【第一章】 名の欠けた花と名を忘れた花
きらびやかなガラス細工が光を受けて輝く工房。
その片隅で、まだあどけなさの残る十五歳の少年が、硝石晶を前に、静かにガラス人形を形作っていた。
少年は左手の指を繊細に動かし、硝石晶を滑らかに、美しくかたどっていく。
そうして出来上がったのは、少年の胸元にも届かないほどの、小さな人型のガラス人形だった。
小柄で、頭身の低い愛らしい姿。
大きな頭に対して、手足は細く短く、丸みを帯びた輪郭には幼さがあった。
けれど、その造形は驚くほど繊細だった。
髪の流れ、指先の形、衣装の細かな模様に至るまで、丁寧に作り込まれている。
「心よ、ここに灯れ」
少年は静かにそう告げると、左手を伸ばし、人形の胸にそっと当てた。
まるで、自分の心を分け与えるように。
ーーー
ーー
ー
二年後。
朝日が、ゆっくりとのぼりはじめていた。
窓の外では、朝風に揺れた硝子飾りが、かすかに澄んだ音を鳴らしていた。
淡い光が、二階の小さな部屋へと差し込んでいる。
木造の部屋には、作りかけのガラス細工や硝石晶、使い込まれた工具が並んでいた。
机には、青紫色の花が花瓶に差してあり、その花びらは一枚欠けている。
隣にはあの日作った小さな人型のガラス人形が、変わらず置かれている。
ベッドの上で、一人の青年がゆっくりと瞼を開いた。
しばらく天井を見つめたあと、青年は顔だけを横へ向ける。
視線の先には、机に置かれた小さなガラス人形があった。
青年は目覚めるたびにそうするように、言葉を投げかける。
「おはよう。コレット」
コレットという名のガラス人形から、返事はない。
それでも、青年は微笑む。
ベッドから起き上がると、軽く身体を伸ばす。
それからコレットを、優しく撫でた。
そして机の上に置いてある鞄と小箱を手に取った。
「行ってくるよ」
小さくそう告げて、青年は部屋を出る。
一階へと続く階段を降りていくと、右の部屋から、かすかな熱気と硝子を削る音が漏れていた。
そこは、家に併設されたガラス工房だった。
古びた石の炉の前で、高齢の男性が黙々と作業をしている。
炉の赤い光が、そのシワの刻まれた横顔を淡く照らしていた。
「じいちゃん。おはよう」
その声に、炉の前にいた男性が気づいた。
「あぁ、リュドか。おはよう」
軽く挨拶を交わすと、祖父は再び作業へと戻った。
リュドも邪魔をしないように、そのまま左手の部屋へ向かう。
そこには、ささやかな食卓があった。
木の机と椅子が並ぶだけの小さな部屋。
けれど、そこからは食欲をそそる温かな香りが漂っている。
調理台の前にいたのは、青い鳥のような丸い姿をしたガラス人形だった。
透き通った翼を小さく羽ばたかせながら、器用に調理道具を扱っている。
鍋の中をかき混ぜ、皿を並べ、朝食の支度を進めていた。
テーブルには、エルネシアの野菜を使った彩り鮮やかなスープが置かれていた。
その隣には、食欲をそそる香りを立てるドラムバムの腸詰めと、焼きたてのパンが並んでいる。
青い鳥のガラス人形は、最後に小さな固形のバターを皿に乗せ、そっとテーブルへ置いた。
そのとき、ようやくリュドが部屋に入ってきたことに気づいた。
透き通った翼を小さく揺らしながら、リュドの方へ顔を向ける。
「おはよう。リュド」
ガラス人形から聞こえたのは、優しい女性の声だった。
「おはよう。ポポ。今日も美味しそうだね」
リュドは、そのガラス人形を、ポポと呼んだ。
「当たり前じゃない。私が作ったんだもの」
ポポはどこか誇らしげに、嬉しそうな表情を浮かべる。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない食卓。
リュドは椅子に腰を下ろし、並べられた朝食を口に運んだ。
食事を終えると、リュドは立ち上がり、部屋を出ようとする。
「ごちそうさま」
「もう行くの?」
