよ」
「いや、俺は……」
シヲンがかぶりを振ろうとするのを制すように、仮面の少女はポンと手を叩いた。
「そうですね、街案内が必要ですよね。私が案内役を買って出たいところですが、すみません用事がありまして」
「──だったらオイラが案内しますぜ、旦那」
上空から声が降ってきた。胴間声は館内に響き渡って、かすかに木霊して消える。
二階を仰ぎ見たシヲンの視線は、大袈裟に手を振り返す猫族の男を捉えていた。キャナたちと同じカーキ色の戦闘装束を着ているが、動きやすいためか袖は七分袖になっている。装甲板の数が少なく見えるのも、軽量化を目指してのことだろうか。腰に佩いているのも短刀に分類されるような代物だ。左腕がないために生活に支障がないのか心配だったが、どうやら杞憂であるらしい。
ドーリは何食わぬ顔でひょいひょいと飛び降りるように段飛ばしに下りてくる。一度に四、五段ずつ飛び越えて、ドーリは見事な着地で一階に到達してみせた。着地時にバランスを崩すようなこともなく、涼しい顔をしているドーリ。見守っていたシヲンとしては、心臓に悪かったのでやめてもらいたいところだった。が、それを本人に言うのは野暮だろう。そもそも猫族は運動のポテンシャルが高い。優れた運動神経がこの種族の特色だ。
そんなシヲンの内心には気づかないドーリは上機嫌に破顔しながら、「それじゃあ行きましょうや」とシヲンの背後に回って背中を押し始める。
「……日が落ちる前にはご帰宅ください。夕餉はこちらでご用意しますので」
と、仮面の少女が遠ざかるシヲンの背中に向けて声をかけた。それに返事をする暇もなく、慌ててフードを被ったシヲンは急かされるままに玄関口から外に出た。
そのまま侘しい庭園を抜けて、門を潜り抜けると拍子抜けするほどあっさりと外に出られた。周囲を巡回する警備兵たちは、イムカ邸から出てきた人物を一瞥すると、関心が失せたかのように、再び巡回を始めた。シヲンからしてみれば、マリアの護衛役とみなされている自分がマリア抜きで外出してもよいものか憂慮していただけに、肩透かしにあったかのように感じた。
ふと疑問に浮かんだことを口にする。
「そういえば、ドーリは護衛役じゃないのか。という俺もマリアの護衛という肩書きなんだけどな」
「イムカ邸宅内にいる限りは、護衛はいらないくらいですぜ。おいらはキャナさんの傍付きですが、もうお役目ごめんですわ。旦那が戻ってきやしたから。
とりあえず、問題があればキャナさんが対処してくれるでしょう。それに長時間留守にするわけじゃないつもりですぜ」
そう言って振り返り微笑したドーリの横顔が一瞬だけ翳ったように見えた、のは目の錯覚だったに違いないと思いなおし、シヲンはドーリに導かれるように通りへとくり出した。
日はまだ天辺を過ぎた辺りで、春暖な気温は若干薄着であるシヲンにとっても大分過ごしやすい気候だった。赤錆色の外套をアウターとして羽織っているものの、上体には計二枚(外套を含む。下に着ているのは薄手のシャツ)しか着ていない。長い間世話になったその黒いシャツは、裾の方が幾分か解れ始めている。ミリタリー調のカーゴパンツは、とっくに貫通傷が開いており、ダメージ風になってしまっている。
シヲンが一歩踏み出す度に、底の磨り減ったブーツが砂利の上で音を立てる。
横ではほぼ完全な無音で歩くドーリがいる。
二人の間に交わされた言葉は予想に反して少なかった。シヲンがどこで何をしていたのかをドーリには詮索する気がさらさらなかったし、シヲンが生きていただけで十分だった。
