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愛を知る犬

ちょっとだけ、家族と愛犬を思ってかきました。愛犬ちゃんの死期が近く彼女の行先がこうだだたらと願いを込めて。

 夕暮れの光が畳に細長く影を落としていた。

 その影の中心で、細い体を小さく丸めているのは、イタリアングレーハウンドのなずなだった。

十四年という長い年月を、井上家と共に生きてきたおばあちゃん犬である。


 台所の方から、夏美の慌ただしい足音と、皿が割れる乾いた音が響く。

 「わ、やっちゃった……!」

 そんな声が聞こえても、なずなは目を細めるだけだ。ご主人の声は、叫び声ですら、なずなにとっては子守歌だった。こんなに雑な性格なのに、手先は器用でなずなの服は全て夏美の手作りだった。


 ふと視線を移せば、机に向かって難解そうな本をめくる正史の姿。眉間に寄った皺とは裏腹に、ページをめくる指先はどこか優しい。犬と暮らすのは初めてだと言っていた男が、いまではなずなの体温で季節を知るほど、深く情を寄せるようになっていた。

そっと足に触れると、笑みを浮かべて抱き上げてくれる。大きく、暖かな腕はなずなのお気に入りである。


 そして、階段を駆け下りる小さな足音。

 「なずなー! おふろ入ろ、いっしょに!」

 八歳の琢磨が笑顔で飛び込んでくると、その声だけで体の芯が温まる気がした。

 なずなにとって琢磨は、弟でもあり、時には守るべき息子でもある。

生まれた日から見守ってきた、愛おしい存在だ。正史と夏美が紹介してくれたあの日、この子を守ろうと固く誓った。


 その夜のお風呂は格別だった。琢磨が背中を優しくなで、湯気が老いた体を包み込む。

 ――ああ、幸せだわ。

 ふとそんな想いが胸に満ちていく。

琢磨が楽しそうにその日の出来事をなずなに報告する。それが2人のお風呂の楽しみ方。


 しかし、月が天高く昇る頃、なずなは静かに悟っていた。

自分の寿命が、そっと尽きようとしていることを。

 窓辺の定位置に横たわり、夜空を見上げる。

 白い月の光が、どこか懐かしい母の手のように降り注いでいた。


 ――みんな、幸せでいてね。

 琢磨が元気に大きくなりますように。

 夏美が笑って、たくさんの「うっかり」を楽しんでいけますように。

 正史が、不器用な優しさを胸に家族を守れますように。


 そして……もし来世があるのなら。


 ――人間になりたいわね。


 琢磨のように、思いきり駆け回ってみたい。


 ――久しく走っていないもの、きっと楽しいわね


 夏美のように、手で何かをつくってみたい。


 ――夏美の様に誰かのために何かを作りたいわね。


 正史のように、本を読んで世界を知りたい。


 ――琢磨の質問攻めにも負けない知識。素晴らしいと感じたわ。


 なずなはゆっくりまぶたを閉じ、月に祈った。

 ――叶うなら……どうか、もう一度。家族を愛せる生をください。


 その瞬間、世界がふっと静かになった。

 風が止み、月の光だけが濃くなる。

 耳の奥で、鈴のような小さな音が響いた。

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