第三章 仮面の思惑(一)
とうに夜半を過ぎた時刻――ようやく夜会は終わりを告げた。
散々な目にあったカレンだったが、広間に戻ってのちは、幾人かをリューイから紹介されただけで何事もなく過ごすことができた。
今宵の騒動を考えれば、奇跡的な平穏だったと思う。紹介された者の中には、モネ=ヨークスことコックス伯爵も含まれていたのだが、カインを見知っている彼は、はじめこそカレンの容貌にやや驚いてたものの、終始紳士的で和やかに挨拶を交わすことができた。
「エレノア様は途中で帰られたようですね」
「ああ、気分が悪いからと言っていたみたいだよ」
すっかりくつろいだ様子で長椅子に深く腰掛けたリューイが、ふくよかな香りが漂う白磁のティーカップをゆるりと傾ける。
力を込めたら簡単に割れてしまうのではないかというほど薄く作られたカップの中身は、ポートティーだ。
部屋に戻った後、今夜はこちらに泊まることになっていたリリーに頼んで茶器一式と熱湯を用意してもらったのだが、今宵これから殿下が来られるから、とカレンが言ったときのリリーは、かつてないほど唖然としていた。
『お茶を飲みにいらっしゃるんですか? 殿下が? ……もう夜ですよ?』
身内でも夫でもない男性が女性の部屋を訪れるにはたしかに非常識な時間といえる。
だが、自分はリューイから女性とみなされていない、とカレンは確信していた。おそらく殿下はカンディアにいた頃と同じ感覚でいるのだろう、と。あの時分、夜半に突然やってきてたリューイが、他愛のないことを話して帰っていく、ということが幾度かあったからだ。
それに、エレノアについてリューイに話しておく必要もある。フロイから既に報告は受けているだろうが、アマニが来たこのタイミングで彼女が狙われたのは、遺言状の件に関わっているからなのか、それとも無関係なのか。判断材料が少なすぎることはわかっているが、今後の方針は決めておかなければならない。
『問題ないよ、リリーは下がっていてくれて大丈夫だから』
『――夜会でなにかございましたか?』
『それはもう。波乱の一夜だった』
苦笑するカレンをリリーは物問いた気に見つめていたが、結局何もいうことなく、茶器を用意し、着替えの手伝いを済ませると、一礼して下がっていった。
それからしばらくしてやってきたリューイは、白シャツ、黒い穿衣というくつろいだ姿だった。これは長居をするつもりかもしれない、と自身も楽なモスリンのドレスに着替えていたことに安堵する。旅装にもなるこれは胸の下に切り替えがあるゆったりした形で、コルセットをつける必要がない。
リューイを迎え入れ、茶葉にお湯を注ぎ蒸らしている間、カレンは回廊での出来事を掻い摘んで説明した。
予想通りリューイはフロイからあらましを聞いていたようで、二人分のカップにポートティを注ぎ分けるときには、すっかり話し終わっていた。
「エレノア様は例の件に関わっておられるのでしょうか?」
そうであれば、オルフェン公も一枚かんでいる可能性がでてくる。
「なんともいえないな。君のいうとおり判断材料が少なすぎる」
「そうですよね……ああ、そういえば殿下にお渡しするものが」
クロスの掛けられたテーブルの上に、皮袋から取り出した包みを置く。ハンカチーフで覆われたその中には、刺客が残していった短剣が収まっている。
「エレノア様を襲った賊が残していったものです」
リューイの手が包みをはらりと解く。鈍く光る刃に、僅かばかり瞳が眇められた。
「ふうん、迂闊だね。出所が探れるかやってみよう」
「お願いします」
王都のことであれば、エディンバ家よりも王太子であるリューイの方が出所を突き止められる可能性は高い。
カレンは、ふっと息を吐き、お茶に手をつけた。
「それにしても彼女、まだモネのことを諦めてないんだ?」
感心しているのか呆れているのか判然としなかったがリューイが面白がっているのはなんとなくカレンに伝わってきた。
「そのようですよ。なかなか茨の道とは思いますが、個人的には応援したいですね」
「あれ? 意外と好意的だね」
「まあ……可愛らしいお嬢さんでしたから」
たしかにオルフェン公には思うところがあるカレンだが、エレノア個人に遺恨はない。
寧ろ今後の王国を背負っていく彼女たちには、大いにがんばっていただきたいと思っている。もちろん友好的な関係を築くという方面に限ってだが。