シヲンとしても、キャナが待っていてくれたことに不安の種が解消された(結果としてはイムカとのこともあり、プラマイゼロむしろマイナスだが)ことで、ここまでの軌跡を知りたいとは思いにくかった。結果よければ全て良しという、安易な思考だ。が、今日に至るまでに血生臭い日々を過ごしたシヲンが、少しばかり平和を享受しても罰は当たらないだろう。
通りは暖かな気温に相乗するかのように、賑やかな談笑の声が響き渡っていた。新鮮な野菜を売る出店などが軒を連ねている風景は、どこか遠い日の日常を思い起こさせる。
この季節にはすでに野菜や果物が店頭に並んでいるようだ。
ビニールハウスのような促成栽培のための施設は見ていない。ということはどこかから輸入してきたものだろうか。
そう思いながらシヲンが通りを進んでいると、隣でドーリが身体を強張らせたのが分かった。シヲンもすでに相手の存在に気づいていた。
「くそ、ユーリか」
忌々しげにドーリが口にした名前の主は、人混みを掻き分けてシヲンたちの前に立ち塞がった。周囲にいた女性たちから黄色い声が聞こえ始める。
男はまだ若く、二十歳代だろうと思われる。男というよりは青年というのが合致する。羨ましいかぎりの涼やかなる美形の顔立ちだが、顔に浮かんだ蔑視の表情が台無しにしている、とシヲンは密かに思った。といっても相手に難癖をつけて自分と対等に扱いたいわけではない。シヲン自身、見た目で完敗していることを十分理解している。
中身に欠陥を抱えているようだと思いつつ、相手の出方を窺う。
「今日は野良猫らしくキャナさんと一緒じゃないんだね。それにしても君みたいな奴のことをよくもキャナさんは傍に置いておこうと思うね。ボクだったらとっくに農場の肥料にでもするんだけど」
「ペチャクチャとよぉ喋るやつだな、テメェは。いいか、お前みたいに性根が捻じ曲がってちゃ、将来ロクな死に方しねぇぞ」
開口からドーリへの罵詈を吐き出した青年に対し、ドーリが負けじと反論を返す。
このままでは堂々巡りになるのではと懸念したが、予想は外れた。
「ところで隣の彼はどちらさまだい?」
赤い双眸を細めて、本質を見抜こうとするかのようにシヲンの全身を見下ろした青年は、合点がいったように歪んだ笑みを浮かべた。
数多くの場数を踏み越えたシヲンの背筋を冷たいものが駆け抜けていった。青年がいつのまにか猛禽類もかくやといった視線を向けてきている。
「なるほど、なるほど。少年が例のダンナか。まさか、こんな女々しいガキだとは思わなかったよ」
冷笑を浮かべる青年にいい加減嫌気が差してきたシヲンは、ただ静かに青年を見上げた。青年の些細な動きも見逃さない。周囲の音が徐々に褪せたものに変わり、耳の奥で鼓動が大きくなる。青年が顔をしかめて、訝しむ表情を浮かべた。が、やや顔つきが引きつったものになっている。
静かなる威圧は、シヲンがふいに刺し殺すような視線に切り替えたところで、勝敗を決した。
シヲンの視線の先で青年が喉を鳴らして、半歩後退った。
シヲンが動くと判断しての行動だったが、単に威圧されて自分が怖気ついたのだと知った青年は、舌打ちをその場に残して足早に去っていった。最後に一言を残して。
「絶対に後悔させてやる」
どこぞの雛形なセリフだよ、という突っ込みを内心にとどめたシヲンは、やれやれと肩の力を抜いた。背筋を伸ばすと、ポキポキと小気味の良い音が鳴った。
「すみません、旦那。面倒ごとに巻き込んじまって」
「ん、あぁいいよ、別に。俺もあいつは気に喰わないと思ったし。向こうがぞんざいな態度を取ってくるのが悪い」
そう言うと、ドーリはホッと胸をなでおろすように安堵した表情になった。
ドーリが重ねてきた苦労の片鱗を見たように思った。
二人は揃って歩みを始めたが、どうも気まずい雰囲気が間に漂っている、とシヲンは感じた。別段居づらいというわけではないものの、ドーリが度々物言いたげな視線を寄越すものだから、気になって仕方ない。
