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右にある心臓  作者: 二条理|アコンプリス


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第七章〈現在〉“関係者”

 事故の報告書は、紙の匂いが薄い。

 薄いのは、印刷が新しいからではない。内容が軽いからだ。軽い事故は、扱う側の手つきを軽くする。軽い手つきは、書類の端を丸め、語尾を短くする。短い語尾は、現実を小さく見せる。

 真壁彰は紙を指先で押さえ、文字の列を追った。追えば追うほど、胃の奥に重さが残った。

 追突事故。信号待ちで停車中、後方から追突。脇見運転。右側頭部を強打。意識障害は軽度。右耳の聴力に後遺症の可能性。搬送先で経過観察、家族同席、警察には物損扱いでの連絡――。

 どれもありふれている。ありふれていることが、今日に限って怖い。ありふれた出来事は量が出る。量が出ると、線を引きやすい。線を引いた側が勝つ。

 捜査員が言った。

「事件性はありません」

 声はいつも通りだ。いつも通りの声は、いつも通りの結論を運ぶ。

 真壁は顔を上げ、問う。

「……それで終わるか?」

 問いは相手に向けたもののようで、自分に向けたものだった。終わるはずがない。終わらないことを、真壁はこの数日で学んだ。学んだのに、止め方が分からない。止め方が分からないとき、人は書類の外を見る。書類の外にあるのは、ニュースだ。

 会議室のスクリーンに、記事の一覧が映された。

 見出しが並ぶ。どれも短い。短い言葉ほど、脳に残る。

 「『逆の心臓』の医師が解剖した遺体の家族に事故」

「検案の遺族、追突で負傷」

「関係者に相次ぐ不運」

 「関係者に相次ぐ不運」

 断定はない。だが配置が同じだ。主語の近くに「逆」。次に「関与」。次に「家族」。次に「事故」。最後に「右」。語の置き方は文章の骨だ。骨が同じなら肉付けはいくらでも変えられる。骨が同じ文章は、読み手の中で同じ意味を作る。

 二階堂壮也が淡々と言った。

「どこも断定してない。でも、同じ位置に同じ語を置いてる。型だ」

 真壁は椅子にもたれずに座っていた。もたれると、会議が長くなる気がした。長くなる会議は、火に酸素を送る。

 真壁はスクリーンを見たまま言う。

「九条は会ってない。遺族とも面識がない」

 二階堂は首を横に振るでもなく、僅かに顎を引いた。

「会ってないから、否定できない。否定しようがない関係ほど強い。会ってないって言うほど、相手は“見えない影響”って言える」

 真壁の奥歯が軋んだ。

 見えない影響。言われた瞬間に、現実の手が届かなくなる。手が届かない場所で言葉だけが増える。増えた言葉は、あとから訂正しても消えない。訂正は最初の見出しより弱い。弱い言葉は、勝っている物語の周辺でしか生きられない。

 二階堂は続ける。

「それに今回は、九条が不在で起きた。そこが肝なんだよ。本人の行動と切り離しても線が引ける、って示せた。次からは、何でも繋げることができる」

 真壁は反射的に言い返す。

「線を引いてるのは誰だ。事故を起こしたのは脇見運転だろ」

 二階堂の目が一瞬だけ鋭くなる。鋭さは怒りではない。現場を知っている人間の疲れだ。

「だから、現場は事故で終わってるんだよ。終わってるから、外が好きに書ける。捜査側の“正しい処理”が、向こうの自由度を上げる」

 好きに書ける。

 その言い方が、真壁の胸を刺した。刑事の仕事は、好きに書かせないためにあるはずだ。証拠と手続きで、好き勝手を止める。止めるための制度。

 だが、いま相手にしているのは制度の外で作られる物語だ。物語は証拠を必要としない。必要としないから速い。速いものは、慎重なものを追い越す。追い越したあと、追いつけなくなる。

 真壁は会議室の窓の外を見た。

 ビルの谷間を救急車が走っていく。サイレンは遠い。遠いサイレンほど耳の奥に残る。九条の呼吸音も、動画の音も、同じ残り方をする。残った音は、いつか誰かの見出しになる。

 二階堂が、机の上に別の紙を置いた。

 報道の初動分析。見出しのパターン。引用のされ方。SNSの拡散の波形。

 波形の隣に、二階堂の手書きのメモがある。「関係者」という単語が、何度も出てくる。

「“関係者”って語は便利だ。事実にも嘘にも乗る。責任も薄い。“関係者によると”で何でも言える。否定すると、こいつも関係者だって強調される。否定は、相手の枠を補強する」

 真壁は紙を見ながら言った。

「じゃあ、どうすりゃいい。放っとけってか」

 二階堂は一拍置いた。間は、言葉を刺すための間だった。

「放っておくのも、動くのも、どっちも地獄だよ。ただ、今は矛先が九条の身体に刺さり続けてる。ここを変えないと、次の段階で“信じる/信じない”の争いに入ってしまう。そこに入ると、もう理屈が効かない」

