第11話 忘憂の占者と不協和の果実
後宮の妃嬪たちは、ただ皇帝を待つだけでなく、宮廷の文化と教養を維持するための労働も担っている。
本日の静嬪・翠に課せられたのは、雅楽寮で古くなった『琴の譜面』を新しい巻物へと書き写す作業であった。
細かな音符や記号を間違いなく筆で写し取るのは、高度な集中力を要する。他の妃たちが「手が疲れる」「墨の匂いで気分が悪い」と小休止ばかり挟んで雑談している中、翠は背筋を伸ばし、機械のような一定のリズムで筆を走らせていた。
無駄な動きは一切なく、かといって「私は真面目にやっています」という過剰なアピールもしない。周囲の妃や監督官の視界から自然にフェードアウトする、見事な『空気』としての所作である。
「よし。今日の仕事、終了」
翠は誰よりも早く己のノルマを完璧に書き終え、墨が乾いたのを確認して監督官に提出した。一文字の乱れもない譜面に監督官が朱印を押すのを見届けると、翠は風のようにその場から姿を消した。
自らの庵である忘憂亭の縁側に戻り、敷いておいたござの上へ倒れ込む。ここからは、いっさいの社会的義務から解放される咸魚の神聖な時間である。
「……細かい字を見続けて目が疲れたわ。こういう時は、果汁がたっぷりで、甘くて酸味のある果実が食べたい。南方から届いたばかりの、楊貴妃も愛したという瑞々しい『茘枝』なんて最高なんだけど……」
静嬪の底辺配給でそんな超高級果実が手に入るはずもないと分かっていながら、翠が妄想を口にしていた、その時だった。
庭の木戸がバンッと勢いよく開かれた。
「静嬪様! またそのようなはしたないお姿で!」
甲高い、ヒステリックな声。現れたのは、後宮の風紀と規律を司る『鬼の監査役』こと、郭女官長であった。
三十代半ばの彼女は、髪をきっちりと結い上げ、眉間に深いシワを刻んでいる。最近、彼女は「怠惰な妃嬪」の取り締まりを強化しており、いかに仕事で完璧に空気を装おうとも、生活態度の根底にある『怠け者のオーラ』を嗅ぎ取られ、翠は一方的に目をつけられていた。
「本日の写譜の出来栄え、監督官から報告を受けました。一文字の狂いもない完璧な仕上がりだったそうですね」
「……はい。身に余る光栄です」
「ええ、仕事そのものは咎めません。しかし! あなたからは『後宮を支えようとする情熱』や『妃としての誇り』が全く感じられません! 最低限のノルマさえこなせば、あとはこうして昼寝をしていても許されるとでも思っているのですか!」
完全に言いがかりである。しかし、相手は監査役のトップ。権力という名の理不尽が翠に牙を剥いた。
「静嬪様には、もっと後宮への『貢献』を示していただきます。明日の夕刻までに、来週の茶会で使用する『牡丹の刺繍を施した袱紗』を仕上げて提出なさい。もし出来栄えが悪ければ、今月の静嬪様の配給から『甘味』と『果実』を一切没収いたします!」
「なっ……!?」
翠は弾かれたように跳ね起きた。
配給の没収。それは咸魚の命を絶つに等しい極刑である。
「女官長、それはあまりにも……。私は刺繍の才が絶望的に――」
「言い訳は無用です! 明日です! ごきげんよう!」
郭女官長は嵐のように言い捨てると、バタンと木戸を閉めて去っていった。
あとに残されたのは、絶望に打ちひしがれる翠だけである。
針で指を刺す未来しか見えない。かといって、提出しなければ命の次に大事なおやつを奪われる。
翠は這うようにして居室に戻り、亀甲と木札を取り出した。自分の怠惰と甘味の権利を守るため、神の奇跡を無駄遣いする時間がやってきた。
「……星よ、あの鬼女官長を黙らせる最短ルートを教えたまえ」
カラン、と木札を弾く。
天からの絶対的な啓示が、翠の脳裏に信じられない行動を指示した。
(……徹夜で完璧な刺繍を仕上げる必要はない。わざと不格好な刺繍を作り、明日の朝一番で郭女官長の元へ行き、『どうかあなたの素晴らしい技術でご指導ください』と教えを乞うのだ。解決策は……『敵にあえて小さなお願いをして、認知不協和を起こさせること』!)