しばらく賑わった通りを人ごみに紛れて歩くと、
「──もしも旦那。イムカ嬢が態度を改めてくれなかったらどうするつもりですかい」
「どうもしない。約束を守れなかった俺が悪いし、結局俺はこの街から逃げたから。償うことだって出来ないし、取り戻すことも出来ない。死んだ人たちは帰らない。俺は何も出来ない」
「でも、墓参りぐらいは出来るんじゃねぇですか?」
驚きに目を瞠って隣を見れば、ドーリが寂しげに愛想笑いを浮かべていた。ドーリがシヲンの案内役に買って出たのは、このためだったらしい。
すんません、申し訳ねぇ、ホント黙っていて申し訳なかったです、何度も頭を下げられながら連れてこられた場所は、スムーザの街の一角。街の中心からは少し離れた東側の郊外に、その墓所はあった。
ひとけもなく閑散としていたが、穏やかな日差しの下では安眠の地に相応しいように思えた。ドーリがとある墓碑の前で足を止める。オルガン型の墓石は、リグレットで目にした御影石を石材としていた。墓には先客がいたらしく、まだ枯れていない花束が置かれている。この世界にも線香をあげる風習があるらしい。燃え残った残骸が風解していた。仏教に似た信仰集団が存在しているのだろうか。
ここに来るまでに花屋で買った花をドーリが活ける。菊に類似した彩色豊かな花だ。
ふいに吹き抜けた柔らかな風に揺れる花。髪がなびいて、視界にかかる。
墓碑に彫られた四人の名前とかつて存在したギルドの名前を一瞥して、そっと目を閉じて合掌した。
──ただいま。
シヲンは首元の、青紫色の水晶の隣に吊るされた青い兎の人形を外した。ユキナたちとの思い出の品はもうこれぐらいしかない。自分が確かにここに来た証を残したかった。
イムカからもらったお守り代わりの兎の人形は、随分と痛んで糸が解れてしまった。本来ならば笑っていた顔も、どこか不気味な笑みに変わり果てている。
墓石の前に供えると、もう一度刻まれた名前を見て、踵を返す。後ろからドーリが追いかけてきて、シヲンの隣に並んだ。
──連れてきてくれて、ありがとう。
その言葉は唐突の来訪者の前に、声になることはなかった。
墓所から出てまもない。周囲はいまだにひとけがない侘しい郊外の景色だ。顔に覚えのない無頼漢を前にして、シヲンは首を傾げた。ドーリの知り合いには見えない。ドーリの方も、困惑気味の表情を浮かべて相手を見据えていた。
「あんま友好的にも見えないんだけどな」
恰幅のいい男は上体には金属製の鋲で装飾されてジャラジャラとやかましくなる皮革のベストを羽織っているだけ。だぼついたミリタリーパンツは迷彩柄で、チェーンがだらりとぶら下がっていた。パンク・ファッションよろしく自己主張の激しい服装だ。ソフトモヒカン風の髪型は、艶やかな紅色に染まっていた。深い皺が刻まれた厳めしい顔つきは、男の歳に判断がつきにくい。
「────────────────────」
祝詞のようだと思った。耳慣れない言葉を男は早口に詠唱した。要したのはほんのニ、三秒。それだけで世界は一変した。
あれほど穏やかな天気だったのが嘘のように、周囲に霧が立ち込め始める。足元の影の形があいまいにぼやける。
「ドーリ伏せろッ」
「ぐわぁッ」
二人が身を伏せた頭上を、黒い影が掠めていった。風切り音に肌が逆立って、心臓が早鐘を打つ。
霧が急速に体温を奪い、すでに指先が凍え、呂律が回らなくなってきている。
いったい男は何者なのかと憶測する暇さえ与えてくれない。
二人一緒にいるのは分が悪い。ここはドーリと二手に分かれて、男の狙いを分散させることにした。シヲンとドーリが同時に二手に駆け出しても、男に動揺の色は見られない。
