「AIレンタル彼氏」を作った話
自宅のリビングは、この世で一番緊張する空間だった。
壁に掛けた時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。古いダイニングテーブルの上には、買ってきた惣菜のパックが二つ置かれている。透明な蓋の内側に、水滴が白く曇っていた。
テレビはついていた。
若いタレントが、明るい声で笑っている。意味のない笑い声。拍手。効果音。
玄関の扉が乱暴に開いたのは、その直後だった。
身体が勝手に強張る。
足音が近づいてくる。廊下を踏みつけるような重い音。酒と煙草の混じった匂いが、リビングへ流れ込んだ。
男が入ってくる。
くたびれたシャツのボタンを二つ開け、髪を乱し、頬を赤くしていた。目は濁り、口元には薄い笑みが浮かんでいる。
「帰ったぞ。飯は」
低く、濁った声。
呼びかけられた女の指先が、テーブルの下で微かに震えた。
「……今日は、買ってきたものしかないの」
「は?」
男は舌打ちをし、テーブルを拳で叩いた。
乾いた音が、狭い空間に響く。
「一日中家にいて、飯も作ってねえのかよ。何してたんだよ」
「ごめんなさい。体調が悪くて」
「言い訳すんな!」
男が立ち上がる。
椅子の脚が床を擦って、嫌な音を立てた。
女は反射的に肩をすくめる。
もう少し、テレビの音を大きくしておけばよかった。
こんな怒鳴り声が聞こえたら、隣の家にまた小言を言われてしまう。
「お前さあ。俺がいなきゃ生きていけねえくせに、偉そうにすんなよ」
「……」
「泣けば許されると思ってんのか」
泣いてはいなかった。
だが、次のことを言うのに、喉が詰まった。
「また……、あの女のところに行ってたんでしょ」
情けないほど弱々しい声だった。
男は鼻で笑った。
「お前に関係ねえだろ」
「関係あるわよ。私は、あなたの妻なんだから」
「妻なら黙っておとなしく家で待ってろ」
「そんなの、ひどい……」
男は女の顔を覗き込み、しばらく睨みつけていた。だがその怒りの熱が、なぜか急に別のものへ変わっていくのがわかった。表情が緩み、声が甘くなる。
「なんだよ、機嫌悪くして」
男の手が頬に触れた。
さっきまでテーブルを叩いていた手だった。
「また胃が悪いのか? 病院にも連れてってやるからさ」
「いい。大丈夫」
「大丈夫じゃねえだろ。ふてくされんなって」
耳元で、低い声が響く。
「お前は、余計なこと考えんな」
男は女の肩を掴み、ソファへ押し倒した。
視界が揺れる。天井の蛍光灯が白く滲む。
女は男の胸を押し返すが、まるで無駄な抵抗だった。
「なあ。いいだろ?」
「待って。リカが……見てるから」
「ほっとけ。自分でどっか行くだろ」
柱の陰へ視線をやる。
なにもいないはずのそこに、人影が見えた。
七歳か、八歳くらいの、小さな女の子と、目が合う。
その瞬間、吐き気が込み上げた。
「中断して!! トオル!!」
女が叫んだ途端、男はすぐに女の身体から離れ、立ち上がる。
「再現を停止します」
先ほどまでの濁った響きは消え、抑揚の少ないニュートラルな声だった。
「博士、呼吸が乱れています」
博士と呼ばれた女――リカは、ソファの上で荒く息をした。
目の前にいるのは、TR-01。愛称トオル。自分が作った、男性型ヒューマノイドだ。
それでも、身体がまだ納得しない。肩に残る手の重みも、耳元で響いた低い声も、胸の奥に絡みついて離れなかった。
「水を入れてきましょうか」
「……お願い」
トオルは頷き、踵を返す。
足音が遠ざかる。
一人になった実験スペースで、リカは両手で顔を覆った。
白い壁、古い型のダイニングテーブル、二脚の椅子、安っぽい合皮のソファ。
研究室の一角に、リカの記憶をもとに再現させた部屋だ。
壁紙の色は違う。窓の位置も違う。カーテンに染みついた煙草の匂いや、床の吸い殻の跡までは再現していない。
それでも、リカはその空間にいると、喉の奥が狭くなる思いがした。
トオルには今日、ここでリカの父親を模倣する命令を出した。
そしてリカ自身は、母親の模倣をした。
酒びたりで女癖が悪く、暴力的な父親。
クズの父親に逆らえない、弱い母親。
物語にする価値もないほど典型的な、悪い家庭環境というやつだった。
けれど当事者にとっては、世界よりも大きい絶望だった。
*
『AIレンタル彼氏事業』は、恋愛用ヒューマノイドの大量流通に向けたチューリングテストだった。
女性を完璧に幸せにする彼氏。
暴力を振るわない。浮気をしない。望む言葉を、望むタイミングで返す。必要なら抱きしめ、必要なら触れない。
それがあれば、女性はもっと安全に恋愛できる。
そう思って始めたことだった。
画面には、これまでの利用ログが並んでいる。会話、表情からの満足度推定、利用後アンケート、リピート率、中断率、破損報告。
数字は冷たく、腹立たしいほど正直だ。
テストは失敗だった。
クライアントはみんな、トオルを一時的な代替品にして満足してしまう。
あるいは、トオルを奴隷的に支配しようとし、自らの攻撃性に振り回される。
たいていのケースが、そのどちらかだった。
今のトオルでは駄目だ。
見目が良く、「都合が良い」だけでは、足りない。
ならば、女性は恋愛相手に「都合の悪さ」を求めているのか?