 真壁は眉を寄せる。

「飛躍だろ」

 二階堂はスクリーンを切り替えた。小さな記事の断片が並ぶ。

 “可能性”。

 “かつて共同体と関係があったと言われる”。

 “取材に応じなかった”。

 断定していない。だが匂わせている。匂わせは読む側に答えを作らせる。作られた答えは、書いた側の責任から外れる。

「断られた事実が記事になるんだ。“沈黙が意味深”ってやつ。こっちは守られてる沈黙でも、向こうは“隠し事”って書ける」

 会議室の空気が重くなる。重さは、誰も大声を出さないから生まれる。大声を出さない会議ほど、決まっているものがある。決まっているのは結論ではない。逃げ道のなさだ。

 真壁は立ち上がった。

 椅子が僅かに鳴る。鳴る音が、会議の終わりを告げる音に聞こえた。

「俺が行く」

 二階堂は止めない。止めると理由になる。理由になると、また記事になる。

 二階堂はただ言った。

「行くなら、言葉を持って行くなよ。怒りも。正義も。全部、向こうの燃料だから」

 真壁は返さなかった。返す言葉がない。代わりに握った拳をほどき、手を開いた。開いた手は、守る手にも殴る手にもなる。どちらにするかは決めない。決めないまま現場へ行く。現場はここではない。九条の部屋だ。

 九条雅紀のマンションは、昼でも静かだった。

 静かだからこそ、外の気配が大きく見える。エントランスのガラスに映る人影が、どれも敵に見える。敵に見えるのは、相手が敵だからではない。自分の中の警戒が増えすぎているからだ。真壁はその警戒を抑えた。抑えないと、九条の部屋の空気まで壊す。

 インターホンを押す前に、九条からメッセージが来た。

「上がってください」

 呼ばれている。その事実が胸を少しだけ軽くする。軽くなるのに足取りは重い。呼ばれたからこそ、言うべきことが増える。

 扉が開く。

 九条は室内着ではない。仕事帰りのままに見える服。襟の角度が整い、袖口に余計な皺がない。整えているのは、生活のためではない。外の目に対する防具だ。防具は役に見える。役に見える防具は、皮肉だ。

「座って」

 九条が短く言った。

 テーブルを挟んで、二人は向かい合う。距離は学生の頃より遠い。遠いのは物理だけではない。真壁は距離を縮めない。縮めると「守っている」が形になる。形になった守りは、役を増やす。

「事故の件」

 真壁が切り出すと、九条は頷いた。

「見た」

 淡々とした声だった。淡々としているほど、胸の奥が荒れているのが分かる。荒れているのに、呼吸は乱れていない。乱れていないことが、また外にとっての材料になる。落ち着いているのが不気味。感情がない。そう言われる型がある。

「俺たちが動かないと、止まらない」

 真壁は言ってから、自分の言葉の乱暴さに気づく。止まらないという断定は、相手に選択を迫る。選択を迫られると、九条は自分を削って最短の答えを出す。

 九条は視線を少し落として言った。

「動くと、理由になる」

 理由になる。九条の言葉は現実の計算だ。計算は正しい。正しい計算が、人を救わないことがある。救わない計算は、人を静かに殺す。

「理由にならない動きがあるだろ」

 真壁が言うと、九条は首を振らない。首を振ると反論になる。反論は物語を増やす。九条は増やしたくない。

「俺が話せば、俺が説明係になる。話さなければ、隠しているになる。どっちも、終点は同じだ」

 真壁はその語を嫌った。終点と言われた瞬間に、希望が削られる。削られた希望は怒りになる。怒りは燃料だ。

「じゃあ、俺が話す」

「あなたが話すと、あなたが関係者になる」

 低い声が胸に残る。

 真壁は黙り込んだ。反論すれば、九条の言う通りになる。沈黙が落ちる。沈黙は誠実だ。誠実だからこそ残酷だ。誠実な沈黙は、相手の痛みをそのまま部屋に置く。置かれた痛みは、家具のように動かせない。

 九条はコップに水を注いだ。水の音がやけに大きい。部屋が静かすぎるからだ。真壁はその音を聞きながら、深夜の動画の音を思い出す。音は切り取られる。切り取られた音は文脈に乗る。文脈に乗った音は、本人のものではなくなる。

「……俺は」

 真壁は言いかけて止めた。止めるのは、言葉が乱暴になるのを怖れているからだ。怖れているのに、ここで止めると、また遅れる。

「守る」

 短く吐いた。

 守る、という語は危険だ。守るは、守られる側を弱く見せる。弱く見せると、役が増える。

 九条は息を吸い直し、答えた。

「守られると、役が固まる」

 固まる。固まった役は外から剥がれない。剥がれない役は皮膚になる。皮膚になった役は、本人の呼吸を狭くする。

「じゃあ、どうすればいい」

 真壁の問いは初めて弱さを含んだ。弱さは本来、信頼の材料だ。だが今は違う。弱さすら切り取られる。

 九条は答えない。答えがないからではない。答えを出すと、その答えが次の武器になるからだ。

 真壁は立ち上がり、窓際へ行った。カーテンの隙間から外を見る。道路の向こうに、見慣れない車が停まっている。停まり方が不自然だ。ハザードもなく、運転席だけが暗い。人がいるのかいないのか分からない。分からない形が一番いやらしい。

