《Heavy Rain》
ザァァァァァァァ───────────。
音が聞こえない。
激しく降る大粒の雨が視界を閉ざす。灰色一色、先など一切見えない。
冷気を孕んだ雨粒が体温を容赦なく奪っていく。白い息が雨に掻き消される。耳元で鼓動が聞こえた。どくんどくんと拍動する心臓の音。いやに落ち着いている。
雷鳴が轟き、地響きとなって駆け抜ける。全身がビリビリと震えた。
時折閃光が瞬き、視界を白く染める。濡れた髪が顔にべっとりと張りつくのを鬱陶しく拭う。近くで金属が打ち鳴らされる音が響いた。
鋭い音は豪雨の中でもよく通った。
目を細め、周囲を見渡す。水を吸って重くなった服のせいで身体が重い。泥濘んだ足元に顔をしかめつつ、腰の双剣の柄に触れる。いつでも抜刀できるように身構えた。
ザァァァァァァァ───────────。
「──────ッ」
咄嗟にしゃがんで刃の切っ先を躱した。唐突に雨の中から現れた甲冑姿の人間をあしらうと、すれ違いざまに相手の足を斬り裂いた。
───────ッ!!
男の悲鳴が雨音に呑み込まれる。
僅かに光が瞬いて消えたのを視界の隅で捉えて、新手に備える。
魔力を宿した体液は空気に触れると光化して消える。辺りに闇が降りたこの場所では僅かな光でも目立つ。下手すればそれが命取りになる。
両手の剣柄をきつく握りしめ直し、深く息を吸い込んだ。
髪を振り乱して飛び込んできた男が大剣を振り払う。唸りを伴った袈裟の一撃を紙一重で避けて水溜りの上を転がった。口に入った水を吐き出して、身を起こす。身体が鉛みたいだった。
大剣の男以外にも槍や剣を構えた人間が数名。土砂降りに輪郭がぼやけているが包囲を狭めてくるのが分かる。
───────────────ッ!!
髪を掻き上げて獣のように咆哮した。自分自身を鼓舞するように、相手を威嚇するように。この壊滅的な状況を拒絶するように。
「奴を仕留めるぞッ。かかれ」
大剣の男が叫んだ。一斉に肉薄してきた人影。相手の顔など視認出来やしない。視界を雨に奪われながら、剣を振るう。突き出された武器の切っ先を躱し、相手の二の腕に斬りつける。武器を落とした相手には目もくれず、次の標的に刃を向ける。
殺しはしない。戦えない程度に傷つけるだけだ。
手足の感覚などとうに無くなっていた。芯まで冷えきった身体は細かく震え、歯が鳴っている。なのに頭は冴えきっていた。
迫り来る刃の軌道を目で追う。
「──っく」
重たい身体が思い通りに動かせない。
反応に遅れて刀に右腕を斬りつけられる。キィンと金属音が響いた。かつて魔王に呪いをもらった右腕は石のように硬く冷たい。赤黒く変色し、一切の感覚を失っている。
これまでの戦いで随分と削れ、ひび割れたものの、未だに腕としての機能を保っていた。
「くそ、悪魔め」
片目に傷をもった男が舌打ちする。男が構える刀の刃が欠けていた。
男の胸元には魔王に服従した証のペンダントが鈍く光っている。
「魔王の犬なんかやってる自分たちの方が、人間らしいって? 馬鹿言うなよ。あんたらも十分、バケモンだよ」
身を屈めて踏み込むと、男の懐に潜り込んで剣柄で鳩尾を強打した。男が目を白黒させて膝を折る。再起には時間がかかるだろう。
「最悪だな、ホント」
蝋燭の灯のような光がのそりと近づいてくる。あれは怪物の眼だ。恐怖の対象、暴食の怪物。次第に灯の数は増え、ぐるりと丸く囲まれた。
残った男たちがけたたましく笑う。自分たちの勝利を確信したのだろう。
あぁまさに、絶体絶命な状況。打開する手立てなどあるわけがない。
魔王の影から生まれた怪物、グラトンが土砂降りの中を突っ切ってくる。漆黒の巨体を支える細長い多足。長い触角とギザギザした歯並び。二股の尻尾がバランスを保っている。
あれに喰われれば魔力を余さず奪われ死ぬ。魔力をもたない異質体質な自分は、喰われればただの肉塊にされるのかもしれない。
グラトンの生命力は突出している。足を斬り裂いても瞬時に再生する。倒すには頭部を潰すか切り落とすかしかない。
──────────ダァァァァァァッ!!
