第2話 忘憂の占者と望まれた叱責
後宮の妃嬪たちには、皇帝への挨拶や儀礼の他にも、様々な細々とした義務が課せられている。
その一つが、月に一度、大広間に集められて行われる『経典の書写』であった。国の安寧を祈るという名目だが、実態は妃たちの忍耐力を測り、かつ派閥の力関係を見せつけるための退屈な行事である。
大広間では、美しい筆を持参した上位妃たちが「手が痛みますわ」と皇帝へのアピールを口にし、下級妃たちがそれに愛想笑いを浮かべながら媚びを売っている。
そんな騒がしい空間の最も隅の席で、静嬪の翠は一切の言葉を発することなく、機械のように筆を動かし続けていた。
彼女の文字には、自己主張も、褒められたいという欲も、一切の「色」がない。ただひたすらに正確で、美しくも汚くもない、まるで木版印刷で刷られたような没個性な文字だ。
規定の五十枚。翠は誰の印象にも残らないその作業を、誰よりも早く、完璧に終わらせた。監督役の宦官の前に静かに書束を提出し、彼が「確かに」と頷いたのを確認した瞬間。翠は足音一つ立てず、文字通り『空気』のようにスッと大広間から姿を消した。
――そして半刻後。
自らの住まいである忘憂亭の縁側で、翠は衣をだらしなく緩め、ござの上にどっさりと横たわっていた。
「……終わった。今日の仕事、完全終了」
課せられた義務は一分の隙もなく果たした。これで誰からも咎められる筋合いはない。オンからオフへと切り替わった咸魚にとって、ここから先は全力で己の平穏と生理的欲求を満たすための神聖な時間である。
「お腹すいた。今日は書写で頭も使ったし、温かくて、味が濃くて、お肉の脂がトロトロに溶け出したようなものが食べたいわ……」
翠が天井に向かって妄想の献立を呟いていた、その時。
慌ただしい足音が庭先から聞こえ、木戸が開かれた。現れたのは、後宮の巨大な厨房を束ねる女官長、春燕だった。普段は活気に満ちた大柄な女性だが、今はひどくやつれた顔をしており、その手にはすっかり冷めてしまった食事の盆が握られている。
「静嬪様、申し訳ございません! 配膳がすっかり遅れてしまい……っ」
「……春燕殿。遅れたのは構いませんが、随分とお疲れのようですね。厨房で何か問題でも?」
翠が盆を受け取りながら尋ねると、春燕は重いため息を吐き出した。
「実は最近、厨房に配属された小虎という若い宦官のことで手を焼いておりまして。配膳の忙しい時間に限って、皿を割ったり、他の者の導線を塞いだりと、とにかく粗相が多いのです」
「それは、まだ仕事に不慣れだからでは?」
「最初は私もそう思い、厳しく叱りつけて指導しておりました。しかし、一向に直らないばかりか、最近はわざとやっている節すらあります。今朝など、私の目の前で汁鍋をひっくり返しまして……私が怒鳴りつけても、どこかぼんやりとしているのです。おかげで厨房は大混乱です」
春燕の額には青筋が浮かんでいた。
食事の供給源である厨房の混乱は、翠の平穏な咸魚ライフ、とりわけ「食の質」に直結する死活問題である。このまま冷めた飯が続くのは絶対に御免だった。
「……星の巡りを見てみましょうか」
翠は卓の上の盆を横に押しやり、使い込まれた亀甲と木札を取り出した。
能力の引鉄を引く。木札を弾いた瞬間、天からの啓示が翠の脳裏に絶対的な真実を叩き込んだ。
(……原因は嫌がらせや怠慢ではない。その少年は『春燕に叱られること』を強く望んでいる。解決策は『粗相を完全に無視し、正しく仕事をした時にのみ褒め、菓子を与えよ』……なるほど)
天啓が示した奇妙な解決策。しかし、前世の知識を持つ翠には、その裏にある論理が完璧に見えていた。
翠の思考空間に、ひとつの理論体系が浮かび上がる。アメリカの心理学者、B・F・スキナーが提唱した『オペラント条件づけ』である。
人間や動物は、自発的な行動の直後に起こる「結果」によって、その行動の頻度が変化する。
行動の直後に報酬が起きれば、その行動は増える。これを『正の強化』と呼ぶ。
春燕は「叱る」ことで小虎の粗相を減らそうとしている(罰を与えている)つもりだった。しかし、後宮という巨大な組織の最底辺に配属され、誰からも見向きもされない孤独な少年・小虎にとって、女官長である春燕が自分を真っ直ぐに見て、声を張り上げて怒ってくれることは、強烈な「他者からの注目(報酬)」として機能してしまっていたのだ。
(春燕殿の叱責が、小虎の粗相に対する『正の強化』になってしまっているのね。だから、怒れば怒るほど粗相が増える。皮肉な悪循環だわ)
この歪んだ学習構造を断ち切るには、行動変容のアプローチが必要だ。
問題行動に対する注目という報酬を完全に絶つ『消去』。そして、正しい行動に対して好ましい真の報酬を与える『正の強化』の再設定である。
翠は静かに目を開き、深刻そうな顔を作って春燕を見た。
「春燕殿。星の巡りによりますと……小虎という者には、『騒乱を好む小鬼』が憑きまとっているようです」
