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《完結》天啓妃のひもの日記 〜美味しいご飯のためなら、チートも無駄づかいします〜  作者: ひより那


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第10話 忘憂の占者と歪んだ心の天秤

 後宮という巨大な組織を維持するためには、妃嬪たちもまた、身の丈に合った労働を負担しなければならない。

 本日の静嬪・翠に割り当てられたのは、西域の属国から貢がれた『香薬と香木の検品と仕分け』であった。


 大広間には、白檀びゃくだん丁子ちょうじ乳香にゅうこうといった強い香りを放つ貴重な品々が山のように積まれている。

 他の妃たちは「匂いが衣や髪に染み付いてしまう」「鼻が痛くて頭痛がするわ」と袖で鼻を覆い、露骨に嫌な顔をして作業を渋っていた。

 そんな喧騒から離れた風下で、翠は一言も発することなく、流れるような手つきで香木を等級ごとに分け、防虫の葉と共に桐箱へ収めていた。強い香りにも顔をしかめず、誰の邪魔もせず、他の誰の視界にも入らない。香木の山と完全に同化する、見事な『空気』としての所作である。


「よし。今日の仕事オン、終了」


 翠は誰よりも早く己のノルマを完璧に終わらせると、監督役の宦官に無言で目録を提出した。宦官がその手際の良さと仕上がりの美しさに舌を巻いている間に、翠は足音一つ立てずにその場から姿を消した。


 自らの庵である忘憂亭ぼうゆうていの縁側に戻ると、翠は衣の帯を緩め、敷いておいたござの上へ倒れ込んだ。ここからは、いっさいの社会的義務から解放される咸魚の神聖な時間である。


「……香辛料の匂いを嗅ぎすぎたせいか、無性に異国の強烈な甘味が欲しくなってきたわ。薄い生地を何層にも重ねて、砕いた胡桃くるみ無花果いちじくを挟み、とろとろの蜂蜜をたっぷりとかけた西域の焼き菓子……それに、香辛料を効かせた熱い乳茶ミルクティーなんて最高だわ」


 翠が空に向かって欲望のメニューを呟いていた、その時だった。


「……相変わらず、幻覚でも見ているかのように虚空に独り言を呟いているな、占者」


 庭の木戸が開く音すらなかった。ござのすぐ脇に、不吉な紫色の衣が音もなく立っていた。内務調査局の長、司馬淵しばえんである。


「これは淵様。気配を完全に消して背後に立つのはやめていただけますか。寿命が縮みます。して、本日はどなたが倒れましたか?」

「貴様のその怠惰な空気に当てられ、足音が吸い込まれただけだ。……だが、倒れそうな者がいるのは事実だ」


 淵は冷たい声で告げた。


「西域の属国から、人質として、そして後見の妃として送られてきた莎羅サーラ姫だ。ひと月ほど前に後宮に入ったのだが、ここ数日、自室に引きこもって食事を一切拒絶している。泣き叫びながら『誰も入ってくるな、私を殺す気だろう』と錯乱している状態だ」

「引きこもり、ですか」

「ああ。もし彼女がこのまま衰弱死でもすれば、西域との外交問題に発展し、戦の火種になりかねん。他国からの呪術か、あるいは何者かが彼女を精神的に追い詰める工作を行っている可能性がある。至急、原因を特定して解決しろ」


 国家間の戦争を防ぐという、下級妃が背負うにはあまりにも重すぎるミッションである。しかし、翠は居住まいを正し、スッと手を差し出した。


「お任せください、淵様。原因を特定し、見事に姫君の心の扉を開いてご覧に入れます。……ところで、今回の報酬は『西域の胡桃と蜂蜜の焼き菓子』と『極上の香辛料入り乳茶』で手を打ちたいのですが」

「……治せば、西域の使節団が持ち込んだ最高級の茶菓子を、木箱ごとくれてやる」

「商談成立です」


 翠はすぐさま亀甲と木札を卓に並べた。

 カラン、と木札を弾く。天からの啓示が、翠の脳裏にこの症状の絶対的な真実を叩き込んだ。


(……なるほど。呪いでも陰謀でもない。莎羅姫を追い詰めているのは、彼女自身の『極端な思い込み』と『認知の歪み』だわ。解決策は……『彼女の非合理的な信念を、論理的に反駁はんばくし、真実を突きつけること』!)


