第7話 忘憂の占者と書き換えられた真実
後宮の妃嬪たちには、華やかな行事だけでなく、己の身の丈に合った裏方の雑務が定期的に割り振られる。
本日の静嬪・翠に課せられたのは、後宮の外周を繋ぐ長い回廊に吊るされた『長提灯の点検と煤払い』であった。
他の妃たちが「高いところに手を伸ばせば腕が痛む」「埃で衣が汚れる」と文句を並べ、下働きの宦官に作業を押し付けて雑談に興じている中、翠は一言も発することなく黙々と作業を進めていた。
持ち込んだ竹の箒で丁寧に、かつ無駄な力を一切使わずに煤を落とし、破れや油の漏れがないかを素早く確認していく。誰の邪魔もせず、他の妃の視界にも入らない。回廊の柱と完全に同化する、見事な『空気』としての所作である。
「よし。今日の仕事、終了」
翠は誰よりも早く自分の担当区画を完璧に終わらせると、監督役の女官に木簡を提出した。女官が確認の朱印を押したのを見届けるや否や、翠は足音一つ立てずにその場から姿を消した。
自らの庵である忘憂亭の縁側に戻り、薄手のござの上へ倒れ込む。ここからは、誰にも邪魔されない咸魚の神聖な時間である。
「……埃っぽい空気を吸ったせいか、無性に味が濃くてドロッとしたものが食べたいわね。骨の髄まで煮込まれて白濁した、熱々の鶏白湯麺なんて最高だわ」
翠が極上の麺をすすり上げる妄想に耽っていた、その時だった。
突如として庭の木戸が乱暴に蹴り開けられ、武装した宦官たちが数人、雪崩れ込んできたのである。
「静嬪! 大逆の罪により捕縛する!」
「……はい?」
抵抗する間もなく両脇を抱えられた翠は、そのまま後宮の地下にある冷たく薄暗い石造りの牢獄へと連行され、鉄格子の向こうへ放り込まれた。
「……解せぬ」
石の床で膝を抱えていた翠の前に、やがて不吉な紫色の衣が翻った。内務調査局の長、司馬淵である。
「ずいぶんとくつろいでいるな、大罪人」
「淵様。この劣悪な住環境に関する苦情はどこに申し立てればよろしいですか。それと、私は無実です。そもそも何の罪ですか」
「皇帝陛下の書斎に忍び込み、御愛蔵品である『瑠璃光の竜瓶』を叩き割った罪だ」
「……私が、皇帝の書斎なんぞという面倒の極みみたいな場所に行くわけがないでしょう」
「分かっている。貴様のような怠惰の塊が、己の庵からわざわざ皇帝の書斎まで足を運ぶはずがないからな」
淵はあっさりと翠の無実を肯定した。
「ならば、なぜ私をここに?」
「目撃者がいるのだ。書斎の掃除を担当していた明梅という実直な下級女官が、『忘憂亭の静嬪が瓶を割り、逃げていくのを見た』と涙ながらに証言している。彼女は嘘をつくような性質ではない」
「つまり……誰かが私に罪をなすりつけ、その女官を騙していると?」
「そういうことだ。だが、明梅の証言は極めて強固で、一切の迷いがない。無実の娘を拷問で痛めつけて自白を覆させるのは、私の内務調査局のやり方ではない。……明日の尋問で、貴様自身の口と星読みで、この矛盾を論理的に打ち崩せ」
淵は鉄格子の隙間から、翠の商売道具である亀甲と木札を放り投げた。
「見事嫌疑を晴らした暁には、貴様が先ほどから呟いていた『鶏白湯麺』とやらを、宮廷一の料理人に作らせてやる」
「……言質は取りましたよ」
翠の目に、凄まじい執念の炎が宿った。
石の床に木札を並べ、カランと弾く。天からの絶対的な啓示が、翠の脳裏にこの事件の隠された真実を叩き込んだ。
(……真犯人は、書斎を管理する筆頭宦官の郭。彼が掃除中に誤って竜瓶を割り、その直後に入ってきた明梅に対して『事後情報』を植え付けたのだ。解決策は……『明梅の記憶が後から書き換えられた虚偽記憶であると、公開尋問で証明すること』!)