「────────────────────」
矢継ぎ早に男は仕掛けてくる。
短期決戦を図りたいというのだろう。後手に回ったシヲンたちは、どうしても余裕がなくなってしまう。一手二手と遅れをとっていく。
このまま逃げ続けるだけでは埒が明かない。疲労だけが募るのみ。だったら、とシヲンは意を決した。
地面から氷の柱が生えて、シヲンの行く手を阻む。が、そのまま突進した。吸血鬼としての筋力はありえない身体能力を発揮させる。柱が壁になって視界を閉ざしても、シヲンは脚力だけでそれを飛び越えてみせた。宙で弧を描きながら、男に肉薄する。
被っていたフードが脱げて、奇怪な銀髪が露わになってしまったが、この際仕方のないことだと割り切った。
腰に佩いた刀の柄に右手を伸ばし、柄をきつく握り締めた。
リョウの思いを掌に感じながら、シヲンは刀身を抜き放つ。
「うらぁッ!!」
──キィィン……。
渾身の居合い切りは、死角から現れた黒い触手に阻まれた。空中に千切れた黒い欠片が粒子となって霧散する。着地とともに男から大きく距離をとった。思いがけなかった事態に心拍数が急激に上昇する。
「ッ!! 街の中は安全じゃないのかよ。なんでここに」
──グラトンがいるんだよ。
魔王の影から産み落とされた影の怪物が、男の足元で触手のような多数の腕を伸ばしていた。もはや原型を止めない男の影は、おぞましい異形へと成り果てている。
男はベストの内ポケットに手を差し入れると、その瞬間男の左胸に刻まれた紋章(卐のエンブレム)が露わになる、中から褐色の小瓶一つを取り出した。そのまま地面に向けて叩きつける。パリン、と軽やかな破砕音が響くと、瓶の中から影が急速に膨張した。現れたのは長大な頭角を生やした巨躯のグラトンが一体。これで三対ニになった。
霧が徐々に険しさを増し、濃霧といっても差し支えのない程度にまで悪化している。真っ白に塗り潰された視界では、男の姿を視認することが困難になる。グラトンの双眸の灯火だけがぼんやりと浮かび上がって見える。
シヲンは首もとに吊るされたマナクリスタルにそっと左手を重ねた。男が魔王側の人間だと分かった以上、このまま逃がすわけにはいかない。助けが必要だ。
「おい奇怪な髪の小僧。せいぜい無駄に足掻いて見せろ。小生は不穏分子を排斥せにゃならん。おぬしを消されなきゃならんのだ。せいぜい悔いがないように逝け」
しゃがれ声でありながら、深みのある落ち着きのある声色が霧の中から響く。小生などという古臭い一人称は、官僚的な上意下達の臭いを感じさせた。
「すまんが、この場で消えろ」
「ちょーっと、まったぁッ!!!!」
間髪いれず、ドーリの怒声が男の言葉を掻き消した。それを合図にシヲンも再度男に肉薄する。シヲンにとって、グラトンの一体や二体はさしたる障害にはなりえない。
「待たん。が、受けて立とう」
男がいるべき方角から明らかな殺意が露呈する。語るにおぞましい黒い影の怪物が、霧のスクリーンに浮かび上がる。霧を横薙ぎに切り裂く二股の尻尾が迫るのを視界の隅で捉えて、身を伏せて躱す。頭上すれすれを掠めていった影に肝を冷やしながら、地面を蹴って男に迫る。
霧の中に男の姿がはっきりと浮かび始める。男は口元に微笑を湛えた。失笑を買ったシヲンは、切っ先を相手に向けて刀を水平に構えた。冷却された刀身に水蒸気が凝縮して凝固していく。霜が降りて白く染まる。
『ギチギチギチギチギチギチ』
枯木が軋みながら折れるような不協和音が響動した。発生源はちょうどシヲンの足元。無意識のうちに上体を捻って回避行動をとっていなければ、上半身が千切られていただろう。霧で分からなかったが、ちょうど踏み込んだ一帯に同心円状の影が広がっていた。