 翠の思考空間に、前世の心理学の知識が展開される。

 アメリカの臨床心理学者、アルバート・エリスが提唱した『論理療法(REBT)』と、その中核をなす『ABC理論』だ。


 人間はしばしば「出来事(A:Activating event)」が直接「感情や結果(C:Consequence)」を引き起こすと勘違いする。

 しかし実際には、出来事と感情の間には、その人の「解釈や信念(B:Belief)」が存在している。この信念が、「絶対に〜でなければならない」「〜に決まっている」という非合理的で歪んだ思い込み(イラショナル・ビリーフ)である場合、人は過度な不安や絶望といった不適切な感情(C)を生み出してしまうのだ。


 異国からたった一人で人質として送られてきた莎羅姫は、極限の緊張状態にあったのだろう。その中で起きた些細な出来事(A)に対し、「私は全員から憎まれている」「必ず殺される」という極端な白黒思考(B)を爆発させ、絶望して引きこもる(C)という結果を自ら招いているのだ。

 これを救うには、「D:Dispute(反駁・論駁)」……つまり、彼女の歪んだ思い込みが事実ではないという証拠を突きつけ、合理的な考え方(E:Effective new philosophy)へと認知を修正してやる必要がある。


「……淵様、星は真実を告げております」


 翠は静かに目を開き、立ち上がった。


「莎羅姫は、誰かに呪われているわけではありません。彼女自身の心が生み出した『歪んだ天秤』が、彼女自身を裁き、殺そうとしているのです。……姫の部屋へ参りましょう」


 後宮の一角にある、異国からの賓客を留め置く豪奢な宮。その一番奥の寝所は、昼間だというのに重いとばりが引かれ、薄暗かった。


「来ないで! 毒を入れたのでしょう! 私を殺す気ね!」


 部屋の隅で毛布にくるまり、怯えた獣のように叫ぶ金髪の少女。それが莎羅姫だった。彼女は淵の姿を見るなり、さらに激しく震え上がった。


「ああ……ついに処刑人が来たのね。私が目障りだから!」

「莎羅姫様。ごきげんよう、静嬪の翠と申します」


 翠は淵を背後に下がらせ、毛布の塊に向かって穏やかに、しかし理路整然と語りかけた。


「誰もあなたを殺そうなどとしていません。淵様はあなたを守るために来たのです。……姫様、あなたが『自分が殺される』と確信した、その理由を教えていただけませんか」

「理由……? 理由ならあるわ! 三日前の朝よ!」


 莎羅姫は毛布から青ざめた顔を少しだけ出し、叫んだ。


「庭園で、位の高い雪妃せっひ様とすれ違ったの。私は作法通りに挨拶をしたわ! それなのに、雪妃様は私を見た瞬間、顔をひどくしかめて、無言でプイッと顔を背けて足早に去っていったのよ! 位の高い妃が、あんな露骨な嫌悪感を示すなんて……この後宮全体が、私を敵視して排除しようとしている証拠じゃない!」


 挨拶を無視され、顔をしかめられた。

 それが彼女の引き金(出来事=A)だった。そして、「挨拶を無視される=後宮全体から命を狙われている」という、極端な論理の飛躍(非合理的な信念=B)を引き起こしていたのだ。


 翠は静かに頷き、振り返って淵を見た。

 淵は小さくため息をつき、懐から一枚の報告書を取り出して読み上げた。


「……三日前の朝。雪妃は、重度の『虫歯』による強烈な歯痛に悩まされていた。一晩中泣き明かし、右の頬はひどく腫れ上がっていた。御典医の元へ急ぐ道中、異国からの美しい姫とすれ違った彼女は、『こんな腫れ上がった不細工な顔を、よりにもよって異国の姫に見られたくない』と羞恥心に駆られ、痛みに顔をしかめながら、慌てて顔を背けて逃げ去った」


