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《完結》天啓妃のひもの日記 〜美味しいご飯のためなら、チートも無駄づかいします〜  作者: ひより那


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第8話 忘憂の占者と結びつく音

 後宮の妃嬪に割り当てられる雑務には、宮廷内で使用される物品の保守・点検も含まれる。

 本日の静嬪・翠の担当は、雅楽寮ががくりょうに保管されている『弦楽器の清掃と弦の張り替え』であった。


 胡弓や二胡にこといった楽器は、繊細な手入れを必要とする。他の妃たちは「松脂まつやにの粉で袖が汚れる」「弦を張るのに爪が傷つく」と不平を漏らし、作業を宦官に押し付けようと牽制し合っていた。

 その騒がしい一角から少し離れた風通しの良い窓際で、翠は一言も発することなく、流れるような手つきで二胡の胴を磨き上げていた。古くなった弦を素早く外し、新しい弦を適切な張力で張り直す。一切の無駄がなく、他の誰の視界にも入らない。部屋に置かれた古びた楽器の山と完全に同化する、見事な『空気』としての所作である。


「よし。今日の仕事オン、終了」


 翠は誰よりも早く割り当てられた十丁の楽器の修繕を完璧に終わらせると、監督役の楽師に無言で目録を提出した。楽師がその丁寧な仕事ぶりに感嘆の吐息を漏らした時には、翠の姿はすでに足音一つなくその場から消え去っていた。


 自らの庵である忘憂亭ぼうゆうていの縁側に戻ると、翠は衣の帯を緩め、敷いておいたござの上へ倒れ込んだ。ここからは、いっさいの社会的義務から解放される咸魚の神聖な時間である。


「……埃っぽい楽器を触ったから、ツルンとしていて喉越しの良い、甘くて冷たいものが食べたいわね。上質なあんずの種から絞った汁と、たっぷりの牛乳を寒天で固めた……本物の杏仁豆腐あんにんどうふが食べたいわ」


 市井の安食堂で出されるような、香料だけを誤魔化して入れた偽物ではない。宮廷の厨房で作られる、絹のようになめらかで、クコの実の赤色が映える極上の杏仁豆腐だ。

 翠が空に向かって欲望のメニューを呟いていた、その時だった。

 庭の木戸が音もなく開き、不吉な紫色の衣が視界の端に揺れた。内務調査局の長、司馬淵しばえんである。


「……相変わらず、泥のように転がっているな、占者」

「これは淵様。いつも私の休憩時間を正確に狙い撃ちにしていただき、恐悦至極に存じます。本日はどなたが呪われていますか?」

「察しが良くて助かる。厄介事だ」


 淵はござの端に立ち、冷たい声で告げた。


麗妃れいひだ。前に、何者かの手によって食事に毒を盛られた妃だが……記憶にあるか?」

「ええ。幸いにも一命を取り留めたと伺っております」

「ああ。毒の後遺症はすでにない。だが、厄介な『呪い』が残った。彼女は今、二胡の音色を聞くと、発作のように呼吸を乱して気絶してしまうのだ」

「二胡の音色、ですか」

「そうだ。普段は問題なく生活しているのだが、どこからか二胡の音が聞こえた瞬間、錯乱状態に陥る。……近々、他国からの使者を招いた重要な宴があり、麗妃も同席しなければならない。しかしその宴では、使者側から同行した高名な二胡の奏者が演奏を披露することになっているのだ。外賓の前で妃が発狂するなど、到底許されることではない」


 毒殺未遂の被害者が抱えた、特定の音に対する奇妙な恐怖症。普通に考えれば手に負えない難題だが、翠は居住まいを正し、スッと手を差し出した。


「お任せください、淵様。ただちに呪いを祓ってご覧に入れます。……ところで、今回の報酬は『極上の杏仁豆腐』で手を打ちたいのですが」

「……治せば、特大の鉢に山盛りにして持たせてやる」

「商談成立です」


 翠はすぐさま亀甲と木札を卓に並べた。

 カラン、と木札を弾く。天からの啓示が、翠の脳裏にこの症状の絶対的な真実を叩き込んだ。


(……なるほど。呪いでも狐憑きでもない。彼女が毒を盛られ、喉をかきむしって倒れたあの宴の最中、楽師が演奏していたのが『二胡』だったのね。解決策は……『極上のリラックス状態と、恐怖の対象を少しずつ結びつけ直すこと』!)


