第四章 金獣の逆鱗(一)
馬車にカレンを押し込めた後、手綱を握ったのはリューイだった。
御者台に続く小窓から「フロイさんは?」と尋ねると、「羅紗マントを任せてきた」とだけ平坦な声が返る。
馬車がわずかな振動とともに動き出した。御者台のリューイは一度もこちらをみてはくれない。
――何をやっているんだ、わたしは。
自らに課せられた責務を果たそうとしていたはずなのに、どこかで功を焦っていたのだろう。冷静に振り返れば、空回りしていたとしか思えない。リューイはアマニを打ちのめしてから酷く口数が少ない、というよりもほぼ無言だ。
カレンが尋ねればこたえてくれるものの、その態度はこれまでと較べようもない程そっけなかった。
――呆れられていても仕方がない、か。
背もたれに身体を預け、目をつむる。来た道とは違うらしく、馬車はずいぶんと揺れた。
『見つけろ』
脳裏にリューイの声がよみがえる。アマニが羅紗マントの男に向けた言葉だ。
話の前後はまるでわからないが、書状のことだと仮定するなら、今夜、アマニの手に例の遺言状は渡っていない。
あの後、再び羅紗マントの男と接触する危険をアマニは冒さないだろう。
だがそうなると書状はいったいどこにいったのか――誰がこの事態の手綱を握っている?
仮定に仮定を重ねても仕方がないとわかっているが、いまはなにかに集中していたかった。気を抜いてしまえば、どうしても御者台に意識が向いてしまう。
「わたしも大概女々しいな……」
思わず自嘲気味に呟いてしまったが、しくじった挙句の最悪な結果を思えば、ため息も出ない。
――引きずりこまれ押し倒され、相手にこちらの動きを知られてしまうなど、失態すぎるだろ。
己の愚かさ加減に頭を抱えたくなる。実際、カレンはどっぷり落ち込みながら俯き、両手で頭を押さえていたのだが、もやもやする感情の向かう先は、如何あがいても自分しかいない。結局、リューイに助けられてしまった。
がたがたと揺れる馬車の中、今夜の出来事を鬱々と思い返し、ふと違和感を覚えた。目を開け、抱えていた頭をあげる。たしかにどこかおかしなところがあった。だが、突き止める前に突然、馬車が止まった。
「降りて」
開かれた扉の向こうは、見知らぬ場所だ。少なくとも王宮ではない。仮面をつけたままのリューイに倣い、舞踏会から抜け出してきた格好のまま柔らかな地面に降り立つ。明かりといえばリューイが持った洋燈だけだが、すぐ近くに建物があることはわかった。人の気配はなく廃屋のようだ。
「ここは……?」
「王宮に通じる隠し通路がある」
軽い一言に絶句する。隠し通路といえば、だいたいにおいて、その内部は迷路のようになっており、構造を知らぬものが入ればどこに行き着くかわからない。通常は緊急時の脱出に用いられるので、経路は主の一族だけが知りうる秘密となる。外部に通じる通路は、外部から内部へのまたとない進入経路にもなり得るからだ。
如何考えても仮の婚約者である自分が知るべき情報ではない。
「別の経路は」
「なぜ?」
「理由はおわかりでしょう。わたしはタウンハウスに一度帰りますから、どうぞ先にお戻りください」
一歩下がったカレンに、リューイが無言で両手を伸ばした。避けようとしたのだが、背後には馬車があるうえ、足場の悪さに反応が遅れてしまった。
あろうことか腕の中に抱えあげられ、心臓が大きく弾む。
「なにを……っ」
「真夜中だよ、静かに」
しっと注意され、押し黙るしかなかった。理不尽だ。小声で再び抗議してみたが、当然のように取り合ってはもらえない。
黒に塗りつぶされたかのような建物は、小ぶりな館になっていた。リューイはカレンを抱えたまま、迷いのない足取りで地下階に進んだ。がらんとした一室は洗い場のようで、錆びた大なべが石造りの床に転がっている。
――これ以上見てはだめだ。
カレンはリューイの肩口に顔を伏せ、きつく眼を閉じた。
「君も大概頑固だね、ほら、着いたよ」
目を開けて、と促されそろりと瞼をあげる。揺らめく蝋燭の灯に、天井まで届く書棚が浮かび上がっていた。