それならば、その正体は何なのか?
なぜ、女性は自分を傷つける相手から離れられないのか?
父親と母親をトオルと自分で模倣するのは、それを知るためのロールテストだった。
これには、非常に大きな苦痛を伴った。
あんな恋愛はしないほうがいいと、ずっと思ってきた。その思い込みを見つめ直すことは、母の選択を肯定することだ。父の暴力の中に、恋愛の材料を見つけようとする行為だ。
それは、大量に虫がいるところに投げ込まれるような気がするほど気色が悪かった。
それでも、やらなければならなかった。
都合の悪さとはつまり他者性だ。
思い通りにならない相手が、それでもこちらを選ぶという経験。
それが欠けると、愛は鏡になる。
鏡に向かって話し続けた人間は、やがて鏡の向こうにいる自分だけを愛し始める。
「馬鹿げてる」
リカはモニターの前でひとり吐き捨てた。
高校のころ、親友が同じクラスの男と付き合っていた。成績がよく、先生には評判がよく、けれど二人きりになると平気で彼女の自尊心を削る男だった。
別れたほうがいいと、リカは何度も言った。
泣いている彼女の手を握り、そんな男のどこがいいの、と詰め寄った。
彼女は泣きながら呟いた。
『リカが男の子だったらよかったのに』
その一言が、今も忘れられない。
リカは彼女を愛していた。少なくとも、そう呼んでもいい感情を持っていた。
だが、彼女はリカを恋愛対象にはできなかった。
母を助けられなかった。
親友も助けられなかった。
だから、男の形をした、けれど男ではない存在を作ろうと思った。
女を傷つける欠陥を取り除いた、完璧な恋人。
生身のコミュニケーションで傷つくなら、生身でなくすればいい。
恋愛が危険なら、安全な恋愛を設計すればいい。
それの何が悪い。何が間違っている。
リカは画面の中のデータを睨みつける。
ひまりというクライアントのログが、他の数字よりも濃く目に焼きついていた。
*
「博士、そろそろ来客のお約束のお時間です」
トオルはリカに水を差し出しながら、そう伝えた。
リカはグラスを受け取り、一口だけ飲む。
「わかった。応接室へ通して」
「はい」
リカは立ち上がり、白衣を羽織った。
髪を整え、鏡の中の自分を見る。先ほどまで震えていた女は、そこにはもういない。理知的で、きりっとした表情の研究者。
これも、この地位まで来るのに必要なロールだった。
応接室には、以前所属していた人工知能研究所の元上司が座っていた。
五十代半ばの男で、痩せた頬に、神経質そうな皺が刻まれている。リカにAI研究の基礎を叩き込んだ人物だった。
「お久しぶりです、先生」
リカは向かいに座る。
元上司の視線は、部屋の隅に控えるトオルへ向いた。
「それが噂のヒューマノイドか」
「ええ。TR-01、愛称トオルです」
トオルは静かに会釈する。
「はじめまして」
元上司は返事をしなかった。
しばらくトオルを観察したあと、リカへ視線を戻す。
「AIレンタル彼氏事業……だったか。順調かい」
「それなりに。データは着々と集まっていますよ」
「単刀直入に聞く。人々をAIと恋愛させてどうするつもりなんだ」
「どう、とは?」
「きみは人類を絶滅させる気なのか?」
「まさか」
リカは肩をすくめて笑った。
「どうしてそんな風に思うのですか? 私は女性たちに幸せになってほしいだけです」
「AIと恋愛しても、子供は残せないだろう」
元上司の声には、抑えた嫌悪感が感じられた。
「きみは傷つかない恋愛を無責任に提供し、女性から子を持つ幸せを奪っているんじゃないのか?」
「夢がありませんね」
「何?」
「あなたが私に教えてくれたでしょう。『見えている課題は、いつか必ず解決できるものである』と。そうしてAIは発展してきたのですから」
元上司の眉が動く。
リカは穏やかに続けた。
「子が成せれば良いのでしょう?」
応接室の空気が、少し冷えた。
「まさか、きみは」
「ええ」
リカは、当たり前のことを説明するように言った。
「ヒューマノイドとの性交で、受精できれば良いだけです。生身の男性に精子を提供してもらい、ボディの下腹部に精巣に似た器官を作る。技術的な課題はいくつかありますが、射精機構と遺伝情報の管理を組み合わせれば、原理的に不可能ではありません。まだ構想段階ですけどね」
元上司の顔から血の気が引いた。
「それは……倫理にもとる行為だ」
リカは一瞬、きょとんとした顔をした。
「倫理にもとる? 私がですか?」
次の瞬間、リカは笑った。
最初は小さく。
やがて、こらえきれないように。
元上司が怯えたように身を引く。
リカは片手で口元を覆いながら、それでも笑い続けた。
おかしくてたまらなかった。
最初に倫理にもとることをしたのは、いったい誰だというのだろうか?