「小鬼、でございますか!?」
「ええ。そして厄介なことに、春燕殿の『怒りの声』こそが、その小鬼にとって極上の餌なのです。あなたが彼を叱り飛ばすほど、小鬼は喜び、さらに彼に粗相をさせるでしょう」
「な、なんという……。では、厨房から追い出すしか……」
「そうしなくても、小鬼を飢え死にさせる確実な方法があります」
翠は身を乗り出し、声を潜めた。
「明日から、小虎がどれだけ皿を割ろうと、鍋をひっくり返そうと、あなたは一切声をかけてはいけません。怒ることも、呆れることもせず、完全に無視してください。見向きもせず、他の者に片付けを命じるのです」
「無視、ですか……。しかし、それではつけ上がるのでは?」
「最初は小鬼が餌を求めて暴れるため、事態は悪化するように見えるかもしれません。しかし、絶対に耐えてください。餌がもらえないと分かれば、小鬼はいずれ力を失います」
心理学における『消去バースト(行動が消去される直前に、一時的に問題行動が激化する現象)』についての予防線もしっかりと張っておく。
「そして、ここからが重要です。小虎が少しでも『粗相をせず、普通に仕事ができた時』には、大げさなほどに神仏の加護を称え、彼を褒め称えてください。そして、厨房の余り物で構いませんので、甘い菓子を一つ与えるのです」
「普通に仕事をしただけで、褒めて菓子を……?」
「ええ。そうすることで、小虎の心に平穏の光が宿ります。どうか、騙されたと思ってお試しください」
春燕は納得しきれない表情だったが、これまで何をしても駄目だったのだ。翠の言葉にすがるように頷き、厨房へと戻っていった。
それから数日後。翠の昼食は、見違えるように時間通り、しかも湯気を立てる熱々の状態で運ばれてくるようになった。
盆を運んできた春燕の顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「静嬪様、仰る通りでした! 最初の二日ほどは、小虎の奴、いつも以上に派手に皿を割りましてね。私をチラチラと見てくるので、怒鳴りつけたいのを必死で堪えて無視を貫きました」
「ええ。それで?」
「三日目、諦めたのか静かに野菜を刻み始めたのです。すかさず大袈裟に褒めてやり、饅頭を一つ持たせました。すると驚いたような顔をした後……嬉しそうに、それはもう真面目に働くようになりまして。今では厨房で一番の働き者です!」
「それは重畳でした。小鬼は無事に退散したようですね」
翠は涼しい顔で頷いた。
小虎は「粗相をしても注目されない」ことを学び(消去)、代わりに「真面目に働けば褒められ、菓子がもらえる」ことを新しく学習したのだ(正の強化)。行動療法の見事な成功例である。
「これも全て静嬪様のおかげです。これは私からの、ほんの感謝のしるしにございます。静嬪様のお好きな脂の多い部位を、時間をかけて煮込みました」
春燕が恭しく差し出した小さな重箱。
蓋を開けると、そこには飴色に輝く『豚肉の角煮』が、とろけるような脂を纏って鎮座していた。八角と醤油の濃厚な香りが、暴力的なまでに鼻腔をくすぐる。厨房の長からの、最上級の「正の強化(報酬)」であった。
「……いただきます」
翠は震える箸で肉を口に運んだ。舌の上でほどける肉の旨味と、甘じょっぱいタレの刺激に、前世の専門知識も天啓の理屈も全て吹き飛んでいく。
他人の行動のバグを修正するのは骨が折れるが、その結果としてこれほどの美味にありつけるのならば、悪くない取引である。翠は誰にも邪魔されない忘憂亭で、ただひたすらに至福の時を味わい尽くすのだった。
==========
■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【オペラント条件づけ】
異国の賢人、B・F・スキナーは、自発的な行動とその直後の結果(報酬や罰)との関係から、行動が学習される仕組みを『オペラント条件づけ』として体系化した。
○強化(行動の増加)
正の強化:行動の直後に「良いこと(報酬)」が与えられ、その行動が増えること。(例:真面目に働いたら褒められ、菓子をもらえたので、さらに真面目に働く)
負の強化:行動の直後に「嫌なこと」が取り除かれ、その行動が増えること。(例:薬を飲んだら頭痛が治まったので、次も頭痛がしたら薬を飲む)
○罰(行動の減少)
行動の直後に「嫌なこと」が与えられたり、「良いこと」が取り除かれたりして、その行動が減ること。
○消去
これまで強化されていた行動に対し、報酬を与えなくなることで、その行動を減らすこと。(例:粗相をしても叱責という「注目」を与えなくなり、粗相が減る)
対人援助において、問題行動を表面的に罰するだけでは解決しないことが多い。対象者が「何をもって報酬と感じているか」を見極め、望ましい行動へと『強化』の条件を作り変えることが重要である。