巨大な一本角を伸ばしたグラトンが地面から飛び出して、天に向けて一角を突き上げた。ヒュオンと風切り音が響く。大気が掻き混ぜられ、グラトンの周辺で霧が消散される。
「なんだよ、こいつ」
グラトンが待ち伏せを仕掛けてくるなんてことは、いまだかつて経験したことがない。それに目の前のそいつは、巨大な角をもった異形の怪物だ。体躯も何割か増大されているように思えた。多足の足が忙しなく動き旋回行動を取る。蝋燭の灯のような淡い眼光が軌道を描く。
「うぉぉぉおおおっりゃぁぁぁぁぁあああッ!!」
次の一手を警戒したシヲンは唐突の雄叫び(何故か頭上から響いてきた)に身体を硬直させた。猫族自慢の脚力で一気に跳び上がったのだろう。ボウイナイフの刀身が幅も刃渡りも倍にされたような、特大サイズのサバイバルナイフを逆手に構えたドーリが、自由落下の勢いを乗せて短刀の刃をグラトンの首筋に斜めに這わせた。それは一見、首筋を刀身が撫でただけのように見えた。が、ドーリが敵と判断した相手に情けをかけるわけがなかった。
血飛沫よろしく、黒色小片が飛散する。と、同時に蒸発するように霧散する。
ドーリの一太刀はグラトン亜種の頚椎を三分の二ほど切り開いていた。切り傷がおよそ一メートル弱に達したのは、【撫斬】の本領発揮だろう。
本来の由来は、相手を片っ端から打ち負かした強者という意味合いが強い。が、それに隠されているが、ドーリの剣術にも理由の一端があるように思われる。簡単な話、ドーリの太刀筋が対象を撫でるような軌跡を描くのだ。にもかかわらず、その結果は今の通りだ。
「詰めが甘いよ、ドーリ」
ドーリが切り損じた残りの三分の一(すでに負傷部分の再生が始まっていた)をシヲンは太刀で切り裂いた。身体から切り離された頭部が、重力に従ってずり落ちる。鈍い落下音が響く前に消滅したグラトンの亡骸の向こうに現れる男のシルエットを見据え、シヲンは静かに太刀を構えなおした。
男にこれ以上いいようにされるわけにはいかない。
異形のグラトンを無傷で屠った喜びにつかる真似はせず、鋭く尖らせた視線を男に向けた。
男が新たな手段を講じるまえに、勝負を決する必要がある。
「だが、小生には近づけんよ」
男が言うように、彼の足元には影が一面に拡がり、そこから無数の手足が何かを欲するように生えて蠢く。影の草原のような一帯を抜けるのは困難だろう。踏み込めば、一斉に絡めた取られて身動きが取れなくなるに違いない。その中央に佇む男のもとに辿り着くのはもはや困難を極めている。にもかかわらず、シヲンの顔には敗北の色が浮かんでいなかった。それどころか、余裕の笑みが口もとにこぼれていた。
「ドーリ、腹を括れよな。さっさと終わらせよう」
「人使いが粗いですぜ旦那」
疲労の色を見せないドーリの台詞に、シヲンは苦笑した。
そして、笑い声が余韻を残しているうちに疾駆した。
同時に駆け出し、先駆するドーリの背中を追いかける。
「血迷ったな、小僧。あやつが真っ先に始末しろ、と言ったからにはさぞ優秀なのだろうと期待したのだがな」
意味深な言葉を発して寂しげに笑った男に、シヲンは中指を立てた。それは男に対する反撃の狼煙だった。
「あなたを現行犯として捕縛します」
外部からの突風が依然として一帯を覆い隠していた霧を吹き飛ばした。
西日を背中に受けて立つ少年の姿が露わになる。狐を連想させる尖った耳殻が特徴的だ。赤い眼光が、夕日で一層赤く染まる。
シヲンがマナクリスタルで密かに場所を伝えた相手は、他に四人の仲間を連れて駆けつけてくれた。全員が霧の中から現れた見覚えのない赤髪の男の姿とその足元で蠢く影に驚愕している。いち早く正気に戻ったレンが、彼の獲物であるエクゼキューターを後ろに構えて駆け出した。