翠の思考空間に、前世の社会心理学の知識が展開される。
アメリカの心理学者、レオン・フェスティンガーが提唱した『認知不協和理論』。そして、その応用である『ベン・フランクリン効果』である。
人間は、自分の心の中の「態度」と「行動」に矛盾(不協和)が生じた時、強烈な不快感を覚える。そして、その不快感を解消するために、無意識に「態度」の方を捻じ曲げてしまう生き物なのだ。
例えば、自分がひどく嫌っている相手(翠)がいるとする。普通なら、嫌いな相手を助けたりはしない。しかし、もしその相手から「私の力ではどうにもなりません。どうかあなたの優れたお力で助けてください」と頼られ、つい助けてしまった場合。
『私はあいつが嫌いだ(態度)』という認識と、『私はあいつを助けてやった(行動)』という事実の間に、激しい矛盾(認知不協和)が生じる。
人間は過去の「行動」を取り消すことはできない。そのため、脳は不快感を消すためにこう解釈を変えるのだ。
「わざわざ時間を割いて助けてやったのだから、私はあいつのことを『実はそんなに嫌いじゃなかった』に違いない」と。
(ただ反抗したり、何とか完璧なものを提出したりすれば、彼女の『私を罰したい』という敵対心は消えない。でも、あえて教えを乞い、彼女の自尊心を満たしながら『私を助ける』という行動をとらせれば……彼女の脳は勝手にバグを起こして、私を好きになるわ)
翌朝。翠は、赤い糸が鳥の巣のように絡まった、お世辞にも牡丹とは呼べない不気味な布切れを持ち、郭女官長の執務室を訪れた。
「……静嬪様。いくらなんでも、早すぎませんか。まさかもう諦めたのでは」
郭女官長が呆れたようにため息を吐く。翠は深く頭を下げ、しおらしい声を出した。
「郭女官長。お恥ずかしながら、私には刺繍の才が全くございません。昨夜から必死に針を動かしましたが、この有様です」
「……何ですか、この赤い毛玉は」
「……牡丹のつもりです」
郭女官長が頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。そこで、翠は真剣な眼差しを向け、本命のセリフを放った。
「女官長。後宮の誰もが、あなたの刺繍の腕前は『神技』であると噂しております。こんな不甲斐ない私に、どうか、ほんの少しだけ……女官長様のその素晴らしい技術の『入り口』だけでも、ご指導いただけないでしょうか」
嫌いな相手からの、ひたすらに下手に出た、自尊心をくすぐるお願い。
郭女官長は一瞬面食らったが、自慢の技術を褒められ、無下に断ることもできず、複雑な顔で立ち上がった。
「……はぁ。見かねますね。貸しなさい。針の持ち方から間違っていますよ」
郭女官長は翠の隣に座り、赤い毛玉を取り上げると、自分の針を取り出して手本を見せ始めた。
翠は「まあ、なんて美しい糸の運び!」「私には到底真似できません、凄いです!」と、大げさなほどの感嘆の言葉(合いの手)を適度に挟み続けた。
三十分後。郭女官長は、翠の手を取り、熱心に針の刺し方を指導していた。
彼女の脳内では、今まさに激しい『認知不協和の解消』が行われていた。
(私は、この覇気のない大嫌いな静嬪のために、忙しい時間を割いて熱心に指導をしている。なぜだ? ……そうか、この方は不器用なだけで、実はとても素直で、私を尊敬している可愛い教え子だからだ!)
「……いいですか、静嬪様。ここは力を抜いて、布の目に沿ってスッと引くのです」
「はいっ、先生! ……あ、少し綺麗にできました!」
「ふふ、やればできるじゃないですか。筋は悪くありませんよ」
気づけば、鬼女官長の顔からは険しいシワが消え、教え子の成長を喜ぶ優しい恩師の顔に変わっていた。翠は心の中でガッツポーズをした。作戦は完璧に成功したのだ。
「……さて。長居をしてしまいましたね。今日のところはここまでにしておきましょう。茶会には、今の刺し方で小さい花を一つ作れば十分です。配給の没収は免除してあげます」
郭女官長は満足げに立ち上がり、ふと、自分の机の上に置かれていた木箱を見た。それは南方からの献上品として、彼女の執務室に届けられたばかりの品だった。
「静嬪様。慣れない針仕事と、昨日の写譜で、さぞお疲れでしょう。目を酷使した後は、甘いもので休ませるのが一番です。……これ、内緒ですよ」
そう言って郭女官長が翠に手渡したのは、綺麗に洗われた、赤くゴツゴツとした皮に包まれた見事な『茘枝』が山盛りに乗った小皿であった。
「!! 女官長様、よろしいのですか!?」
「ええ。よく頑張ったご褒美です。これからも精進しなさいね」
敵が完全に『味方』へと反転した瞬間だった。
忘憂亭へホクホク顔で戻った翠は、さっそく縁側に座り込み、もらったばかりの茘枝を手に取った。
赤い硬い皮に爪を立ててスッと剥くと、中から真珠のように白く半透明な、瑞々しい果肉が露わになる。そのまま大きく一口齧り付く。
「……んんっ!」
口いっぱいに広がる、高貴で華やかな甘い香り。そして、滴り落ちるほどに豊富な果汁と、絶妙な酸味が、疲労した体に染み渡っていく。
針仕事のフリをして少しお世辞を言っただけで、配給没収のピンチを切り抜け、さらには最高級の果実まで手に入れてしまった。
「……嫌いな人にこそ、小さなお願いをする。ベン・フランクリン効果、最高だわ」
人間の心理の矛盾が生み出した、極上の甘味。
翠は指先をほんの少しだけ果汁でベタつかせながら、パトロンとなった監査役からの貢ぎ物を、心ゆくまで堪能するのだった。
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■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【認知不協和理論とベン・フランクリン効果】
異国の賢人、レオン・フェスティンガーは、人間が自身の「態度(思考)」と「行動」に矛盾を抱えた時、強烈な不快感を覚えることを『認知不協和』と呼んだ。
そして人間は、この不快感を解消するために、変えることのできない「過去の行動」に合わせて、自分の「態度(思い込み)」の方を都合よく変化させてしまう生き物である。
◎ベン・フランクリン効果
認知不協和のメカニズムを対人関係に応用した心理効果。
「自分が嫌っている相手」を、あえて「助ける(小さな親切をする)」状況に陥らせると、相手の脳内に『嫌いなはずなのに、助けてしまった』という矛盾(認知不協和)が生じる。
脳はそれを解消するため、「わざわざ助けたのだから、自分はこの人のことが好きなのだ(あるいは評価しているのだ)」と態度を歪曲して思い込むようになる。結果として、敵対していた相手が好意を持ってくれるようになるという強力なハックである。
対人援助やコミュニケーションの現場において、関係性の悪い相手に対して「こちらから親切にする」だけでなく、あえて「相手の得意なことについて、小さなアドバイスや助けを求める」というアプローチが、互いの壁を取り払う非常に有効な手段となる場合がある。