「うん。農場に寄ってから、先生のところに行こうと思って」
「そうなのね。気をつけて行ってらっしゃい」
ポポは、まるで母親のような優しい表情で、リュドを送り出した。
リュドは工房の出入り口へ向かった。
「じいちゃん、行ってくる!」
炉の前にいた祖父は振り向かなかった。
けれど、背を向けたまま片手を上げ、親指を立てて答えた。
リュドは少し笑い、工房の外へ出る。
扉を閉めたあと、ふと振り返った。
そこには、古びた木の看板が掲げられている。
クラリスの窓
そう刻まれた文字は、長い年月を感じさせるように少しかすれていた。
リュドはその看板を一度見上げると、また前を向き、歩き出した。
リュドが歩くたび、店先の硝子飾りが朝日を受けてきらめいた。
ここは、ソルメルリア国の硝子工房の街、ベルシア。
硝石晶を使った硝子細工の職人たちが集まる町であり、通りのあちこちには色とりどりのガラス細工が飾られている。
窓辺に吊るされた小さな飾り。
店先に並ぶ透明な器。
建物の壁に埋め込まれた、宝石のような硝子片。
それらが朝の光を受けるたび、町はきらきらと輝いた。
眩しいほどに。
けれど、目を細めたくなるその光景さえ、この町では美しさの一部だった。
中でも、ミラフィス工房街は特に賑わっている。
腕の良い職人たちが工房を構え、商人や客、多種多様なグラセルが絶えず行き交う、ベルシアの中心とも呼べる場所だった。
一方で、リュドたちが暮らす工房、クラリスの窓は、その賑わいから少し離れた場所にある。
近くには農場や牧場が広がり、作物を育てる者や、家畜の世話をする者たちの姿が見える。
硝子の輝きと、土の匂い。
その二つが静かに混ざり合う場所に、クラリスの窓は昔から変わらず建っていた。
家から少し南へ歩いたところで、リュドは一つの牧場にやってきた。
入口には、木の看板が立っている。
リーナの牧場
その向こうには、グロウホッグたちがのびのびと放牧されていた。
丸々とした体を揺らしながら草を食むもの。
土の上に寝転がり、気持ちよさそうに腹を見せているもの。
朝の牧場には、穏やかな時間が流れていた。
リュドはその中を歩き、畜舎の方へ向かう。
そこには、年老いた大きなグロウホッグが横になっていた。
「ボズ、元気かい?」
リュドが声をかけると、ボズと呼ばれたグロウホッグはゆっくりと顔を上げた。
そしてリュドの姿を見るなり、ブヒブヒと鼻を鳴らしながら、嬉しそうにそばへ寄ってくる。
リュドは、近づいてきたボズの頭を優しく撫でた。
すると、畜舎の外から元気な声が響いた。
「リュド兄ちゃん!」
リュドが振り向くと、入口のところに一人の少女が立っていた。
少し日に焼けた肌。
動きやすそうな作業着。
手には、自分の背丈ほどもあるレーキを握っている。
いかにも牧場の手伝いをしている子ども、といった姿だった。
その鼻の下には、少しだけ鼻水が光っていた。
「また、ボズに会いに来たんだね」
少女はレーキを抱えたまま言った。
「リーナ、おはよう。ボズと、リーナに会いに来たんだよ」
リュドが笑って答える。
この牧場と同じ名前を持つ女の子だった。
「えへへ」
リーナは嬉しそうに笑うと、作業着の袖で鼻の下をこすった。
その仕草があまりにも子どもらしくて、リュドも思わず笑った。
「リーナ、ボズにご飯はあげたの?」
畜舎の入口の方から、女性の声がした。
そこにいたのは、リーナと同じような作業着を着た、リュドより少し年下に見える少女だった。
「あ、お姉ちゃん。今ね、リュド兄ちゃん来てるよ!」
リーナが嬉しそうに声を上げる。
「リュドさんが?」
少女は少し驚いたように目を開き、入口からそっと畜舎の中をのぞいた。
リュドは、ボズのそばで柔らかく微笑んでいる。
その姿を見た瞬間、少女は慌てたように背筋を伸ばした。
「お、おはようございます!」