絶叫が響き渡った。
バネのように少年の肩が跳ね上がり、慌てて首を左右に振った。
グラトンが無差別に捕食を始めていた。いや、そもそも仲間意識なんてなかったのだろう。魔王にとって、価値のあるものはないのだから。だからこそ、魔王は全てを創り直そうとしている。
しかしどうして急に闇ギルドの連中が捕食され始めたのかが分からない。
魔力をもたない自分よりも彼らの方に食欲をそそられたというのなら納得出来なくもないが。それにしても人が喰われていくさまは見るに堪えない。
背筋に悪寒が駆け上がり、胸焼けを覚える。
「助けてくれ、やめろぉ、くるなぁ、来るなぁぁぁぁ」
また一人、光となって消える。次々と喰われていく者たち。反比例して増殖するグラトンたちは、容赦なく獲物を捕らえていく。
他人を助けている余裕はない。グラトンがこちらの存在に気づき、狂喜した様子で迫ってくる。マナクリスタルの魔力に気づかれた。
「せめて魔法が少しでも使えたらよかったのにな」
首を竦め、重く息を吐く。
両手に握ったアインズとツヴァイダを構え直す。仲間との繋がりを示す物はこの刀剣と左手の甲に押されたギルドのエンブレムぐらいだ。ギルドの制服はホロウのシーカー本部に置いてきたままだった。いやもうホロウという街は存在しない。瓦礫の島があるだけだった。
首元に吊るしたマナクリスタルはある時から機能を失った。魔力の結晶だけになってしまった。その原因に魔王の存在があるだろう。
「生きていてほしいな……。みんな、無事だよな。生きてるよな」
グラトンが噛みついてきたのを回避して、無防備な首筋に双剣による連撃を叩き込む。飛び散った影は宙で霧散し、三分の二ほどを斬り裂かれた頸椎はかろうじて頭部を繋ぎ止めていた。
さすがにここからの再生は難しいらしく、治りが遅い。容赦なくさらに斬撃を加え、完全に首を斬り落とした。淡い眼光は光を失くし、雨が影を洗い流していく。
グラトンは仲間の影からも増殖する。気づけば夥しい数に囲まれていた。
大小様々、足の数もバラバラ。まるで統制がないものの、グラトン同士は共食いを起こさない。その理由はアレの構造にある。グラトンが吸収した魔力はその場で魔王に送られる。ゆえにアレらの身体は光化を示さない。
消耗戦だ。一体倒すのに時間はかけられない。増殖する隙は与えない。
水溜りを蹴り上げて跳躍した。
右腕を振って一体の頭部を縦に裁断する。左腕で薙ぎ払ってもう一体の首を斬り落とす。右腕か左腕、どっちを動かしているのかが分からなくなり、意識は朦朧とする。延々と時間が流れていたように思う。身体中が軋んで悲鳴を上げた。
全身が酸素を求め、肺はきりきりと痛んだ。
斬って斬って斬って斬って斬って斬って───────。
ザァァァァァァァァ───────。
全身は雨でびしょ濡れなのに喉が渇いた。身体は冷え切っているのに、口端から漏れる吐息は白く棚引く。剣を地面に突き立てて、指が白くなるほどきつく握り締めた手を離した。気が緩み、がっくりと膝をつく。泥濘んだ地面に身体が沈んだ。
今になって疲労が襲ってくる。今日も生き残れた。その結果だけで十分だ。
閃光とともに雷鳴が響き渡る。雨足はさらに強くなったようだ。雨粒が頬を強く打ちつける。
轟音が鼓膜を叩き、閃光が視界を塗り潰す。
しばらく放心したように座り込んでいたが、さすがに寒い。
のろのろと立ち上がって剣を地面から抜く。
「ひぃっ、殺さないでくれ。頼む、見逃してくれッ」
突然、悲鳴に似た声が聞こえ、首を捻る。視線の先に男が土下座した状態でいた。幸運にもグラトンに捕食されなかったらしい。いや、悪運と言った方がいいのかもしれない。
それに生き残れたからといって、男にこの先明るい未来が待っているわけじゃない。
「誰があんたを殺すって? 冗談は大概にしなよ」
「じ、じゃあ」
「早くどっかに行けって。俺の視界からいなくなれよ」
気を悪くしたように言うと、男は慌てて立ち上がって去ろうとする。片目に傷痕をもった男だった。ふいに立ち止まると、
