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伍章「伊能の本懐」ノ参

「アナタ」床の間で三つ指をついたミチが、濡れた瞳でこちらを見上げている。

 伊能は衣服を脱ぎ、ミチに覆いかぶさった。「嗚呼、ミチ」

 ミチを抱きながら、伊能は泣いていた。赤子のように泣いていた。ひどく悲しいことが、たくさんあったような気がしたのだ。

 だが、今や不幸はすべて消え去り、ミチは腕の中におり、忠孝も生きている。たくさんの人を――本当にたくさんの人を亡くしたような気がしたが、すべては悪い夢だったのだ。

「ミチはここにおりますよ。どこへも行きません」

「嗚呼、嗚呼、ミチ」

 ミチを愛しているうちに、伊能は徐々に違和感を大きくしていった。言動、仕草、笑い方、声。記憶の中のミチと、腕の中にいるミチとが、どうにも一致しないのだ。ミチを愛せば愛するほど、その違和感は大きくなっていく。

 一度感じてしまえばもう、その違和感から目を背けることなどできなかった。

「ミチ……?」

「はい、アナタ」

 どうにも頭がフワフワしている。伊能は、記憶が曖昧だ。いつからだ? 昨日、暗殺ギルドの屍天王と死闘を演じた時は、頭は極めて冴えていた。そのあと遺跡に至り、夜を明かした時のことも、しっかりと覚えている。翌朝、遺跡を探検しはじめた時の記憶も健在だ。だが、

(その後、何が……?)

 誰かに会った。そう、東洋顔の娘と会ったのだ。薄汚れたメイド服を着た、虐げられていそうな雰囲気をまとった娘と。

(あの娘はどこに行ったのじゃ?)

 不思議な娘だったが、伊能は確か娘に対して、何か決定的な違和感を覚えたはずだったのだ。

(思い出せ。ワシはあの娘と何を話した?)

『わたくしは探検隊のメシ炊き女として連れて来られたのです』

『みな、いなくなってしまって』

 違う。もう少しあとだ。

『星がお好きなのですか?』

『星の大きさを測るだなんて、どんなに立派な馬を持っていても、どんなに大きな船でもってしても、一生を費やしても不可能でしょう』

 違う。だがその前後だ。その前後で、自分は何か重大な見落としをした。

『それ、星を観るための道具ですよね。名前は確か、象限儀』

 そう、ここだ! ここで自分は、重大な違和感を覚えた。だが、なぜだ?

『ところでイノーや、そのデカブツは何じゃ?』

 ふと。記憶が第一次測量探検の出発前まで飛んだ。象限儀をリリンに初めて披露した時のことを連想したのだ。

『あぁ、四分儀クワドラントのことか』

『四分儀、じゃ。ショーゲンギとかいうのは、そなたの世界か、そなたの国での呼び名じゃろう。まぁそなたの星、そなたの国にも測量や航海の歴史があるのじゃろうが、この世界、この国にも歴史があるのじゃ』

(四分儀――ッ!!)伊能は、ついに、我に返った。(この世界には、象限儀という言葉はない! あの娘が、四分儀のことを象限儀と呼ぶはずがないのじゃ! ワシの記憶を読み取りでもしない限り!)

 その気付きが呼び水となり、数々の違和感が露わになっていく。

(なぜ、あの娘は象限儀という名を知っていた? いや、もはやそのようなことはどうでも良い。それより、今じゃ。今、この状況は何じゃ? いったいぜんたい、何がどうなっておる?)

 我に返った伊能の、普段の脳の冴え渡りが戻ってきた。

(ここは地球ではない。ここは日本ではない。ここは、ワシが愛した佐原村ではない! 昼間歩いた街並みは南蛮風じゃった。この部屋のような、畳敷きの部屋などなかったはずじゃ。――あっ)

 そのことに気付いた瞬間、周囲の情景がボロボロと崩れ去っていった。あとから現れたのは、薄ら寒い、西洋風の部屋だ。自分が横になっている寝床も、畳の上に敷かれた布団などではなく、ベッドであった。

 自分の手足も、成人男性のものではなく、『てーえす』を経た後の、少女のものとなっている。

 そうして――、

「お前は、誰じゃ⁉」

 腕の中の『ミチ』。いや、ミチを騙った女の顔が、みるみるうちに日中出会ったメイドのものになった。そして、ああ、なんということだろう。女が、伊能に向かってナイフを振り上げている!

「うわぁああ!」

 無我夢中で【空間支配】を発動させ、伊能は間一髪、女のナイフを避けた。どすっと重々しい音を立てて、ナイフの刃先がベッドに沈み込む。

(本気じゃ。この娘、本気でワシを殺そうとしておる! やはり他家の者か⁉ でなくば――――……刺客!)

 一瞬のうちに、伊能は覚悟を決めた。途端、伊能の覚悟に呼応した【空間支配】が、彼に最適な動きを提案してくる。同時に、伊能の視界に女の行動の未来予測像を投影する。

 三秒後の未来、女が伊能の首にナイフを突き立てている。

 二秒後の未来、女が枕の下から二本目のナイフを取り出している。

 一秒後の未来、女がベッドに深々と突き立てられたナイフを抜こうするも上手くいかず、諦めようとしている。

(予備の武器。それにそもそも、動きに迷いがなさすぎる! こやつ、本職の殺し屋じゃ!)