天啓の導きにより、翠の思考空間に前世の認知心理学の知識が展開される。
アメリカの認知心理学者、エリザベス・ロフタスが提唱した『事後情報効果』、すなわち『虚偽記憶』のメカニズムだ。
一般的に、人間の記憶は「起きたことを正確に記録する水鏡」のようなものだと勘違いされがちだ。しかし実際の記憶は、思い出す(想起する)たびに脳内で情報を再構築している、非常に脆く曖昧な代物である。
出来事を経験した後(事後)に、「あの時、〇〇が逃げたよね?」と嘘の情報を与えられると、脳はその情報を勝手に取り込み、「確かに〇〇を見た」という『偽物の記憶』を完成させてしまう。本人は決して嘘をついているわけではなく、本気で「そう見た」と思い込んでいるため、嘘発見器すら通用しない。
真犯人の郭は、瓶を割った直後に明梅を見つけ、「お前も見たか! 今、忘憂亭の占者が瓶を割って逃げていったのを!」と強い口調で問い詰めたのだろう。パニック状態だった明梅の脳は、権威ある筆頭宦官の『事後情報』をそのまま取り込み、見てもいない翠の姿を記憶に捏造してしまったのだ。
「……淵様、星は真実を告げております。明日の尋問、私に少しだけ意地悪な質問をさせてください」
翌日。内務調査局の尋問室。
上座に司馬淵が座り、翠は罪人として引き出されていた。そして証言台には、震える下級女官の明梅と、彼女を庇うように立つ筆頭宦官の郭がいた。
「間違いありません。私は昨日、この静嬪様が竜瓶を割って逃げるのを、確かにこの目で見ました……っ」
明梅は翠を指差し、涙ながらに訴えた。その目に嘘はない。本気でそう記憶しているのだ。
郭は悲痛な顔を作って淵に頭を下げた。
「淵様。この実直な娘が嘘をつくはずがありません。どうか、この恐ろしい魔女に厳罰を」
「……静嬪、何か申し開きはあるか」
淵の合図を受け、翠はゆっくりと立ち上がった。
「明梅殿。あなたが嘘をついていないことは、星の巡りが証明しております」
「え……?」
「しかし、人間の『記憶』というものは、水に映る月のように脆く、容易に形を変えるものなのです。……明梅殿。昨日、あなたがこの冷たい尋問室へ連行されてきた時のことを思い出してください」
翠は静かで、暗示にかけるような声色を使った。
「昨日、あなたはひどく怯えていましたね。そして、この部屋の入り口の敷居を跨ぐ際、足元にあった『赤い絨毯』に足を取られ、転びそうになったはずです。……違いますか?」
「あっ……」
明梅の目が宙を泳ぎ、昨日の記憶を必死に探る。
翠の「転びそうになったはずだ」という強い誘導(事後情報)が、彼女の曖昧な記憶の隙間に入り込む。
「は、はい……。確かに昨日、入り口の赤い絨毯で、少しつまづいて……案内してくれた宦官様に助けられました」
「間違いないですね?」
「はい、覚えています……」
その言葉を聞いた瞬間、翠はニヤリと笑い、淵を振り返った。
「淵様。この尋問室の入り口に、赤い絨毯が敷かれたことは過去一度でもありますか?」
「……馬鹿なことを言うな。ここは血と泥に塗れる尋問室だ。敷かれているのは冷たい石板だけだ」
「なっ……!?」
明梅が弾かれたように顔を上げ、入り口の床を見た。そこには赤い絨毯など存在せず、ただの灰色の石板があるだけだった。
「どういうことだ、静嬪! 言葉遊びでこの娘を惑わす気か!」
郭が声を荒らげるが、翠は冷ややかに彼を一瞥した。
「言葉遊びではありません。『記憶の証明』です。……明梅殿は今、私が与えた『赤い絨毯で転んだ』という嘘の情報を、自分の本物の記憶だと思い込みました。人間は、パニック状態や強い不安の中にある時、後から与えられた情報を『自分の記憶』として勝手に書き換えてしまう生き物なのです」