リューイの私室に隣接する書斎だ。本を借り受けるため、幾度か入らせてもらったことがある。リューイはそのまま私室に進み、ようやく足を止めた。
「……申し訳ありません、重かったですよね。下ろしてください」
運ばれている間、カレンはできるだけ進んでいる方向や時間を意識しないようにしていた。それでも人ひとりを抱えて歩くには、きつい距離だったはずだ。
早く下ろしてもうらおうと身じろぎした途端、一層きつく抱き込まれた。
「どうしてあの男にいいようにされてたの?」
「……っ」
耳元近くで囁かれた声の低さと、含まれた不機嫌さにカレンは身をこわばらせた。いいようにされていたわけではないが、冷静に対処しようとしていた姿は、必死に抵抗しているようにはまったくみえなかったに違いない。
「――下ろしてください、殿下。着替えを」
呼び方を間違えた、と気付いたときには、安楽長椅子の上に落とされていた。螺旋状の発条が仕込まれた椅子はやわらかく、衝撃はほぼなかった。
方法はどうあれようやく解放されたことにほっとする。立ち上がりかけたカレンの前で、蝋燭の灯が翳った。上から覆いかぶさってきたリューイの身体が光を遮ったのだ。
既視感あふれる状況に、仮面に覆われたままの端正な美貌を睨みつける。王宮に来た初日、場所は違えど長椅子に押さえつけられたことが思い出された。
だがいまは暴かれるような秘密は持っていない。
――いや、違う。ひとつある。
知られてはいけない秘密。それはカレンがリューイに向ける恋情だ。
「離してください」
「どうしてあの男にいいようにされてたの?」
仮面を外しながらリューイが同じ質問を繰り返す。濃い茶色の髪がかかる青い瞳は射抜くように鋭い。揺らめく灯りの中、カレンの耳元を掠めた指が仮面と黒髪の鬘を取り払った。熱を持っていた肌には、ぬるい夜気すら心地いい。
「……いいようになどされていません」
「おとなしく寝台におさまっていたように見えたけれど、あれは僕の幻?」
まるで獲物を甚振る獣だ。ゆるく笑みを刻む口元とは反対に目はまるで笑っていない。
表情を隠すものが失われてしまった心もとなさに、つい顔をそむけてしまう。
「まさか合意だなんていわないよね?」
「それは……」
合意ではなかった。それは間違いない。だが、途中で抵抗を諦めようとした事実が、カレンの答えを曖昧なものにしてしまった。
「カレン?」
促すように名前を呼ばれるが、軽蔑の眼差しがあったらと思うと、リューイの顔をまともに見ることができない。
顎を軽くつかまれ上向かされるが、すっと目線をそらす。自分でも大概往生際が悪いと思う。合意ではなかった、抵抗はした、といってしまえば簡単だとわかっているのに、気持ちの整理がつかない。なにより、アマニに押し倒されて感じた嫌悪が、リューイ相手ではまるでないという事実を知られたくなかった。
「……半分、の半分……くらいは?」
搾り出した答えに、しばらくして呆れたような溜息が返され、カレンの髪を微かに揺らした。リューイの重みが長椅子から消える。
役に立てなかったどころか足を引っ張ってしまった。さらに敵に身を任せようとしたなど、見限るには充分すぎる理由だ。締め付けられるように痛む胸をカレンは無意識に押さえ起き上がろうとした。
「わかった。なら邪魔をしてしまった責任をとらせて」
「え、はい?」
長寝椅子から足を下ろす間もなく、ふわりと身体が持ちあがる。リューイの腕に抱え上げられているのだとわかっても、事態が飲み込めない。
リューイは私室の奥にある扉にまっすぐ向かっていた。ひとひとりを抱えたまま器用に扉を開けると、躊躇うことなく部屋の中に入り、すえられた寝台の上でカレンを下ろした。
「責任ってなにを」
「興味があるんでしょう? 閨での諸事に」
なにがどうしてそうなった。端正な美貌というのは、時にひどく感情が読みにくい。
「違います。別段、興味があったわけでは」
「そう? まあどちらでもいいよ」
肩を押され、やわらかな寝具に背中が沈む。圧し掛かってくるすらりとたくましい体躯をカレンは呆然と見上げた。