【空間支配】に導かれるがまま、伊能は最短距離で女の顎を蹴り上げた。

「ぎゃっ」

 女が仰向けに倒れゆくのを見届ける余裕もなく、床に落ちている衣類を引っ掴む。が、肝心の杖がない。女神オルディナから賜ったわんか羅鍼が。アレがなければ、伊能の【測量】は本来の十分の一の力も発揮できないのだ。

(くそっ、どこじゃどこじゃどこじゃ⁉)

 あの杖は、この家に入る時に女に預けてしまったのだ。ならばきっと、女の手によって隠されてしまっているだろう。悠長に探している暇などない。もうすでに、女がふらつきながらも立ち上がろうとしている。

(逃げなければ)着の身着のまま、伊能は夜の街へと飛び出した。

「感謝しているのよ」不意に、夜の街に女の声が響き渡った。「私の可愛い可愛い子どもたちを殺してくれたことを」

 次の瞬間、おびただしい量の風切り音がしたかと思うと、伊能が出てきたばかりの家屋が細切れになった。

(【空間支配】! ――あれは、嗚呼、あれはまさか!)再び、風切り音。伊能の異能は今度こそ、音の正体を看破した。(見えない刃、【インビジブル・ブレード】! 屍天王の一人、【ニンジャ・アサシン】が使っておった異能じゃ!)

 激しい音が何度も何度も鳴り、細切れになった構造物が今や砂粒ほどにまで切り刻まれ、風に溶けて消えた。砂埃の中から、メイド服の女が悠然と歩いてくる。

(違う。【ニンジャ・アサシン】が使っていたものよりも、何倍も何十倍も強力な異能。どういうことじゃ、あやつも暗殺ギルドの一味なのか⁉)

「私は」女が笑う。嗤う。嘲笑う。「暗殺ギルドの飯炊き女で、虐げられるのが仕事の、ギルド員のストレスのはけ口。だけどそれは、仮の姿。本当は」

 女が右腕をひと振りする。すると、右隣の家屋が細切れになった。女が左腕をひと振りする。すると、左隣の家屋が細切れになった。

「この私こそが、暗殺ギルドの首領なのよ」女が嗤う。

「くっ――」伊能は踵を返し、走り出す。逃げる。逃げる。夜の街をしゃにむに走る。走るそばから、周囲の建物が細切れにされていく。(勝てない! 勝てるわけがない!)

「私の可愛い可愛い子供たち、可愛くておろかな息子たちは、誰一人として私の正体を知らない。私こそが支配者であることに気付いていない。下剋上を狙う部下たちからの反逆に嫌気が差して取った方法だったけれど、これが思いのほか上手くいってね。お陰で私は、平和のうちに十年を過ごすことができた」

(十年⁉ あの女、いったい幾つなのじゃ⁉)

 いや、そんな疑問に意味はない。敵は、あの強力無比な屍天王を束ねていた組織の首領で、実際問題としてあの【ニンジャ・アサシン】をも超えるほどの異能で建物という建物を細切れにしているのだ。当の伊能がサイコロステーキにならずに済んでいるのは、単に遊ばれているからに過ぎないのだろう。

(あやつもまた、【ニンジャ・アサシン】なのか⁉ いや、ヤツは人に幻術を見せる異能も扱う。だとすればダブルホルダー⁉ いずれぬしても、ワシ一人では勝ち目がない。じゃが)伊能は走る。右太ももの傷が悲鳴を上げているが、無視して走る。(バルムンク殿たちと合流できれば、あるいは! 【測量】!)

 だが、得意のはずの異能は、ほんの半径数百メートルしか測量できなかった。【測量】能力をブーストするためのわんか羅鍼を敵に奪われてしまったため、本来の力が発揮できないのだ。そして、その数百メートル内にバルムンクたちがいるような幸運には、伊能は恵まれなかった。

「下働きとしての立場は、身を隠す以上の素晴らしい利益を私にもたらしてくれた。わかるかしら?」暗殺ギルド首領の口上は止まらない。彼女はいたぶるように伊能の左右の建物を細切れにしながら、歌うように語り続ける。「死体掃除よ。下働きの私に任された、大切な仕事。敵も味方も関係なく見境なく、命の尽き果てた骸を、屍肉を、片付ける仕事。この仕事がまぁ、私の異能にピッタリでね。そういえばまだ、私の異能をアナタに教えていなかったわね。――【俊足】」

 いつの間にか――本当にいつの間にか、女が伊能の目の前に立っていた。目にも留まらぬ、目で見えない動き。異能【俊足】。

(バカな。アレは、あの屍天王たちの異能のはず。もし仮にこやつがそれを使えたとしたら、こやつは前人未到の『トリプルホルダー』ということになってしまう)


「【スキル・イーター】」

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