「お前、本当に悪魔なのか?」
「だから、俺の名前はシヲンだって」
少年は口を尖らせて、不機嫌そうに言った。
そう。自分には名前があるのだから。悪魔などと呼ばれることに憤慨せずにはいられない。
いつのまにそう呼ばれるようになったのか記憶にないが、畏怖の対象ということに違いはないらしい。彼らが自分を見る目は、どこか歪んでいた、とでも言えばいいだろうか。
どの目も恐怖の色を濃く浮かべるのだった。
男の姿が雨に紛れたのを見計らって、少年は男とは反対に歩きだした。
「……………………ハハハ」
どんよりと沈んだ空模様は、バケツをひっくり返した豪雨が止む気配も無い。雨が戦闘の痕を消し去っていく。ここに誰かがいたという痕跡を、記憶を飲み込んでいく。
ふらふらとした足取りで帰路を辿る。
耳の奥にこびりついた男たちの悲鳴が追い縋ってくるようで、首を激しく振った。自分には助けることなんて不可能だった、と割り切るしかなかった。でなければ、心が壊れてしまう。
心が壊れてしまった人間を随分見た。目の前で仲間が喰われた旅人、守れずに死なせてしまった人間、人を殺めた人間など。挙げればキリがない。
その仲間入りをするのだけはどうしても避けなければならない。
自分には見つけ出さなければならない人がいる。きっと生きている。そう信じる以外に何が出来るだろうか。
およそ三ヶ月前だ。
魔王が復活してからそれだけ経った。
たった一週間で世界がほぼ壊滅的な打撃を受け、魔王に魔力の大半を奪われた。
多くの旅人は各地で抵抗を続けている。
最近では最終決戦に向けて一箇所に集まり始めているらしい。
スムーザの街に。
正直に言ってしまえば気が進まない。あの街に残してきた思い出は懐かしくもあり、苦しい。かつての仲間、初めてのギルド、あの日常が消えた場所。
唯一、街に巨大なマナクリスタルを守る街。
軍および多数ギルドの連合軍が本部を置き、最後の砦とする場所だ。
──気乗りしないけどなぁ。
草が枯れ果て、地面が剥き出しになった丘を登る。ごろごろと転がった石はこぶし大のものまである。丘だと思ったものが実は崩れ落ちた建築だと気づいたときには、視界一杯に雨で濡れた廃墟が広がっていた。
あれほどまで強かった雨は勢いを弱め、頭上の曇天には切れ間が見えている。もう夕暮れ時らしく、紫に染まった雲に茜色がグラデーションを描いていた。覗いた赤い空は綺麗だった。ほんの数秒、目を奪われるくらいに。
標高が高いこの場所は手を伸ばせば届きそうなくらいに雲があった。
この辺りは山岳地帯が続く居住には不向きな一帯であり、まさか人里が存在していたとは思わなかった。とっくに廃れた場所であるらしく、多くの建物が原型を止めていない。腐った木材は土に還り、草に覆われている。
こうした光景は別段珍しくなくなった。グラトンたちによって破壊された街も似たようなものだった。闇ギルドが活動を活発化させて村を襲ったときも同じだ。
残されるのはぐちゃぐちゃにされた日常だった。
闇ギルドの連中はなにかと快楽を求める連中のため、よけいに性質が悪かった。女子供の扱われかたに関して、あまり気持ちのいいものがない。
暗い思考を振りはらおうと首を振る。
随分高くまで登ると眼下にはミニチュア模型のような景色が広がっていた。といってもかつては茂った草原は随分と荒れ果て、茶褐色の地面がいたるところに見える。そこに接する山の斜面一帯も無惨な不毛の地と化している。木々の多くは魔王の復活によってたちまち枯れてしまったのだった。魔力を吸い尽くされた場所は長くもたない。
草原だった一帯を越えた先には遠目にも分かる街の姿がある。周囲を高い城壁に囲まれ、中央に巨木を守るように形成されたスムーザの街。
シヲンがいる場所は、街の南に位置する。かつてハートレスのタブーと呼ばれた場所がある山脈の一角だ。川が流れる渓谷を進む魔王の軍勢を急襲したのがつい先ほど。先回りできるか不安だったが上手くいった。