「くそ、邪魔が入ったか」
男が悪態をつき自分たちから注意を逸らした。シヲンたちは一気に男との距離を縮めた。
影の草原に果敢に突入したドーリを歓迎するように、グラトンの手足が一斉に伸びる。抱擁するようにドーリが飲み込まれ────ることはなかった。【撫斬】は集団戦において、無類の強さを発揮する。それがたとえ、人でないとしても、いや、人じゃなく単純な動きしかしない影のほうがよっぽど楽なのかもしれない。
転瞬、霧が晴れるように、球状に集まった影が消滅した。飛散した影の間をドーリの脇を抜けてシヲンは跳躍する。
レンたちが影の触手と悪戦苦闘し、ドーリも新たに出現した影の相手をしている。が、シヲンはこうして敵の守りを潜り抜けた。
男の表情に初めて驚愕の色が浮かんだ。
「さっさと縄にかかっときな」
右斜め下方向から振りぬいた一閃を、男の足元から生えた氷柱が防いだ。飛び散った欠片を左手で払って、振り上げた右腕を手首を返して跳ね返す。
いつのまにか男の両手に、拳の延長線上に伸ばされた氷の爪が鋭く生えていた。
「小生の間合いにまで近づいたことは褒めるが、所詮おぬしでは力不足だ」
「あ、そう。俺からしたら役不足だけどな」
「? ……ッ!!」
氷の鋭爪が全て切り落とされている事実に気づいた男が、愕然とした面持ちで自分の手元とシヲンの右手を見比べた。そして今度は驚愕に色を失くす。
「その右腕。おぬし、ドミナントか。奇妙な髪といい、血が乾いたような赤黒い腕といい……。まさか貴様、ディアブロか」
「……………………」
黙りこむのはもはや答えを言っているようなものだが、シヲンは何も言わず静かに刃を男の首筋に押し当てた。これ以上抵抗しようものなら、男の手足の一本や二本は致し方ない。予想に反して、男は抗う素振りを見せず、唐突に破顔した。足元に広がっていた影は、知らぬ間に人一人分のサイズにまで縮小している。
「はっはっは、なるほどなるほど。あいつが気にかけるわけだ。おぬしは想像以上に厄介な障害というわけか」
「シヲンさんご苦労さまです。彼の身柄は僕たちで預かりますね」
近づいてきたレンが仲間に指示して、男に手錠をかけさせる。手錠には束縛魔法がかけられているようで、どんな魔法も一時的に使えなく出来るものらしい。
レンの仲間が二人、男のもとへと向かい背後に回った。男にはもはや逃げる意思はないように思われた。ゆえに安心し、シヲンは太刀を柄に戻した。
「──ならば、計画を変更せざるをえないか。少々厄介な相手だな、小僧」
ニタリと不気味な笑みを浮かべた男に、嫌な予感がしたシヲンが咄嗟に太刀を抜こうとした眼前で、男の輪郭がぼける。いや、ノイズが走ったかのように乱れる。
空中に霧散した魔力の燐光が、男が転移水晶を使用したことをしらせていた。
「──またいづれ日を改めて」
男は姿をくらませた。その行方を知ることはついぞ出来なかった。
その様子を遠目、およそ一キロメートル離れた地点からスコープ越しに観察していた青年は、構えていた無骨な洋弓銃の銃口を下げた。
──邪魔がなくても、ダグマさんが負けていた可能性のほうが大きいね。
彼の読みを大きく凌駕した少年の戦闘能力に舌を巻く。あやうく貴重な戦力を失うところだった。
仲間が上手く立ち回ってダグマを逃がせたものの、下手すれば彼自身が手を下さなければならないところだった。そうなればもはや自分の素性が露呈することは明らかだ。
灰色の髪をなびかせて、青年は踵を返す。
その顔には酷薄な笑みが大きく浮かんでいた。