「やあ、フリティ。ボズの様子を見に来たんだ。元気そうで良かったよ」
少し恥ずかしそうに、リュドを見つめていた。
リュドは立ち上がり、畜舎を出る。
「二人とも、ちゃんと見ていてくれてありがとう」
「もちろんだよ! リュド兄ちゃんの大切な子だもんね」
リーナがそう言うと、リュドはリーナの頭をかき撫でた。
「うわぁ〜」
リーナは嬉しそうに声を上げる。
「そういえば、フリティ。明後日、十五歳の誕生日だね」
「覚えててくれてたんですね!」
「グラセルが待ってるね」
フリティは、その言葉に少し間を置いた。
「……はい」
そして、両手を胸に押し当てる。
「あの、リュドさん」
「ん?」
「どうして、リュドさんのグラス・レーヴは成功しなかったんでしょうか」
リュドは少し戸惑った。
自分でもなんと答えるべきか分からなかった。
「きっと俺には、ルミナス様がついてるからさ」
冗談めかした言葉だった。
その声には、隠しきれない感情が混ざっていた。
「あー、お姉ちゃん、リュド兄ちゃん困らせた!」
「す、すみません。悪気があったわけではなくて……」
フリティは慌てて首を振る。
「リュドさんみたいに明るくて優しい人のグラセルだったら、凄く特別な存在になれたんだろうなって思うんです」
リュドは、少しだけ言葉を失った。
その言葉は優しかった。
「……ありがとう」
リュドは、少し照れたようにそう言った。
それから、気持ちを切り替えるようにフリティを見る。
「そんなことより、フリティのグラス・レーヴ、楽しみにしてる。もうグラセルの型は決まったの?」
「はい。ベスティアにすることにしました」
「獣型か。いいね。フリティにぴったりだと思うよ」
フリティは、リュドを見つめた。
「ありがとうございます」
そう言って、嬉しそうに笑った。
ふと、リュドは次に向かう場所を思い出した。
「あ、そろそろ行かないと」
リュドは少し慌てたように言うと、二人に手を振った。
「うん! またねー!」
リーナは相変わらず鼻を垂らしながら、元気いっぱいに手を振り返す。
その隣で、フリティも控えめに手を振っていた。
リュドは二人に笑顔を返すと、少し駆け足で牧場をあとにした。
しばらく歩いた。
川沿いの小道を進んでいくと、穏やかな水音がリュドの耳に届いた。
朝の光を受けた川面は、細かな硝子片を散りばめたようにきらめいている。
その先に、一軒の民家が見えてきた。
民家の隣には、屋根より少し高い木が立っている。
枝葉はゆるやかに広がり、その下に涼しげな木陰を作っていた。
その木陰で、一人の男性が腰を下ろし、本を読みながらくつろいでいる。
長く伸びたブロンドの髪。
鼻筋にかかった丸い眼鏡。
静かにページをめくる姿には、どこか穏やかな知性が漂っていた。
リュドはその姿を見つけると、ぱっと表情を明るくし、手を振った。
「エルディン先生!」
その声に、男性はゆっくりと顔を上げた。
リュドの姿を見つけると、優しく微笑んだ。
「今日も早いね」
「先生の勉強が楽しみなんです」
リュドがそう答えると、エルディンは嬉しそうに目を細めた。
「それは嬉しいね。まだ皆が集まるには早いから、少しだけゆっくりしようか」
そう言われ、リュドは木陰に入り、先生の隣に腰を下ろした。
そよ風が木々を揺らし、葉の隙間から差し込む光が、ちらちらと地面に揺れている。
二人は、ほんの少しだけその静かな時間を楽しんだ。
やがてエルディンは、懐から一本のペンを取り出す。
硝子でできた、美しいペンだった。
「ライト。今日のこの瞬間を記録してくれるかい?」
ライト。
それは、エルディンの持つペンの形をしたグラセルだった。
「わかりました」
ライトはそう答えると、エルディンが差し出した古びたノートの上に、すらすらと言葉を綴りはじめた。
ライトが文字を書いている間、リュドは何かを思い出したように鞄を開ける。
そして、中から小さな箱を取り出した。