山火事にでもあったような木々の間を縫っていくと、山の斜面にぽっかりと口を開けた洞穴が見えてくる。突き出した岩が屋根になり、入り口が崩れるのを防いでいる。仄かに温かな灯りが漏れているのは、中で火を起こしているからだろう。
すでに周辺には敵はいないと見ていいようだ。
幾分か肩の力を抜くと、ゆっくりと洞穴に近づいた。岩に手をかけて穴の中に潜ると、焚き火に木片をくべる少女の姿が見えた。
まだまだ幼い、十代に手が届くか届かないかといった年齢だろう。亜麻色の髪に碧眼の精巧な人形のような少女だ。大きめの眸は炎の揺らめきを反射してきらきらと輝く。栗色に光る髪をツインテールにしている。
少々大きめな紺色のローブは少女を丸みを帯びたシルエットにしていた。丈夫そうな厚底のブーツは踵の方が随分磨り減っている。
少女はシヲンの姿に気づくと、丸めて置かれた毛布を投げつけた。シヲンは咄嗟に手を伸ばして受け止める。
ジト目がちで常に不機嫌そうに見えるのが少々勿体無い。せっかくの顔立ちを台無しにしている。
シヲンの心のうちを見透かしたわけではないだろうが、眉根を寄せて少女はそっけなく言葉を続けた。
「おかえり、シオ。まずは濡れた服を脱いで乾かしてください。さすがにそのままじゃ気持ち悪いです」
言葉に棘を含ませる少女にシヲンは苦笑いを浮かべるしかない。
確かに全身がぐっしょりと濡れた格好は情けない姿だ。
言われたとおりに外套を脱ぎ、ズボンも脱いでほぼ全裸の状態で毛布に包まった。さすがに下着までは脱げない。
腰に下げていた二振りの刀剣は鞘から抜いて壁に立てかける。鞘を逆さまにすると中から濁った水が飛び出して、地面に水溜りをつくった。
しばらくすると全身に温もりが戻ってくる。自分がどれほど冷え切っていたかを今更自覚した。
濡れた服を焚き火の近くの岩場に干して乾くのを待つ。風が抜けていくここは煙がこもらない。山脈の下に巡らされた洞窟のどこかと繋がっているようだ。
洞穴の奥のほうを見れば微かに発光する苔が散見できる。
シヲンは身近にあった岩の上に腰を下ろした。ひんやりとした感触に鳥肌が一瞬立つ。
「収穫はどうでした、シオ?」
シオと呼ぶ少女は、傍においてあった袋の中から取り出した干し肉を二つに引き裂くと火に軽く炙った。肉の焼ける香ばしい匂いが鼻腔を刺激する。唾液が溢れてきた。
「はい、熱いので気をつけて」
「って、火傷するだろッ」
慌てて受け取ったものの、本当に火傷するほど熱かったことに度肝を抜かれる。よく彼女は火傷しないものだ。感覚のない右手で掴みながら息を吹きかけて冷ますと、一口干し肉を齧る。いかに空腹だったかを思い知った。ぎゅるるると腹が恥ずかしいくらいに鳴る。
少女が苦笑して、自分の分をさらに二つにしたものを寄越す。
慌てて首を横に振った。
「お前もちゃんと食べとけって。いつでも万全の状態でいてもらわなきゃ、いざという時に困るからな」
「誰かさんが魔法を一切使えないせいですね。はいはい、ちゃんと食べますよ」
「…………」
あまり抑揚のない声で棘のある言葉を言われると、正直こたえる。慣れたとはいえ、人間は繊細だ。ちょっとしたことで傷つき、へこまされる。
「……魔王の軍はやっぱりこのまま北上して、スムーザに向かうつもりだったみたいだ。配属されたグラトンの数が予想以上だった。ほかにも別働隊がいるかもしれない」
暫くしてから今日の報告をする。
その部隊が全滅し、ほとんどが死んだなどという暗い報告はしない。する必要はない。目の前の少女は大体を把握しているのだから。
少女は口元に手を当てて眉根を落とすと、暫し考え込んだ。パチパチと木が爆ぜる音だけしか聞こえなくなる。
外はすっかり暗くなり、見える限りでは闇しか見えない。外から見ても、屋根代わりの岩のおかげでこの場所はかなり目立たない。多少光が漏れても、問題ない。
「明日にはスムーザに向けて移動したほうがいいですね。街では旅人たちが最終決戦の準備をしているというし、魔王側も黙っていないでしょうから」
