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0の庭  作者: 七星ドミノ
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epilogue:兎に万札

 硝子の館で起きたあの事件から一ヶ月が経った。


 世間の円に対する風当たりは予想以上に冷たかった。大量殺人犯の父親の血を引く娘を、世間は簡単には受け入れてはくれない。


 神無木製薬会社は立ち行かなくなり、家政婦の嘉川も仕事を辞め、広い家に一人でいることを嫌った円は、佐村探偵事務所に入り浸るようになっていた。あの家も、もうじき手放すことになるだろう。


 死ね。消えろ。などと悪口が大量に書き殴られた家の壁を見ても、今の円はなんとも思わなかった。ただ考えなしに放られた言葉にはなんの力もないことを知ったからだ。


 毎日事務所へ顔を出す円を、佐村は追い返そうとはせず、ついに根負けした様子で「ここで働くか?」と声を掛けてくれた。円は喜んで笑顔で答える。


「下働きでもなんでもします!」


 しかし佐村探偵事務所は暇だった。仕事がない。佐村が仕事を選び過ぎるのだ。気に入らない依頼人が来れば追い返してしまうし、これでよく今まで事務所が成り立っていたなと感心する。


 事務所のエアコンが壊れたが、修理する金がないと佐村は言った。まだ少しは冷たい朝の風に当たるために、二人でビルの屋上にのぼる。


「今、死ぬほど暇ですよね」


 灰色のビルに埋め尽くされた景色を眺めながら円は言う。


「そうか?」


「はぐらかさないでください。いい加減教えてくださいよ、三原さんの事務所に駆け込んだ理由」


 佐村は手すりに寄り掛かって、面倒くさそうに空を仰いだ。


「誰かを殴る痛みに耐えられなくなった。降り掛かる火の粉から逃げるためにたまたま逃げ込んだのが、その時近くにあった三原さんの事務所だった。それだけだ。死ぬほどつまんねえだろ?」


「そうですねぇ」


「おい」


 本当は、佐村が昔から優しい人間だったのだと知って、内心嬉しかったのだが、そんなことを言えば鼻で笑われることは目に見えている。


「あ、そういえば、報酬をお支払いするの忘れていました。ここに好きな額を書いてください。私はもう、お金とかそういうのに振り回されるのは嫌なので。百万くらいなら貯金してあると思います」


 渡したのは小切手だ。ネットバンキングが普及した今、小切手を使う場は少なくなっているが、円は小さい時から父がたびたび使っていたこれを、いつか自分でも使ってみたいとずっと思っていた。今が最後のチャンスだろう。それに佐村は神無木操の逮捕に大きく貢献してくれた。報酬を支払う義務が円にはある。


「俺が最高額を書いたらどうするつもりだよ」


「百万円全額ですか? 構いませんよ。今後は佐村さんにお給料をもらう身ですし」


 そう言って、へらっと笑う。


 佐村はつまらなそうな顔で小切手にペンを走らせ、それから円の額に押し付けて来た。


 そこに書いてあった数字を見て、円は目を瞬いた。


〈零円也〉


 どうやら今回は、とことんゼロに縁があるようだ。


「佐村さん、これ」


「神無木夫妻を無事にお前と再会させるっていう仕事は大失敗だ。報酬をもらう謂れはねえよ」


「はぁ……格好付け過ぎですよ、佐村さん」


 これからもっと、世間の寒風にさらされることになるだろうが、ここにいればどんな絶壁でも「さっさと登りやがれ」と尻を蹴り上げて激励してくれる男がいる。円にとって、この男の隣は居心地がいいのだ。


「これから先、世間がお前を悪し様に扱き下ろしても俺は一切庇わねえけどな、仕事だけは干さずにいてやる」


 このぶっきら棒さが、佐村哲という男の優しさなのだろう。


「私は、幸せなんでしょうか」


 空を見上げて円は問う。


「それはお前が決めることだろ。今も、これから先もな」


「……じゃあ、笑おうかな」


 佐村は何も言わずに、ポケットから取り出した何かを中空に投げて片手でキャッチした。


「あれ、それって」


「館の客間のシャンデリアにぶら下がってた硝子だ」


「ですよね。どうしてそんなもの持って来たんですか?」


「兎に万札」


「なんですか、それ」


「俺が作った諺だが?」


 言葉の組み合わせ的に、猫に小判、豚に真珠のような感じだろうか。それにしても意味が分からない。


 そういえば、と円は「兎」というキーワードで、あることを思い出した。


「前に私に心理テストを出したじゃないですか。ほらローマ字のYのやつです。あれ、佐村さんには何に見えてたんですか?」


 メモ帳を取り出した佐村は「Y]に二本の横線を足し「¥」と書いた。


「お金、大好きなんですね。格好付けてないで小切手にちゃんと額を書き込めばよかったのに」


 シャンデリアの涙型の硝子をポケットに突っ込んで、佐村はにやりと意味深な笑みを浮かべた。


 ――それが、硝子の館に隠された無数のダイヤモンドのひとつだったのだと、円はずっと後に知ることになる。


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