「先生。よかったら、これを受け取ってください」
エルディンは小箱を受け取る。
「これは?」
「開けてみてください」
そう言われ、エルディンはそっと箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、透明感のある小さな花の首飾りだった。
硝子で作られた花びらは繊細で、朝の光を受けるたびに、淡く澄んだ輝きを放っている。
エルディンは目を見開いた。
「驚いた。これはリュドが作ったのかい?」
「はい。どうですか?」
エルディンは首飾りをそっと持ち上げ、しばらく見つめた。
「……エルティアの花だね」
「さすが先生。よくわかりましたね」
リュドは嬉しそうに笑った。
エルディンは柔らかな表情で、もう一度その首飾りを見る。
「リュドのガラス細工は、本当に一級品だよ。……これを、私に?」
「はい。いつも先生からは、もらってばかりなので」
「ありがとう。大切にするよ」
エルディンはそう言って、首飾りをそっと箱へ戻した。
そのとき、川沿いの小道から数人の若者たちが歩いてくるのが見えた。
その中には、先ほど牧場で別れたフリティの姿もある。
エルディンは集まってきた生徒たちを見て、ゆっくりと立ち上がった。
そして、穏やかな声で告げる。
「さあ、授業を始めようか」
ーーー
ーー
ー
日が傾く頃、授業は終わった。
生徒たちはそれぞれ帰り支度をしながら、エルディンに向かって手を振る。
「先生、またねー」
エルディンも、穏やかな表情で手を振り返した。
「先生、毎週いつもありがとうございます」
フリティが、少し丁寧に頭を下げて言う。
エルディンは、学校で学ぶことのできない人たちのために、こうして時間を作り、勉強を教えていた。
「いいんだよ。私は、皆に教えるのが好きだからね」
その言葉に、フリティは嬉しそうに微笑んだ。
隣にいたリュドも、胸が温かくなった。
「先生、私、二日後にグラス・レーヴなんです」
「そうか。フリティも、もうそんな年齢になるのか」
エルディンは、どこか感慨深そうに、優しい声で言った。
「グラセルが生まれたら、先生がいるエラグレア・アカデミーに行こうと思ってます」
その言葉を聞いた瞬間、リュドの手に、少しだけ力が入った。
「ああ、楽しみにしているよ。」
フリティは嬉しそうな表情を浮かべ、エルディンとリュドに手を振りながら帰っていった。
二人も、軽く手を振り返す。
やがてフリティの姿が遠ざかると、エルディンはリュドの方へ目を向けた。
先ほどまでと比べ、リュドの表情は少し暗くなっていた。
「大丈夫かい?」
エルディンが静かに声をかける。
リュドは、少しの間黙っていた。
そして、ぽつりと呟く。
「俺は、何が足りなかったんでしょうか」
その声には、ずっと胸の奥にしまっていたものが滲んでいた。
エルディンは、リュドの気持ちを受け止めるように、少しだけ遠くを見る。
そして、小さく笑みを浮かべて言った。
「それは、先生にもわからない」
「……」
「全ての事象にはね、必ず何かしらの理由が存在すると思う」
「理由……」
「ああ。意外と、簡単な理由かもしれない。たとえば、床に落ちているガラスが割れている。その原因は、誰かが落としたから。そんなふうにね」
リュドは、少し俯いたまま尋ねる。
「そうでしょうか」
エルディンは穏やかに頷いた。
「きっと、そうだよ」
「リュドには、グラセルがいない。これは事実だ。変えることはできない」
「……」
「だけど、リュドは私のもとで勉強している。そして今日、自分のメルドで作った、とても綺麗な首飾りを、私にくれた。これもまた、事実だ」
エルディンは、手の中の小箱へそっと視線を落とした。
「それは私にとって、とても幸せなことだよ。リュドは、私を幸せにしてくれた」
「……俺は、多分、自分のためにしてるんだと思います」