****
合同部隊の作戦本部では、熾烈な論争が終局を迎えようとしている最中だった。
大局は総隊長であるイクマの意向に沿う形で、今回の事件の始末をつけることに合意している。それに対して数名の反対派が未だに態度を改めずにいた。彼らはまだスムーザに来て日も浅く、ましてイクマの下に組み込まれた身となって数えるほどの日数しか経過していないような者たちだった。イクマの言い分にも一定の理解を示しながらも、それに一任できない。イクマを信頼しきれていない。自分たちの上に立つに相応しい人間か、見定めているところなのだろう。
彼らの言い分はこうだ。
「今回の侵入は時期的にも、あの少年が街に来たばかりに起こったようにしか思えません。あの少年が手引きしたに違いありません。素性の知れない人間をいれたのが間違いだったんですよッ」
「だが、そういう君たちもワタシからしてみれば、素性の知れない人間に他ならない。同じ志をもっているとは言っても、それが表面上ではない保証はないよ」
売り言葉に買い言葉とはこのことか。
逆上したような青年のセリフに対し、イクマが落ち着き払った言葉で諭す。
そもそも、相手を取り逃がした部下の落ち度を指摘すべきなのだろうが、この場にはそのことに言及する人間はいない。いれば、論議の焦点はまた違っていただろう。
「それにだ。彼はマリアちゃんの護衛をこれまで努めてきたというし、結局彼が侵入者を捕らえる手前まで追い込んでくれている。今回の件は、どちらかといえば、マリアちゃんを欲した魔王側が、その護衛役である彼が邪魔だったと解釈できないかい? ワタシとしては、警戒レベルの引き上げで今のところは様子を見ようと思うのだけど。少なくとも内通者の可能性が大きくなってとはいえ、未だにその尻尾が掴めていないからね」
そう言われても、大人しく引き下がろうとはしない反対派だったが、最後のイクマの言葉に態度を一八〇度変えた。いや、変わらざるをえなかった。
「それにどうも彼は、キャナちゃんとは付き合いの長い仲らしいしね」
その言葉をどう解釈したのか定かではないが、彼らはイクマの意向に同意した。シヲンに対する嫌悪感は殺意にまで昇華したが、この場を治めただけマシだとイクマは考えた。
というより、ただただ面倒くさかっただけだった。
一人の少年の平和的な日常を守ることに労力を費やすことは、イクマの性には合わなかった。欠伸を噛み殺して、イクマは椅子に深く座り直した。
論議の決着がついたことで、緊急の集会はお開きとなる。
ぞろぞろと主要メンバーが退室していくなかで、一人の女性が自分に訝しげな視線を向けているのに気づいた。
──チトセ・カンバラ。
副隊長の座でありながら、その実力は自分を凌駕する勢いだ。合同部隊には、彼女こそ隊長に相応しいとして、指示する者も多い。
彼女はきっとワタシを疑っているのだろう、とイクマは心の中でうんざりとした。
彼女の目を誤魔化しきれなくなっている。が、もはや杞憂する必要もないだろう。
自分が敵側のメンバーの尻尾を掴んでいることや、近々敵の本隊がここに襲撃してくることは最重要機密だ。
チトセが何も言わずに作戦本部から出て行くのを見送って、イクマはほっと一息ついた。
背後に現れた気配をそっと窺って、愛想よく笑みを浮かべる。
「──新たに一〇〇余名の旅人がスムーザの西門に到着しました。すでに街のなかに通してあります」
連絡係の部下が敬礼して、淡々と報告をした。
「そうか、ありがとう」
──彼が一旦退くとはね。だけど、概ね計画は順調だ。あの少年の件は厄介だけど、こっちの舞台は揃った。ここまでお膳立てしてやったんだ。もう失敗はごめんだよ。
──全ては今ある最良のために。よき今を終生まで。