 翠の思考空間に、前世の心理学の知識が展開される。

 ロシアの生理学者イワン・パブロフが犬の実験で発見した『古典的条件づけ』である。

 本来、二胡の音色(条件刺激)は、恐怖とは何の関係もない中立なものだ。しかし、猛烈な苦痛と死の恐怖(無条件刺激)を味わったその瞬間、同時に二胡の音が鳴り響いていたことで、麗妃の脳は「二胡の音=死の恐怖」という誤った結びつき(条件反射)を学習してしまったのである。


 この恐怖の条件づけを解除するには、「大丈夫だ」と理屈で説得しても無意味だ。脳の扁桃体が自動的にパニックの信号を出してしまうからだ。

 必要なのは、南アフリカの精神科医ジョセフ・ウォルピが開発した『系統的脱感作法』というアプローチである。

 人間は「極度にリラックスしている状態」と「不安・恐怖」を同時に感じることはできない(拮抗条件づけ)。これを利用し、まずは最高のリラックス状態を作り出し、そこに「ごく弱い恐怖(遠くからの音)」をぶつける。リラックスが恐怖に勝てば、脳は「この音は安全だ」と少しずつ学習を上書きしていくのだ。


「……淵様、星は真実を告げております。麗妃様は『死の淵の記憶』と『二胡の音』が魂の中で絡み合ってしまっている状態です」


 翠は立ち上がり、淵を見据えた。


「これを解きほぐすための儀式を行います。……淵様、麗妃様を人気のない静かな茶室へお連れください。そして、淵様の部下の中で最も二胡の演奏が上手い者を一人、茶室の『ずっと遠く』に待機させてください」


 二時間後。後宮の奥深くにある静寂に包まれた茶室。上座には、顔をこわばらせた麗妃が座っていた。淵は部屋の隅で腕を組み、静かに立っている。


「麗妃様、ごきげんよう。静嬪の翠と申します」


 翠は穏やかな笑みを浮かべ、麗妃の前に極上の品を並べた。

 心を落ち着かせる効能がある高価な『安神茶あんじんちゃ』。そして、口に入れると雪のように溶ける甘い落雁らくがんである。


「儀式の前に、まずはこのお茶とお菓子で、魂の強張りを解きほぐしましょう」


 麗妃は戸惑いながらも、勧められるままにお茶を含んだ。温かい香りが鼻腔を抜け、甘い落雁が口の中でとろける。後宮の喧騒から離れた静かな空間と、極上の茶菓子の効果で、麗妃の肩からふっと力が抜け、呼吸が深くなった。完全なリラックス状態。


「……では、儀式を始めます」


 翠は窓の外へ向け、そっと手を挙げた。

 それを合図に、茶室から遠く離れた庭の端で、淵の部下がそっと二胡の弦を弾いた。


 ――キィィン……。


 風に乗って、かすかに、本当に微かに二胡の音が聞こえた。

 その瞬間、麗妃の体がビクッと震え、顔色が変わった。条件反射の恐怖が顔を出しそうになる。


「麗妃様、大丈夫です。お茶の香りに集中してください」


 翠はすかさず、温かい安神茶を麗妃の口元に運んだ。


「……っ」

「甘いお菓子が、あなたを守っています。音は遠く、あなたに触れることはありません」


 麗妃は震えながらお茶を飲み込んだ。遠くの微かな音による「小さな恐怖」よりも、目の前の温かいお茶と甘味がもたらす「強いリラックス」が勝った。

 十分後。麗妃は遠くの二胡の音を聞きながらでも、普通にお菓子を食べられるようになっていた。


(よし、第一段階クリア。次は刺激を少しだけ強くする)