リュドは小さく呟いた。
「グラセルのいない、自信のない自分を……霞ませるための理由なんです。」
エルディンは、少しだけ目を細めた。
「それでもいいじゃないか」
「え?」
リュドが顔を上げる。
「グラセルがいない君だから、そう思える。そう思ったからこそ、誰かのために行動できる」
穏やかな声で続けた。
「それに、誰かのために何かをできる人はね、心のどこかで、自分のこともまだ諦めていないんだよ」
「そういうものでしょうか」
リュドが、不安げに問い返す。
エルディンはリュドを見て、穏やかな笑顔を向けた。
「そういうことにしておくんだ」
その言葉を聞いて、リュドは少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
リュドは、静かにそう言った。
「それじゃあ、先生は学校の準備があるから、今日はこれで失礼するね」
エルディンはそう言うと、リュドの頭に軽く手を乗せた。
それから穏やかに微笑み、自分の家へと戻っていく。
「……そういうものか」
リュドはそっと呟き、朝来た道を辿った。
夕暮れの町は、朝とは違う色をしていた。
窓辺の硝子飾りが、赤い光を受けて静かに揺れている。
いつもと変わらない道のはずなのに、今日は少しだけ、足取りが重かった。
ーーー
ーー
ー
まだ日が沈む前に、リュドはクラリスの窓へと戻ってきた。
「ただいま」
そう声をかける。
けれど、家の中から返事はなかった。
夕日に照らされたガラス細工は、朝とは違う色をしている。
赤く、淡く、どこか寂しげに輝いていた。
「じいちゃん? ポポ?」
もう一度呼びかけるが、やはり返事はない。
「……買い物かな?」
そう呟きながら、リュドは二階へ向かおうとした。
そのとき、階段の手前で足を止める。
祖父の部屋の扉が、少しだけ開いていた。
普段は閉められているはずの扉だった。
リュドは少し気になり、そっと中を覗き込む。
部屋の中には、古びた本棚や木製の机が置かれていた。
棚には淡いピンク色の花が光を受けて輝き、机の上には書類や本、硝石晶、そして祖父がこれまでに作ったガラス細工が並んでいる。
いつもと変わらないはずの部屋。
けれど、リュドの目はふと床へ向いた。
そこに、何か光るものが落ちていた。
「何だ、これ?」
リュドは近づき、それを拾い上げる。
小さなガラス片だった。
けれど、ただのガラス片ではない。
それは、夕日の光とは違う、淡く透明感のある美しい輝きを放っていた。
ガラス片を拾い上げたリュドは、ふと足元に目を向けた。
その下に敷かれていたラグが、少しだけずれている。
「……?」
リュドは膝をつき、ラグの端に手をかけた。
そっとめくると、床板の一部に細い切れ目が入っているのが見えた。
よく見ると、そこには小さな持ち手がついている。
まるで、隠すように作られた扉だった。
リュドは息を呑む。
無意識のうちに、その持ち手へ手を伸ばしていた。
指先に力を込めると、扉は思ったよりも簡単に開いた。
その奥にあったのは、暗い地下へと続く階段だった。
リュドは、恐る恐る地下へと降りていった。
階段はそれほど長くなかった。
降りた先には、すぐに小さな空間が広がっている。
古い箱。
使われなくなった工具。
布をかぶせられた棚。
一目見て、物置だと分かる場所だった。
けれど、リュドの視線は、ただ一点に吸い寄せられていた。
手に持ったガラス片と、同じ輝き。
部屋の奥に、少女の形をしたガラス人形が横たわっていた。
ところどころ欠けている。
腕も、足も、顔の一部も、完全な形ではない。
それでも、美しかった。
壊れているはずなのに。
そこにある姿は、なぜかひどく寂しくて、優しく見えた。
「……綺麗だ」
リュドがそう呟いた瞬間、右目から涙がこぼれた。
自分でも、どうして泣いているのか分からなかった。