 淵の冷徹な報告が響き渡った瞬間、部屋の空気が止まった。


「……え?」


 莎羅姫が、きょとんとした顔で声を漏らす。


「ですから」と、翠は優しく微笑んだ。


「雪妃様は、あなたを憎んでいたのではありません。ただの『激しい歯痛』と『乙女心』です。あなたを無視したのではなく、自分の顔を見られたくなかっただけなのです」

「歯痛……? で、でも、他の女官たちも、私を遠巻きにして、ヒソヒソと……」

「それは、あなたが異国の美しい金髪と青い瞳を持っているからです。後宮の女官たちは、物珍しさと憧れから『なんて綺麗なお方だろう』と噂していただけですよ」


 事実という強力な刃(D:反駁)が、莎羅姫の心に張り巡らされていた『歪んだ思い込み』を次々と切り裂いていく。


「姫様。人間は、不安な時ほど物事を『白か黒か』の極端な二択で考えてしまいます。挨拶されなかったから、自分は全員に嫌われているのだと。……ですが、事実はもっと滑稽で、単純なものです」


 翠の言葉が、ゆっくりと莎羅姫の心に染み込んでいく。

 彼女の中で、「私が憎まれている」という非合理的な信念が崩れ去り、「なんだ、皆それぞれ自分の事情で動いているだけなんだ」という合理的な認知(E:効果的な新しい哲学)へと切り替わった瞬間だった。


「……私、馬鹿みたい。勝手に勘違いして、一人で飢え死にしようとしていたなんて」


 莎羅姫の目から、恐怖ではなく、安堵の涙がこぼれ落ちた。彼女は毛布を放り出し、お腹をグウと鳴らした。


「……お腹が、空いたわ」

「ええ。すぐに温かい食事をお持ちさせましょう。あなたはもう、大丈夫です」


 翠は深く頭を下げ、淵と共に部屋を後にした。


 その日の夕刻。忘憂亭の縁側には、内務調査局から届けられた豪華な木箱が置かれていた。

 中には、極薄のパイ生地が何層にも重なり、たっぷりの蜂蜜と砕いた胡桃、ピスタチオがぎっしりと詰まった西域の焼き菓子。そして、カルダモンとシナモンの香りが立ち上る、熱く濃厚な乳茶が添えられていた。


「……っっ!」


 焼き菓子を一口かじれば、サクッという心地よい音と共に、木の実の香ばしさと蜂蜜の暴力的なまでの甘さが口いっぱいに広がる。そこへ香辛料の効いた乳茶を流し込むと、甘さと渋み、そしてスパイスの刺激が完璧な調和を奏で、脳髄を痺れさせた。


「……最高。ABC理論、万歳」


 他人の認知の歪みを修正するのは骨が折れるが、論理のパズルを解くだけでこの至高の甘味が手に入るのなら、心理療法も悪くない。

 翠は沈みゆく夕日を眺めながら、誰にも気を遣うことのない完璧なオフの時間を、心ゆくまで貪り食うのだった。


==========


■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【認知の歪みとABC理論】


 異国の臨床心理学者、アルバート・エリスは、人々の悩みの原因は「出来事そのもの」ではなく、その出来事をどう受け取るかという「非合理的な信念」にあるとし、『論理療法(REBT)』を提唱した。


ABC理論

 人間の感情が生まれるプロセスを説明したモデル。

 A(Activating event:出来事)

 B(Belief:信念、解釈、思い込み)

 C(Consequence:結果としての感情や行動)


 多くの人は「Aが起きたからCになった」と考えるが、実際には「AをBと解釈したから、Cという感情になった」のである。この「B」が、極端な白黒思考や「〜すべきだ」といった『イラショナル・ビリーフ(非合理的な信念/認知の歪み)』である場合、人は過剰な苦しみを抱え込む。


DとEによる治療プロセス

 D(Dispute:反駁、論駁):対象者の非合理的な信念に対し、「本当にそれは100%の事実なのか?」と論理的に問いかけ、証拠を提示して反論する。

 E(Effective new philosophy:効果的な新しい哲学):Dによって認知の歪みが修正され、より柔軟で合理的な考えラショナル・ビリーフを獲得すること。


 対人援助において、対象者が事実を曲解して絶望している場合、ただ慰めるのではなく、対象者の「信念(B)」に焦点を当て、それが事実に基づいているかを共に検証し、認知の歪みを修正していくアプローチが非常に有効である。

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