「この辺りには気配はないんだよな」
「はい。シオが当たった部隊だけです。ウチの索敵魔法で半径数キロを見てみましたけど、痕跡もありません。この一帯はクリアです」
淡々とした口調が続く。簡単に少女は言うが、策敵魔法自体が相当高度な魔法だ。使える人間なんて稀だ。それを半径数キロの広範囲で行うのはむちゃくちゃだったりする。
だが、彼女にとっては朝飯前なのだそうだ。
魔王が産み落とした、ドミナントパーソン。突出した魔力を体内に保有する人々。
数百人に一人の割合で存在したらしい。その多くがすでに死んでいる。
魔王は率先してドミナントパーソンの魔力を取り込んだ。一万人の旅人全ての魔力を回収せずとも、ドミナントパーソンだけでそれに匹敵するほどらしい。一万人の魔力≒ドミナントパーソン全員というふざけた事実。
その話をしたのは他でもない彼女だった。この世界に来たときからマナクリスタルの守人という役目を与えられたマリアに出逢ったのは、ファミッシュのタブーから命からがら脱出したばかりの頃だ。
ボロボロになりながら辿り着いたのは、グラトンに蹂躙されている最中の街だった。
多くの住人が捕食されるなか、最後までマナクリスタルの前に立ちはだかった彼女を見つけたのはまさに僥倖だったろう。すんでのところでマリアを助けだし、以来彼女と旅を続けている。
マナクリスタルの守人というイレギュラーなポジションに置かれたマリアは、奇異な視線を受けてきたのかもしれない。ハンガリー人と日本人のハーフという彼女は、かなり端麗な見た目だ。嫌な思いもしてきたのだろう。人付き合いが苦手で、初見の相手に対しては警戒した態度を崩さない。
放浪していた頃、魔王がドミナントパーソンの存在を公言した事実を知る由はなかった。彼女のおかげでその存在を知ることが出来たが、少々苦い思いをした。魔力を奪われた後で自分がそんな存在だったと知っても、手遅れにもほどがあった。
そしてマリアもまたドミナントパーソンだ。
人付き合いが苦手な彼女がそれを他人に言うことは到底ありえなかっただろう。
彼女と旅を始めたシヲンでさえ、知らされたのは一ヶ月も経過した頃だ。その頃までにはなんとなく察しがついていたものの、あえて口に出さずにいた。彼女のほうもそれに気づいていたらしい。
「なぁ、マリア。お前はずっと俺についてくるつもりか? スムーザについたら、そこの連中に保護してもらったほうがいいんじゃ──」
「馬鹿ですか、シオは」
マリアは不機嫌そうに唇を尖らせた。
いきなり馬鹿か、といわれたシヲンは頬を引き攣らせて内心落ち込む。
「どっかのアホがハートなんていう、魔王にとっての魔力の源を奪われたせいで、世界中から魔力は吸い尽くされる一方です。そのアホがたった一人で魔王に挑んだら、死ぬなんて決まりきってるじゃないですか、アホですか」
「アホ、アホ連呼しなくてもいいじゃんか」
マリアの真剣な眸に見据えられ、シヲンは視線を余所に向けた。彼女の蒼い眸を直視すると吸い込まれそうな気がする。心の奥底を見透かされているような、不安な気持ちになる。
「それにあなたには待たせてる人がいるんですから。きっとシオのことを待ち侘びてるはずだから。ウチはあなたをむざむざ死なせるわけにはいきません」
心遣いに涙が出そうだ。
彼女の言葉を聞くほどに虚しい気持ちになるのはどうしてだろう。自分の半分ほどしか生きてない少女から説教みたいな言葉を言われ、遠回しに守ると言われ、平気なやつがいるだろうか。
それに待たせている人が生きているのかさえ分からない。今も待っていてくれるのか分からない。それを知るのが恐いのが本当のところ。
もしマリアがいなければ、スムーザなんて行くつもりはなかった。苦い思い出を残したあの街に、再び足を踏み入れようなどと思うわけがなかった。
「俺だってな、魔力がなくったって、身体能力に自信があるんだよ」
シヲンの精一杯の強がりをマリアは鼻で笑った。