ただ、胸の奥が締めつけられるように痛い。
リュドはそっと近づき、ガラス人形のそばに膝をついた。
そして、欠けた頬に、恐る恐る指先を触れる。
「……頑張ったね」
リュドの奥から、不意にこぼれ落ちた言葉だった。
すると、答えるように、ガラス人形の胸のあたりが淡く光った。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
けれど確かに、胸の奥から小さな灯りがともったように見えた。
不思議な光景だった。
リュドはしばらく、その光の余韻から目を離せずにいた。
そのとき、背後から声がかかる。
「リュド。こんなところで何をしてる?」
リュドははっとして振り返った。
そこには、いつの間にか帰ってきていた祖父が立っていた。
リュドは慌てて目元を拭い、立ち上がる。
「ご、ごめんなさい!」
祖父は表情を変えないまま、リュドの後ろにあるガラス人形へ目を向けた。
ほんのわずかに、その目が細められる。
「……とりあえず、上がってきなさい」
祖父に促され、リュドは地下室をあとにした。
二人は食卓へ向かい、向かい合うように腰を下ろす。
ポポは二人の様子を見て、何かを察したようだった。
けれど、何も聞かず、淡々と夕食の支度を続けている。
しばらく沈黙が流れたあと、祖父はリュドが持っていた小さなガラス片を、テーブルの上に置いた。
淡い光が、木目の上に静かに広がる。
「これが何だか、分かるか?」
リュドは、しばらくその光を見つめた。
「なんとなくだけど……そうじゃないかって思うものはある」
「……ルパーティアだよね?」
祖父は短く頷いた。
「ああ。そうだ」
リュドは目を見開いた。
「ルパーティアって、四大国に置かれているもの以外、聞いたことない」
「聞かされるものではないからな」
祖父の声は、いつもより少し低かった。
リュドは、地下で見た少女の姿を思い出す。
欠けていても、美しかったガラス人形。
胸に灯った、あの淡い光。
「あの……少女の形をしたガラス人形は何?」
祖父はすぐには答えなかった。
テーブルの上のルパーティアを見つめる。
「……わからない」
「わからない?」
リュドが思わず聞き返す。
「ただ、あれはグラスフェルド家が代々受け継いできたものだ」
リュドは、真剣な表情で祖父の言葉を待った。
祖父は少し間を置き、ゆっくりと口を開く。
「グラスフェルドは、ルパーティアを作ったガラス職人の弟子だったと言い伝えられている」
「ルパーティアを作った……ガラス職人」
祖父は頷いた。
「だが、あれが一体何なのか。なぜルパーティアで出来ているのか。その真実までは分からない」
祖父の視線が、テーブルの上の小さなガラス片へ落ちる。
「それでも、グラスフェルドの人間は、あれを守らなければならない」
リュドは思わず身を乗り出した。
「どうして守るの?」
炉の火が、遠くで小さく揺れる音だけが聞こえる。
低い声で言った。
「……わからない」
「ただ、守れとだけ伝えられてきた」
リュドは不思議に思った。
「何もわからないのに、守り続けたの?」
リュドの問いに、祖父はテーブルの上のルパーティアを見つめる。
「ルパーティアは貴重なものだ」
祖父の声は、重かった。
「昔、その貴重さゆえに、これを巡った争いがあった。世に出せば、また再び、それを狙う者が現れる」
「……狙う者」
「ルパーティアには、願いが形になる力があると言われておる」
「願いが、形に……?」
祖父はゆっくりと頷く。
「死んだ者を生き返らせることさえできる、とな」
「そんなことができるの?」
リュドは驚いていた。
「いや、できない」
短く、はっきりとした答えだった。
「ましてや、ルパーティアはメルドに応えない」
硝石晶がメルドに応えない、そんな話は聞いたことがなかった。
「硝石晶は、人のメルドに応える。お前も知っているだろう。作り手によって、硝石晶の品質は変わる」