「なんならエレノア嬢のお願いを叶えてみる? 協力するよ?」
つい、ちっと舌打ちしてしまいそうになった。
エレノアがカレンに世継ぎを、と言った分はさっくり説明から省いたはずだった。だが、その部分も含め、フロイはすべてリューイに報告したらしい。
――あの男、余計なことを……。
「馬鹿なこといわないでください。遠慮しますよ、もちろん」
呆れたため息をつき、一息にお茶を飲み干した。白磁の器を音を立てず受け皿に戻す。
いままで流されて有耶無耶になっていたが、そろそろリューイの態度をどうにかすべきだと、カレンは居住まいを正した。
「殿下、この際だから言っておきます。わたしに対するそういう気遣いは無用です」
「そういう気遣い?」
訝しそうなリューイに、しっかりと肯く。
「ええ、その気がなくても女性に口説き文句を言うのは社交術のひとつなのかもしれませんが、わたしにはやめて下さい」
これ以上、余計な感情を持ちたくはないし、持つべきでもない。双方にとって得るものはなにもないし、面倒な事態になるばかりだ。
固唾を呑むカレンの前で、リューイはティーカップを持ったまま黙り込んでいる。感情のみえないまったくの無表情というのは珍しい。
「殿下?」
「わかった」
つい声をかけてしまったのと、茶器をテーブルに戻したリューイが肯いたのはほぼ同時だった。
「え、本当で」
「つまりその気があればいいんだよね?」
「え……いえ……あの、そういうことでは」
――いやでもまて、この場合、本気であればいい、ということは、つまりわたしに対してそういう態度はとらない、と言っているに等しい、のか?
右手で額を押さえ、リューイの本意をさぐりあぐねていたら、長椅子がきしりと軋んだ音を立てた。
いつの間にかカレンの隣に長身が立っている。右手がつかまれ、顎を持ち上げられたと思ったら、身をかがめたリューイの唇が左耳にあたった。
「カレン、今夜はこのまま一緒に」
頭の芯が痺れるような、甘い囁き。
――舌の根も乾かぬうちに、このひとは……。
口元に笑みを刷いたカレンは、静かに腹を立てていた。椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり、リューイの鼻先に人差し指を突きつける。
「リューイ殿下! ほんっと、いい加減にしてください。そもそも殿下は女性に対してもう少し誠実であるべきです。とっかえひっかえとっかえひっかえ、そういう不誠実な態度が本来なら無用な厄介ごとを招きよせるんですよ? わかってますか?」
一息に言い切った。カンディアから領地に戻って以来、いや、リューイと離れてからこちら、久々に声を張り上げた気がする。
肩で息をするカレンに、リューイが目を瞠っている。それはそうだろう。はしたないどころではない。淑女、というよりももはや大人のとるべき態度ではない。
まるで子供のようだ、とやや冷えてきた頭に理性が戻ってきたところで、カレンは己の失態に顔を引きつらせた。
どうしてこうもリューイ相手だと感情の制御が上手くいかないのか。突きつけた指の先で、リューイが口元を押さえ俯いた。
「……殿下?」
恐る恐る声を掛けてみる。
「……ふ、ふふ、あはははは……っ」
はじけるような笑い声。リューイが腹を押さえ、くの字に身を折り、笑い転げている。
怒りの矛先を失ったカレンは呆気にとられ、突きつけていた指を力なく落とした。
「ごめ……ごめんね……?」
切れ切れに謝られるが、リューイが笑い止む気配はない。目じりにうっすら涙まで浮かべられては、もう如何とでもしてくれ、という心境になってくる。
「はあ、もういいです……殿下ならどんな女性でも誑しこめますよ。でもわたしにそれは必要ありません。そこだけはくれぐれもお願いします」
なんだか真面目に対峙しようとしてた自分が馬鹿馬鹿しい。
リューイにとっては本当になんでもないことを自分が過剰に受け止めすぎていたのだろう、とカレンは判断した。
「ああ、久しぶりだよこんなに笑ったの」
ようやく笑いを治めた王太子殿下は、実に晴れ晴れとしている。
「そうですか、それはよかったですね」
ぷいっと横を向き投げやりに答えると、脈絡なく腰を引き寄せられた。