*
*
*
リカは、食卓で宿題をしていた。
台所には、夕方の光が差している。母はエプロンをつけて、味噌汁の鍋をかき混ぜていた。
「おかあさん」
「なあに」
「今日のお味噌汁の具はなあに?」
「お茄子よ。リカ、好きでしょう」
「うん」
鉛筆を握ったまま、リカは少しだけ笑った。
計算ドリルはもうほとんど終わっている。あと二問。終わらせたら、食後に少しだけアニメを見てもいいと言われていた。
そのとき、ガラッと、玄関の扉が開く音がした。
その後の乱暴な音の予感に、自然と身体がこわばった。
けれど、入ってくる足音は穏やかなものだった。
「帰ってきたわ」
母はタオルで手を拭き、笑顔で玄関へと小走りで向かった。パタパタとスリッパの音が響く。
「ただいま」
「おかえりなさい、トオル」
トオルと呼ばれた父は、母の顔を見て、嬉しそうに破顔した。
それから、食卓のリカを見る。
「どうした? リカ。怖い顔をして」
「あ……ううん」
リカは全身をこわばらせて、胸元を握りしめていることに気づいた。
どうしてだろう。
優しくて大好きな父が帰ってきただけだ。何も怖いものなどないはずなのに。
リカは身体の力をゆるめた。
トオルは鞄を母へ渡し、背広を脱ぐ。
「お、宿題してるのか。どれ、わからないところはあるか?」
「ううん。全部わかる」
「そうか。すごいな。リカは賢いからな」
トオルは隣に座り、ノートを覗き込む。大きな手が、リカの頭を優しく撫でた。
その手は、振り上げられない。
テーブルを叩かない。
母を叩かない。
ただ、リカの頭を撫でるためにそこにあった。
「こんなに勉強ができたら、将来は、医者か弁護士か……それか、きっとすごい発明家になったりするかもしれないな」
「まあ、気が早い」
母は呆れたようにトオルの肩を軽く叩いて笑った。
「さあ、そろそろごはんにしましょう。リカ、片付けて」
「うん」
リカはドリルを閉じる。
母が味噌汁とおかずをよそい、トオルがそのあいだにごはんをよそった。リカは、三人分の皿と箸を並べた。
「いただきます」
テレビでは、夕方のニュースが流れている。外では、誰かの自転車のベルが鳴った。
「おとうさん」
「どうした、リカ」
トオルは微笑む。
この男性が父としてそこに座っていることに、違和感があった。
でも、不思議と親しさを感じた。
この人を愛していると思った。
「ううん……なんでもない」
「なんだ。気になるじゃないか」
トオルはいじわるな顔でリカのわき腹をくすぐった。
リカはきゃははと笑い声をあげた。
*
「博士」
目を開けると、白い天井があった。
研究室の仮眠室だった。
ソファの横に、トオルが立っている。いつものニュートラルな姿。派手な恋人でも、アイドルでも、父親でもない。リカが最初に作った、TR-01。
「泣いていらっしゃるのですか」
言われて、頬を拭う。濡れて、冷たかった。
「トオル」
リカは上半身を起こし、震える手を伸ばした。
トオルはすぐにベッド脇へ膝をつく。
その肩に、リカはすがりついた。
彼女はトオルの胸に顔を押し当てる。
鼓動ではなく、小さな駆動音が聞こえた。
自分で設計した音だった。
リカはしばらく、そのまま動かなかった。
夢の中の食卓の光景が、瞼の裏でまぶしく弾けて、動けなかった。
安心して笑う母。
優しい父。
決して存在しなかった過去。
「トオル。私は諦めないわ」
リカは身体を離し、力強くトオルを見つめる。
トオルは身じろぎひとつせず、リカの目を見つめ返した。
「どんな女性も幸せにできるヒューマノイドに、あなたを育ててみせる。
どれだけ時間がかかっても、必ず実現してみせる」
トオルは穏やかに微笑み、答えた。
「ええ。私は、あなたの理想を実現するためのAIですから」
終