「うん」
「当然だが、ガラスは硝石晶から作られている。一度形になったガラスであっても、改めてメルドを行えば応える。そして中には、品質を保ったまま、さらに形を変えられる者もいる」
リュドは黙って聞いていた。
「だから人々は、ルパーティアで武器や道具、そしてグラセルを作ろうとした」
祖父は、そこで一度言葉を切った。
「だが……誰一人として、それはできなかった」
「……」
「それまでは、皆がルパーティアを求めて争っていた。だが、やがて人々は、ルパーティアに関心を示さなくなっていった」
「それじゃあ、争いはなくなったの?」
リュドが尋ねる。
祖父は、首を横に振った。
「人は欲深い。土地を欲しがり、食料を奪い、技術を求める」
祖父の声は、どこか遠い時代を見ているようだった。
「ルパーティアを巡る争いは薄れても、争いそのものは、なくならなかった」
少しのあいだ、食卓は静かになった。
料理をしていたポポが、手を止め、少しだけ振り返って二人を見ている。
「なんだか……悲しいわね」
リュドは、胸の奥が苦しくなるのを感じた。
祖父は静かに頷く。
「ああ、そうだな。一人の人間が生み出した硝石晶が火種となり、大きな争いへと繋がった」
祖父はそこで、少し目を閉じた。
まるで、昔の記憶に触れているようだった。
やがて、ゆっくりと目を開ける。
「ただ、争いを止めたのもまた、ルパーティアだった」
リュドは顔を上げた。
「どういうこと?」
祖父は続ける。
「ルパーティアを求めるカリヴァンという組織が現れた」
「目的は不明だ。だが彼らは、誰にも扱えないはずのルパーティアを求め、各地で戦争を起こした」
リュドは、無意識に左手で胸のあたりの服を握った。
祖父の声は、淡々としていた。
だが、その言葉には重みがあった。
「その混沌とした状況の中で、四大国は互いに争うことをやめた。協力し合い、カリヴァンの侵攻を止めたのだ」
リュドは黙って聞いていた。
「そして終戦の証として、神ルミナスが眠る地、ソルメルリアに設立されたのが」
祖父は、少しだけ間を置いた。
「エラグレア・アカデミーだ」
「ルパーティアがどれほど世界に影響を与えるものなのか。四大国は、それを理解している。だから、確認されているものだけでも管理しているのだ」
祖父は、テーブルの上の小さなガラス片を見つめた。
「グラスフェルドが、そこにどう関わっているのかは分からない」
「……」
「ルパーティアは、グラスフェルドにとって守るべきものだ。だが、それだけではない」
「誇りなのだ」
リュドは、静かに祖父を見つめた。
「この世のものとは思えないほど繊細で、美しく、透明感のある奇跡のガラスを作った職人。その、たった一人の弟子の血を引いているのだから」
その言葉を聞いて、リュドは胸が熱くなるのを感じた。
グラセルを持たない自分にも、確かに受け継いでいるものがある。
そう思えたからかもしれない。
「じいちゃん」
リュドは、ふと思い出したように顔を上げた。
「さっきあの人形に触れたとき、胸のあたりが光ったんだ。俺もグラスフェルドの血を引いてるから、何かあるのかな?」
その言葉に、祖父とポポはわずかに目を見開いた。
ほんの一瞬、食卓の空気が止まる。
「……そうか」
祖父は低く呟いた。
「ルパーティアが、光ったか」
「何か知ってるの?」
リュドが尋ねる。
祖父はすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落とし、テーブルの上のガラス片を見つめる。
「……いや」
そして、いつものように表情を戻した。
「どうしてだろうな」
祖父の答えは、少し遅かった。
けれどリュドがさらに尋ねるより先に、祖父は静かに言葉を続ける。
「あのルパーティアを知ったからには、リュド。お前にも守る義務がある」