翠は一歩、郭へと歩み寄った。
「明梅殿が竜瓶が割れる音を聞いた時、現場にいたのは郭殿、あなたでしたね。あなたは怯える彼女に対し、『占者が逃げるのを見たな!』と何度も強く問い詰めた。……彼女の脳は、あなたという権威者の言葉によって、見てもいない私の姿を記憶に『捏造』させられたのです」
「で、でたらめだ! 証拠がどこにある!」
「証拠なら、星が示しておりますよ。……竜瓶は非常に鋭利な割れ方をします。割った真犯人の『右手の人差し指と親指の間』には、必ず深い切り傷があるはずだと」
その瞬間、郭がビクッと右手を背後に隠した。
淵が顎をしゃくると、部下の宦官たちが即座に郭を取り押さえ、その右手を強引に開かせた。
包帯が巻かれた右手。それを剥ぎ取ると、竜瓶の破片による新しい、そして深い切り傷が露わになった。
「……勝負あり、ですね」
翠が微笑むと同時に、郭は膝から崩れ落ち、がっくりと首を垂れた。
明梅は自分の記憶が真実ではなかったことに気づき、顔面を蒼白にして震えていたが、翠は彼女に優しく告げた。
「あなたは悪くありません。人間の心とは、そういう風にできているのです。自分を責めないでくださいね」
その日の夕刻。忘憂亭の縁側。翠の目の前には、白磁の大きな丼が置かれていた。
中には、骨の髄まで煮込まれ、黄金色に輝く濃厚な鶏白湯スープ。艶やかな細麺の上には、とろけるような鶏肉の叉焼と、鮮やかな緑色の葱がたっぷりと乗せられている。
「……私の記憶にある前世の味より、はるかに美しいわ」
翠はれんげでスープをすくい、口へ運んだ。
圧倒的な鶏の旨味と、唇にまとわりつく濃厚なコラーゲン。塩気と脂の完璧な調和が、牢獄で冷え切った体を芯から温めていく。
麺を啜り、肉を噛み締める。
他人の記憶は不確かで簡単に書き換えられてしまうが、この極上の味覚がもたらす幸福の記憶だけは、絶対に色褪せることはない。
「……事後情報効果、恐るべし。でも、鶏白湯はもっと最高」
翠は丼の底の一滴までスープを飲み干し、深く、深く満足の息を吐き出すのだった。
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■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【記憶のプロセスと虚偽記憶】
異国の学問において、人間の「記憶」は以下の三つのプロセスで成り立っているとされる。
記銘:新しい経験や情報を、記憶として頭の中に覚え込むこと(符号化)。
保持:記銘した情報を、頭の中に留めて保存しておくこと(貯蔵)。
想起:保持されている情報を、必要な時に思い出すこと(検索)。
記憶はビデオカメラのような正確な記録装置ではない。思い出す(想起する)たびに、脳内で情報が再構築されるため、非常に曖昧で変化しやすい。
虚偽記憶(事後情報効果)
異国の賢人、エリザベス・ロフタスが提唱した概念。出来事を経験した後(事後)に、他者からの誘導尋問や誤った情報を与えられると、本人の元の記憶が書き換えられ、実際には存在しなかった事実を「本物の記憶」として確信してしまう現象。
対人援助や司法の場(児童虐待の聞き取りや目撃証言など)において、支援者が「〇〇されたの?」と誘導的な質問を繰り返すと、対象者に虚偽記憶を植え付けてしまう危険性があるため、極めて慎重な対応が求められる。