真壁はカーテンから指を離した。指を離すだけで、呼吸が少し戻る。

真壁は窓を閉めたまま、低く言った。

「外にいる」

 九条の肩が僅かに動く。恐怖ではない。疲労だ。境界を失った生活の疲労。

「ここ数日、ずっとだ」

「警察に言わないのか」

「言ったら、また理由になる。“通報した”が記事になる」

 通報さえ燃料になる。正当な行為が、物語の補強材になる。

 真壁は歯を噛んだ。昔の父の声が、頭の奥で鳴る。場を荒らすな。だが今は、場はすでに荒らされている。荒らしたのは言葉だ。言葉を相手にするには、こちらも言葉を持つしかない。持つ言葉を誤れば火は大きくなる。誤らない言葉など、どこにもない。

 その夜、二階堂は広報フロアに一人残っていた。モニターには複数のタイムライン。記事、動画、コメント、まとめサイト、切り抜き。速さの種類が違うものが、同じ場所に流れ込んでいる。

 二階堂は紙にペンで図を描いた。九条を中心にしない図。遺体を中心にしない図。事故を中心にしない図。線の向きを変え、矢印を減らし、過剰な単語を外す。外した先に残るのは、事故は事故という単純な事実だけだ。

 単純な図は正しい。

 正しいが、広がらない。

 広がらないのは、面白くないからだ。面白くないものは拡散の燃料にならない。燃料にならないから、人の頭に残らない。残らない図は負ける。

 二階堂はペン先を止め、余白を見つめた。余白に、昔自分が見たテロップの形が浮かぶ。

 〈関係者が語る恐怖〉

 あの手の言葉は恐怖を理解に変える。理解は安心を与える。安心は思考を止める。思考が止まった場所に、役が置かれる。役が置かれると、人は動けない。

「……面白さを奪わないと、壊れない」

 二階堂は小さく呟いた。呟きは蛍光灯に吸われ、外へ漏れない。漏れない場所でしか言えない言葉がある。奪うという語は倫理を刺す。刺した倫理を飲み込む覚悟がないと、誰も守れない。

 真壁のスマートフォンが震えた。二階堂からのメッセージだ。

「図を作り直す。九条を中心にしない。けど広がらない。広げるなら、面白さを削る覚悟がいる」

 真壁は文を読み、返さなかった。返した瞬間、真壁自身が文章になる。文章になった真壁は、誰かの見出しになる。

 九条の部屋では沈黙が続いていた。沈黙の間に、九条が吸い、吐く。発作ではない。だが胸が重い。重いのは身体のせいではない。意味のせいだ。意味は、呼吸より先に人を窒息させる。

 真壁はテーブルの上の紙ナプキンを一枚取り、指で折った。折る動作は無意味だ。無意味な動作は、言葉の代わりになる。言葉にすると壊れるものがある。

 真壁は折った紙を置き、九条を見る。

「昔の話を、掘られてる」

 九条の目が僅かに細くなる。掘る、という語の現実味。掘られた過去は本人の過去ではなくなる。編集された過去は現在を縛る。

「……保健の授業のことが、出てた」

 真壁は息を止めた。保健。人体模型。左右。過去の入口が、いまの見出しに繋がる。繋がった瞬間、過去は“証拠”になる。証拠になった過去は、誰にも返せない。

 窓の外で、遠くの車のドアが閉まる音がした。音が夜に響く。響いた音が、どこかのマイクに拾われる気がする。拾われる気がするだけで、九条の肩が僅かに上がった。上がった肩は、深夜の動画の呼吸に似た動きだ。

「九条」

 真壁が呼ぶ。名前を呼ぶだけなら、物語になりにくい。なりにくい行為だけを選ぶしかない夜がある。

「今夜は、俺がここにいる」

 九条は返事をしない。返事をしないまま、呼吸を数える。数えた呼吸が、誰にも切り取られないことを祈るように。

 その瞬間、真壁の耳の奥で学校のチャイムが鳴った気がした。現在の沈黙に、過去の金属音が重なる。重なった音は、白い人体模型の箱の蓋の音へ変わる。蓋が開く音。左右が示される音。そして、言葉にしてはいけない告白が、言葉として生まれる音。そして――九条の口から出るはずのなかった説明が、説明として生まれる音。

 チャイムの残響が、ゆっくりと現在から過去へ滑っていく。白い模型の胸郭。赤い線で描かれた血管。教師の指先が示す位置。その位置が、九条の人生に役を貼りつける。

 過去の教室へ、戻る。


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