「だけどね、僕の女性に対する君の理解はどうかと思うよ?」
「おおむね正しいと思ってますけど」
首を傾げたカレンは、自分の理解をまったく疑ってはいない。けれど、真実想いを寄せる人にはリューイも違う一面を見せるのだろう、とは思う。
――わたしには知る由もないことだが。
リューイとカレンの間には五年の空白が横たわっている。いるべき場所に戻り、すべき役割をこなしてきたであろう年月。空白の数年間、少なくともカレンはリューイがなにを思ってきたのかを知らない。
「……まあ追々、かな」
「え?」
聞き取れなかった呟きにカレンが顔をあげると、胡散臭い笑みでなんでもないと言われた。だが、リューイのその言葉ほど当てにならないものはない。
「この後だけれど、しばらくは夜会に付き合ってもらうことになると思う」
「わかりました。当初の予定通りですね」
「そうなるね。宰相殿の到着まであと半月足らず、とりあえずは相手の出方を待とうか」
宰相の息子であるアマニが来たことで相手が動く可能性は高い。へたにこちらか仕掛けて警戒されるよりも、油断して尻尾を出させるというのは順当なところだろうとカレンは肯いた。それが合図であったかのように、抱きとめていた腕がするりと解かれる。
「――もう一杯お茶を淹れましょうか?」
「いや、今夜はもう戻るよ。いい子にしてるって約束したしね」
「先ほどからなんですかいい子って。あなたがいい子であったためしはないでしょう。あ、それと殿下、帰られる前にひとつお願いが」
「ん? なにかな?」
「フロイさんをわたしにつけるのやめて下さい」
「気に入らなかった?」
黙りこんだカレンに、リューイが悪戯めいた笑みをみせる。
「うん、そうだろうなとは思ったんだよね」
――思ったのか。なのにわたしにつけたのか。嫌がらせか? 嫌がらせなのか?
「でもね、君のお願いであってもそれは却下。彼、腕は立つよ?」
それはわかっている。仮にも王太子殿下の護衛につくだけの実力者だ。けれど、どうにもカレンはフロイと気が合いそうにない。
しかしここは個人の感情を優先させるべきところではない、ということもわかっていた。
「……わかりました」
不承不承、不満を滲ませつつも承諾したカレンの頭を、リューイが笑いながら撫でる。まったくの子ども扱いにむっとし、べしっとその手を払いのけた。
「お引止めしてもうしわけありませんでした。もうお帰りください」
「そうするよ、ごちそうさま」
ずいぶんとぞんざいな扱いを受けたにも関わらず、リューイはくくっと笑って背中を見せた。薄手のシャツ越しに、昔とは違うたくましさが覗いている。
――結局、いいように踊らされているな。
はあ、とため息が漏れた。情けないのか悔しいのか。判然としないまま、カレンはリューイの背中をじっとみつめる。
突然、扉の前でリューイが振り向いた。見送るため後に続いていたカレンが足を止めると、両肩にリューイの手が乗せられ、今度はなにごとかと身構える。
「なんでしょう?」
「おやすみのキス。カインの時にはしてたよね?」
「……あれは子供だったからであって」
それもずいぶんと昔のことだ。いまさらそんな真似ができるはずもない。一歩うしろに下がろうとしたが、肩をつかんだリューイは許してくれなかった。
「もうふざけてないでお戻りください。殿下は明日も政務があるのでしょう?」
「そうだね、だから早くキスして?」
あくまでも引く気はないらしい。リューイのシャツを両手でつかんで、爪先立ちになる。カレンはそのまま伸び上がり、滑らかな頬に軽く口付けた。
さっと離れると、リューイが虚を突かれたように立ち尽くしている。
――ふん、これ以上いいように遊ばれるつもりはない。
「お望みどおりにいたしました。さあ、早くお休みください」
リューイの胸に両手をついて扉のほうに押しやると、その腕が強い力でつかまれた。
「……っ」
「ねえ、僕がいま話しているのは、カレン? それともカイン?」
引き寄せたカレンの耳元で、リューイが低くささやく。
「……? おっしゃっている意味がよく」
わからないのですが、という前に、意外に柔らかな唇が額に落とされた。
「殿下?」
反射的に眼を閉じてしまったカレンが再び瞼を開けたとき、リューイの姿は既に扉の向こうへ消えていた。