「吸血鬼としての身体が残っていたのはほとんど奇跡じゃないですか。吸血衝動まであったらどうしてたつもりですか? 浮かれないでください」
「もう少し棘は少なくならないか?」
「これがウチのアイデンティティーですから」
マリアは得意そうに胸を反らした。当然ながら胸は薄かった。
「シオ、どこ見てるんですか?」
微笑を浮かべてたマリアの背後に般若のオーラを感じ取って、半歩後退さる。背筋を悪寒が駆け上がり、生唾を飲み込んだ。
ふと視界にキラキラと光が弾ける様子が映りこむ。焚き火を囲むように小さな星状の光がまわっていた。
マリアが柔らかく微笑んだ。右手を伸ばし指先で光に触れる。光はマリアの指の周りをぐるぐると回り、マリアはくすぐったそうに嬌声を上げた。
「あぁ、精霊ですね。ウチの魔力に惹かれてきたのかもですね」
「魔王が現れてからだよな。精霊なんていうのが出現したのなんて」
意思があるのかなんて分からない。
形は様々、大小もバラバラで、光や水や土や火、あらゆるものだ。生き物のように宙を舞ったりする姿が見られるようになったのが、丁度魔王が復活した頃。
人に害を与えるでもなく、ただ魔力が豊富にある環境に姿を見せる。多くの人間が首を傾げたこの存在を、いったい誰が呼び始めたのか、精霊なんて呼ばれている。
魔王はこの世界をどんなふうに創り変えようと考えているのか。
失くした日常なんて創れないから取り戻せない。
創ってしまった時点でそれはもう別物だ。だから魔王がやろうとしていることがわからない。
失ったことを後悔してもやり直せないなんて分かってる。思い知らされた。かつて失った日々は風化した思い出だ。
もう二度と繰り返さないようにと誓ったのに。自分は幾度となく後悔を繰り返している。
この先もまた繰り返すのかもしれない。
それが本当に恐くてしかたない。恐怖で呼吸が苦しくなる。
「シオ、そろそろ寝よう。明日は早いですから」
マリアが隣に移動してきて腰を下ろした。トンと肩に彼女の重みを感じる。それだけで胸の息苦しさがふっと消えた。
自分はいつも誰かに励まされてばかりだ。人と距離をおいていた日々が嘘のよう。あの頃の自分に言ってやりたい。人と適度に距離をとって、人の話ばかりを聞くことに徹していた自分に。踏み込まなければ、分かりえないことがあるんだ、と。
「にしても、シオはホント童顔ですよね。下手したら女の子ですよ、その顔は」
台無しだよ。
せっかく人が心温まる思いをしていたところにこの言葉。
マリアは意地の悪そうな笑みを口元に浮かべていた。
シヲンは盛大に溜息をついた。顔どころか身長も結局一六〇センチに満たないために、本当に少女に間違われることがある。例えるならば小動物らしく、慈愛の視線を向けられることもあった。
まったくもって嬉しくないし、心が砕けそうになる。と、正直打ち明ければ、マリアは散々いじってくるだろう。
「悪かったな、童顔で」
「よくそんな顔で異性として見てもらえましたね。シオを待ってる人って、実はブラコ……」
「──コンじゃねぇよッ」
「クスクス……。そんな顔真っ赤にしなくてもいいじゃないですか。さてと、シオを弄る日課も終わったことですし、寝ますか。明日は久々のお風呂ですね、待ち遠しいです」
最後に風呂に入ったのは二日前だ。風呂に入れるのは稀で、大抵は近くの水源で水浴びをして、なるべく清潔でいようと努めている。マリアは女の子なのだから、本当は毎日風呂に入りたいのだろうが、不平を漏らさずにいてくれる。
マリアがシヲンの身体を包む毛布に手を伸ばす。実のところ、毛布はこれ一枚限り。いつもはマリアに貸して、シヲンは何もかけないで寝ている。
さすがに一緒に寝るわけにはいかないだろうと、思う。
「その前にいいか?」
今日はもう疲労でくたびれたので、寝ることには賛成だ。明日は早いというのなら、尚更だ。それでもこれだけは言わせてほしい。
「なんですか?」
「どうか服を着させてくれ」
さすがに下着を着ているとはいえ、ほぼ全裸状態でいるのはまずいだろう。




