第1話 忘憂の占者と崩れゆく気柱
後宮の朝は早い。まだ薄暗い明け方から、妃嬪たちは顔に白粉をはたき、重たい金銀の簪を髪に挿して、皇后の宮へと朝の定省(あいさつ)に向かわなければならない。それは後宮に生きる女たちにとって、己の権勢を誇示し、牽制し合うための重要な「戦場」であった。
その華やかな列の最後尾で、中堅の位階である静嬪の翠は、周囲の極彩色の衣に埋もれるようにして静かに頭を垂れていた。
衣の色は地味な鶯色。視線は常に斜め下四十五度。皇后からの形式的な下問には、完璧な礼法と、淀みも抑揚もない平坦な声で「はっ。つつがなく」とだけ返答する。
皇帝の目を引くような媚びも、他の妃の癇に障るような自己主張も一切ない。ただ「静嬪という妃が、今日も間違いなく礼儀を果たした」という事実だけを記録に残し、誰の記憶にも留まらない見事な『空気』としての所作。
一分の隙もないその完璧な儀礼を終え、自らの住まいである『忘憂亭』の門をくぐった瞬間――翠は、ふっと全身の骨を抜いた。
「はぁぁぁ……終わった、終わった。今日の仕事、終了」
翠は衣の帯を緩めると、縁側の陽だまりに敷かれたござの上へ、糸の切れた操り人形のようにどさりと倒れ込んだ。
咸魚。塩漬けの魚のように、ひっくり返ることもなくただ横たわっているだけの存在。それが、前世の記憶を持つ翠が掲げる、今世での確固たる生存戦略であった。
出世競争など真っ平ごめん。他者から咎められない最低限の義務だけを完璧にこなし、あとは己の領域に引きこもって、全力でダラダラと平穏を貪る。
「さて、今日の配給のおやつは何かしら。昨日みたいなパサパサの木の実だったら泣くわよ……」
翠が空腹に腹の虫を鳴らしていると、庭の木戸が控えめに、しかし切羽詰まった様子で叩かれた。
現れたのは、皇帝の寵愛を一身に受ける四夫人の筆頭、『華妃』の宮に仕える若い女官だった。彼女は以前、荷運びで足を挫いた際に、翠がこっそり湿布を当ててやったことがある娘だ。
「静嬪様……どうか、どうかお助けください……っ」
「……お断りします。私は今、天地の気と一体化する重要な修行中ですので」
「華妃様が、もう五日もまともなお食事を口にされていないのです! 御典医様が診ても原因が分からず……このままではお命に関わります! どうか、静嬪様の『星読み』の力で、原因を突き止めていただけないでしょうか!」
後宮のトップの命の危機。関われば絶対に面倒事が増える。
翠が容赦なく木戸を閉めようとした瞬間、女官がすがりつくように叫んだ。
「お、お礼は必ずいたします! 華妃様専属の特級厨師が作った『金華豚と干し貝柱の極上とろみ湯』と、『海老と黄韮の蒸し餃子』を、誰にも見つからないようにお持ちしますから!」
ピタリ。木戸を閉める翠の手が止まった。
静嬪の底辺配給では一生口にできない、最高級の宮廷料理。想像しただけで唾液腺が爆発する。
「……星の導きは、時には残酷な真実を暴き出します。それでもよろしいのですね?」
「は、はいっ!」
秒で咸魚の哲学を食欲に曲げた翠は、居住まいを正し、懐から亀甲と古めかしい木札を取り出した。
翠の持つ異能、『天啓』。占いを引鉄として、いかなる疑問に対しても『絶対的な正解』が脳裏に降りてくるという神の御業である。
「……星よ、巡りたまえ」
カラン、と木札を卓に弾く。
その瞬間、天からの啓示が翠の脳内に真実を落とした。
(……なるほど。誰かに毒を盛られたわけでも、呪われているわけでもない。原因は『心因性の拒食』。極度のプレッシャーによる心の崩壊ね。解決策は……『豪華な食事をすべて下げさせ、密室で故郷の味を食べさせること』!)