 翠は再び合図を送った。二胡の奏者が、庭の半分ほどの距離まで近づいて演奏を始める。

 音が少し大きくなる。麗妃は再び体を強張らせたが、翠は慌てず、今度はさらに上等な甘味を提供し、彼女の意識を「味覚」と「安全な空間」へと誘導し続けた。


 リラックス状態を維持したまま、少しずつ、少しずつ恐怖の対象を近づけていく。

 脳が「二胡の音が聞こえても、毒の苦しみは来ない。むしろ美味しいお茶が飲める安全な時間だ」と新しく条件づけを上書きしていく。


 そして一時間後。二胡の奏者は、茶室のすぐ外の縁側で、朗々とした美しい曲を演奏していた。

 麗妃はもう震えていなかった。彼女は静かにお茶を啜りながら、美しい二胡の音色に目を閉じ、涙を流していた。


「……私、もう大丈夫です。あんなに恐ろしかった音が、今はただ、美しい音楽として聞こえます……」


 麗妃の呪い(恐怖の条件づけ)が完全に解除された瞬間だった。

 一部始終を見ていた淵は、信じられないものを見るような目で翠を見つめていた。刃も薬も使わず、ただお茶を飲ませながら音の距離を変えただけで、御典医にも治せなかった心の傷を治してしまったのだ。


「……見事な星読みでございました」


 翠が恭しく頭を下げると、麗妃は何度も礼を言い、清々しい顔で茶室を後にした。


 その日の夕刻。忘憂亭の縁側に、淵との約束の品が届けられた。

 氷で満たされた大きな白磁の鉢。その中には、真っ白で艶やかな『杏仁豆腐』がたっぷりと盛られ、鮮やかな赤いクコの実と、黄金色のキンモクセイのシロップがかけられていた。


「……っっ!」


 木匙ですくい、口に運ぶ。

 本物の杏の種から絞り出された芳醇な香りが鼻を抜け、牛乳の濃厚なコクと共に、絹のような豆腐が舌の上でつるんと溶けて消えた。シロップの優しい甘さが、疲れた脳を完璧に癒していく。


「……最高。系統的脱感作法、バンザイ」


 他人のトラウマ治療に付き合うのは神経を使うが、この極上の甘味が得られるのなら、心理職としての知識も無駄ではない。

 翠は誰の視線も気にすることなく、鉢を抱え込み、ただひたすらに至高の咸魚ライフを貪り食うのだった。


=========


■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【古典的条件づけと系統的脱感作法】


 異国の賢人、イワン・パブロフは、犬に餌(無条件刺激)を与える前にベルの音(中立刺激)を鳴らすことを繰り返すと、やがてベルの音を聞いただけで唾液(条件反射)を分泌するようになることを発見した。これを『古典的条件づけ(レスポンデント条件づけ)』と呼ぶ。

 人間の恐怖症やトラウマの多くも、この原理で説明できる。本来は無害なもの(音、場所、匂いなど)が、強烈な恐怖や苦痛と同時に提示されたことで、脳が誤った結びつきを学習してしまうのである。


系統的脱感作法けいとうてきだつかんさほう

 精神科医ジョセフ・ウォルピが開発した、恐怖症を克服するための行動療法。

 ① 対象者に、筋肉の弛緩などを用いて「深くリラックスした状態」を作らせる。

 ② 恐怖を感じる対象を、最も弱いレベル(遠くの音、写真など)から、最も強いレベル(実物に触れるなど)まで、段階的な階層表(不安階層表)にする。

 ③ リラックスした状態を保ったまま、最も弱いレベルの恐怖刺激を提示する。

 ④ 不安を感じずにいられたら、次の段階へと少しずつ刺激を強めていく。


 人間は「リラックス」と「強い不安」を同時に経験できない(拮抗条件づけ)という性質を利用し、段階的に恐怖の条件づけを消去(上書き)していく、極めて論理的で効果的な治療法である。


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