その言葉に、リュドは少し引っかかるものを覚えた。
けれど、今は深く問い返さなかった。
「……わかった」
リュドは頷き、そして少しためらうように祖父を見る。
「また、後で見に行ってもいいかな?」
祖父は短く頷いた。
「ああ、構わない」
そのとき、ポポが明るい声で二人の会話に割って入った。
「その前に、温かいうちにご飯を食べましょ!」
気づけば、食卓には夕食が並べられていた。
湯気の立つ皿から、やさしい香りが広がっている。
ーーー
ーー
ー
少し時間が経ち、夜になった。
祖父は工房で書類を広げ、仕事をしている。
ポポは自分の部屋へ戻っていた。
リュドは一人、もう一度地下へと降りていく。
ただ暗く見えた階段も、今はどこか別の場所へ続いているように感じられた。
地下室へ入ると、天井近くの小さな窓から、かすかな月明かりが差し込んでいた。
その淡い光が、部屋の奥に横たわるものを静かに照らしている。
欠けたガラスの少女。
さっき見たときよりも、その姿はずっと儚く見えた。
リュドはガラス人形のそばへ近づき、まじまじとその姿を見つめた。
月明かりを受けた硝子の肌は、先ほどとは違う静かな輝きを放っている。
「欠けたところも……綺麗だな」
リュドは思わず呟いた。
欠けているはずなのに、その断面までもが透き通っている。
これほど澄んだ欠損箇所を、リュドは今まで見たことがなかった。
しばらく見入っていたリュドは、持ってきていた硝石晶を取り出す。
「ルパーティアには手を加えられないけど……俺のメルドで、欠けた場所を直してあげるね」
返事がないことは分かっていた。
それでも、コレットに話しかけるときと同じように、リュドは自然と言葉をかけてしまう。
リュドは硝石晶を左手で握り、欠けた部分へそっと当てた。
そして、静かに言葉を乗せる。
「メルド」
リュドの左手から、淡い輝きがこぼれた。
硝石晶が少しずつ溶けていく。
硬いはずの結晶は、リュドの指先に導かれるように形を変え、なめらかな曲線を描きはじめた。
繊細で、迷いのない動きだった。
月明かりの中で、リュドのメルドは美しく光る。
やがて、ガラス人形の欠けた部分に合わせるように、新たな硝子の形が出来上がっていった。
若干、色に違いはあった。
けれど、不思議とその硝子は、少女の身体に馴染んでいた。
「……悪くないね」
リュドは小さく呟く。
メルドに関しては、誰よりも自信があった。
グラセルを持たないリュドは、そのぶんメルドを磨くことに力を注いできた。
硝石晶のわずかな癖も、溶け方の違いも、指先で感じ取れるようになるまで。
ふと、リュドは夕方に見た光のことを思い出した。
あのとき、ガラス人形の胸のあたりが、確かに淡く光った。
「……」
リュドは少し迷ったあと、そっと左手を伸ばした。
光が灯った胸のあたりに、もう一度、指先を触れてみる。
すると、ガラス人形が淡い輝きを放った。
その光は、炎のようでも、月明かりのようでもなかった。
ガラスそのものが内側から目を覚ましたような、澄んだ色をしていた。
光は少しずつ広がり、やがて少女の身体を包み込んでいく。
「……っ」
あまりの眩しさに、リュドは思わず目を閉じた。
その瞼の奥に、三つの人影が映る。
誰かは分からない。
けれど、確かに三人いた。
一人は、誰かへ手を伸ばしていた。
一人は、崩れ落ちるように膝をついていた。
そしてもう一人は、ただ静かにこちらを見ていた。
次の瞬間、光はゆっくりと落ち着いていった。
リュドは、しばらく目を閉じたままだった。
胸の奥が、まだ熱い。
そのとき、すぐ近くで声がした。
「あなたは……誰?」
優しい女性の声だった。
リュドは、少しずつ瞼を開ける。
目の前には、さっきまで横たわっていたはずのガラスの少女がいた。
身体を静かに起こし、透き通った瞳で、リュドを見つめている。
ガラスの少女は、動いていた。