翠の思考空間に、前世――社会福祉士として活動していた頃の心理学の知識が展開される。
アメリカの心理学者、アブラハム・マズローが提唱した『欲求階層説』である。
人間の欲求はピラミッド状の五つの階層に分かれており、下の階層が満たされて初めて、上の階層の欲求が現れるという理論だ。
一番下にあるのが、食欲や睡眠欲などの『生理的欲求』。
その上が、身の安全や健康を守りたいという『安全の欲求』。
次が、集団に属し愛されたいという『所属と愛の欲求』。
その上が、他者から認められたい、尊敬されたいという『承認の欲求』。
そして一番上が、自分らしく生きたいという『自己実現の欲求』。
現在の華妃は、トップの妃として君臨し続けるための承認の欲求に晒されている。常に他派閥からの嫉妬や暗殺の恐怖に怯え、ピラミッドの土台である『安全の欲求』が完全にグラグラに揺らいでいる状態なのだ。
土台が崩れかかっているのに、無理やり上の階層(妃としてのプライド)を保とうと気を張り詰めた結果、ついに最も根源的な土台である『生理的欲求(食欲)』までが押し潰され、機能不全を起こしてしまったのである。
「……案内しなさい」
華妃の寝所は、薬草の匂いと、重苦しい空気に満ちていた。
豪奢な天蓋付きの寝台に横たわる華妃は、頬がこけ、目には暗い隈が落ちている。その脇の卓には、伊勢海老や燕の巣を使った豪華な膳が手付かずのまま冷めきっていた。
「……何よ、静嬪。私が弱っているのを嘲笑いに来たの?」
「とんでもございません。華妃様の星の巡りを拝見しに参りました」
翠は「ストレスが原因です」などと野暮な説明はしない。プライドの高い彼女が素直に受け入れるはずがないからだ。翠はあくまで『胡散臭いが当たる占者』としての仮面を被る。
「華妃様。あなたを支える『気柱』の足元が、悪い風によって削られ、ひどく揺らいでおります。このままでは気柱が倒壊し、命に関わります」
「気柱が……? どうすればいいの。食べようとしても、喉が塞がって受け付けないのよ。もしやこの膳にも、誰かの毒が……」
「おっしゃる通りです」
翠は、手付かずの豪華な宮廷料理を指差した。
「この膳には『嫉妬』と『重圧』という名の猛毒が染み付いております。華妃様を立派な妃として縛り付けるこれらの食事は、今のあなたには猛毒に等しい。……人払いをお願いします」
翠の静かな、しかし有無を言わせぬ気迫に押され、華妃は女官たちを室外へ退出させた。
完全に二人きりの密室になったことを確認すると、翠は先ほど案内してくれた若い女官に密かに準備させていた『小さなお椀』を取り出し、華妃の前にコトリと置いた。
蓋を開けると、ふわりと湯気が立ち上る。
「……これは?」
「江南地方の郷土料理、『過橋米線』でございます」
それは、米の粉で作られた柔らかい丸麺を、鶏の出汁が効いた澄んだ熱々のスープに入れ、薄切りの豚肉と青菜だけを乗せた、極めて素朴な庶民の料理だった。
「華妃様が後宮に上がる前、江南の故郷で、ご家族と共に召し上がっていた味だと星が告げております。……ここは完全に閉ざされた空間です。あなたを狙う敵も、妃として完璧でなければならないという重圧も、ここには存在しません。どうか、あの頃の安心だけを思い出し、口になさってください」
華妃は、震える手で箸を取った。
宮廷の豪華な食事には「権力闘争」の文脈がこびりついている。しかし、この素朴な故郷の味には「親に守られていた安全な記憶」しか付随していない。
華妃が麺を一本すすり、温かいスープを飲み込む。その瞬間、彼女の目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「……あたたかい……美味しい……っ」
張り詰めていた心の糸が切れ、『安全の欲求』が一時的に100%満たされたことで、せき止められていた『生理的欲求』が堰を切ったように蘇ったのだ。華妃は涙で顔を濡らしながら、あっという間にお椀を空にした。
「……静嬪。あなたには、私の心の弱い部分が見透かされていたのね」
すっかり顔色に生気を取り戻した華妃が、自嘲気味に笑う。
翠は深く頭を下げた。
「滅相もございません。私はただの星読みに過ぎません。気柱の足元を固める術を思い出された華妃様は、明日からまた、以前にも増して美しく後宮に咲き誇ることでしょう」
▷ ▶ ▷
その日の午後。忘憂亭の縁側で、翠は約束の報酬である『金華豚と干し貝柱の極上スープ』と、『海老と黄韮の蒸し餃子』を夢中で頬張っていた。
「……んんっ! 金華ハムの濃厚な旨味が内臓に染み渡る! 海老のプリプリ感と黄韮の香りが絶妙すぎるわ!」
他人の欲求階層を修復してやった報酬で、己の最も低次にして最強の『生理的欲求』を極上の味で満たす。
翠は、これぞ咸魚ライフの醍醐味だとご満悦の笑みを浮かべ、誰にも邪魔されない至福のダラダラ時間を心ゆくまで貪り食うのだった。
==========
■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【マズローの欲求階層説】
異国の心理学者、アブラハム・マズローは、人間の欲求はピラミッド状の5つの階層で構成されていると提唱した。
第1階層:生理的欲求(食事、睡眠など生命維持に不可欠な欲求)
第2階層:安全の欲求(身体の安全、安心できる環境、健康を求める欲求)
第3階層:所属と愛の欲求(集団に属したい、孤独を避けたいという欲求)
第4階層:承認(尊厳)の欲求(他者から認められたい、尊敬されたいという欲求)
第5階層:自己実現の欲求(自分の能力を最大限に発揮し、自分らしく生きたいという欲求)
この理論の重要な点は、「低次の欲求(下の階層)が十分に満たされて初めて、高次の欲求(上の階層)が現れる」という点である。
今回の華妃のように、「安全の欲求」が脅かされている状態(足場が不安定な状態)で無理に「承認の欲求」を満たそうとすると、心身に多大なストレスがかかり、最悪の場合、心身のバランスが崩壊してしまう。対人援助においては、対象者が現在どの階層の欲求で躓いているのかを見極め、まずは土台となる低次欲求(安心・安全な環境の確保など)から丁寧にアプローチすることが解決への近道となる。




