喜界島巴 002
人という物が質量を持って、かつ不透明であり、それが光を遮っている限り、影というものは出来る。のである。その、筈。
然し、だ。僕の知る人間、喜界島巴はその影というものを持ち合わせていない。全く、だ。それはまあ、見て判る通り、この世界の摂理に反している。僕らはこの世界の中に生きている以上、幾ら法律やら条例やらに背く事をしても、少なくとも物理法則に背く事をしてはならない。というか、背けない。
もう一度、然し。彼女、喜界島巴はそれを易々とやってのける。やってのけた、やってのけている。この世界の中に生きながらにして、影という物を持っていない。果たしてそれが最初から持っていなかったのか、失ったのか、落としたのかは判らない。勿論、影なんて物は交番に預けられる物はではなく、まして拾って届けてから三ヶ月後に自分の物になる様な物ではない。
彼女の事が気になっている理由というのは、そういう事だ。僕が経験した中では、二番目、いや、三番目の「普通に考えてあり得ない」事象。我が身の次は、意外にも近くの女子生徒に降りかかっていたのだ。気付けなかった僕も馬鹿だが。
そう、これは初めてでは無い。それこそまさに、青天の霹靂の様な事を僕は経験した。と、いってもその日は土砂降りの日、電気の柱が幾つも地上に落ちて来る様な日だったのだが。まあ、その話は後にして。
どうした物だろうか、と一つ溜息を吐いた。出来る事ならば、僕は彼女と関わりたいし、関わってあげたい。それがダメならせめて____
「こんばんは。曲間水面同級生。元気そうで何よりだわ」
背後から声がした。それも、耳元で。「誰だ」と言おうとしたが、声の主は直ぐに分かった。昨日の女子生徒。喜界島巴。
「こっちを向かないで。恥ずかしいから」
喜界島の声と共に、僕の口に限界まで伸ばされたカッターナイフが捻じ込まれた。少し舌に当たった。血の、いや、鉄の味がした。気がした。喜界島は右手でカッターナイフを僕の口にエントリーさせ、空いた左手で僕の額を抑えた。そして段々と上を向けていく。僕の頭は成す術なく上を向いていく。すると彼女はあろう事か、一直線になった僕の食道に躊躇なくカッターナイフを押し込んだ。壁面に刃を当てない様に、慎重、迅速かつスピーディーに。今の状況を四字熟語で的確に表せ、と言われたら迷わず選ぶのは「絶体絶命」。付け合わせに「のピンチ」も欲しいところだ。
「昨日、私が下校した時、見たでしょう? 私を」
はい。見ました。とてもびじんさんだとおもいました。なんて小学生並みの感想を垂れ流したいところだがお生憎様な事にそうもいかない。何故なら手綱を握られてしまったから。
「__見えなかったでしょう? 私の、影」
バレている。やはり、声を漏らしたのがいけなかった。あのせいで僕は今こうなっているんだ。もし僕にタイムリープの能力が備わっていたならば、あの時の僕の口にカッターナイフでも捻じ込んでやるところだ。
「イエスならば右手で壁を二回ノック、ノーならば一回ノックして頂戴? 左手でノックしたり、三回ノックするなんて面白い事をしたならば、貴方の喉が楽しい事になるわよ?」
二回壁を叩いた。ふふ、なんてお上品な笑い声が聞こえたが、喜界島は今、どんな表情をしているのだろうか。ところで、さっきから喜界島の体の前面が僕の背中に密着しているせいで、素晴らしく柔らかい感触がする。まあ、今の僕にその情緒を楽しめる余裕なんて、少ししか無いのだが。
「本当、夕陽なんて見なければ良かった。「少しだけ」は身を滅ぼすとは、よく言ったものね?」
二回壁を叩いた。
「ところで、私の後に学校から出てきた、というのは、以前から私の秘密__影の事を知っていたからかしら?」
一回だけ壁を叩いた。
「そう。つくづく馬鹿な事をしたものね。私も」
一回だけ壁を叩いた。
「……どういうつもり?」
こいつ、馬鹿だ。喜界島は馬鹿だった。成績は優秀らしいが、煽られる事に対して一切の耐性の無い馬鹿だ。煽っているつもりは無いのだが。イエス、もしくはノーしか答えられないこの状況で、所謂5W1Hの質問をされたら、最早僕に勝ち目は無い。モールス信号を送ろうにも、三回ノックしたら僕の喉が楽しい事になるらしいので、精々「A」くらいしか伝えられないだろう。そもそも僕はモールス信号なんて打てない。
「ごめんなさいね。今の貴方は碌にお喋りも出来ないのでした」
まさか喜界島はさっきまで、僕が喉の奥までカッターナイフを突っ込まれたまま、お喋りができると思っていたのだろうか。
「ま、いいわ。私の要求は一つ。私に影が無い事を周りに言いふらさない事。そして、私を見ない事。気にも留めないで。それだけよ」
二つ要求してるじゃないか。何を言っているんだこの女は。一つだけという約束が、一つの台詞が終わる前に破綻してしまっているじゃないか。
「返事が無いわね? おかしいわ」
急いで二回、壁を叩いた。
「そう。ありがとう」
繊細な手付きで僕の喉からカッターナイフを抜いていく。段々と軽くなる息に僕の体は安堵を覚えた。チキ、チキ、チキ、と、その身長を短くしていくカッターナイフ君。君の役目はお終いだ。そう心の中でほくそ笑んだ時。
最後の最後の刀身が仕舞われなかった。
それはあろう事か僕の下歯茎を切り裂いた。
「____ッ!?」
瞬間、激痛。少し遅れても脳に伝わらない鉄の、いや、血のフレーバー。
彼女は最後の最後に最後の最後の刀身を仕舞った。チキ、という音。ビクリと脊髄が疼いた。しまった。してやられた。もう僕は一生カッターナイフの刃を仕舞えないだろう。
「曲間水面同級生、さようなら。ごきげんよう」
自身の鞄を携えて廊下を去っていった。影は携えていなかった。僕は、口腔内の痛みに暫くのたうちまわっていた。意識を確かに持って、冷静にさせる。やっと痛みが治まった時には、僕の元を去ってから二分ほどが経っていた。
「____追いかけなきゃ」
鞄を携え、廊下を走り出した。影も、忘れずに携えて。
傷は癒えた。傷は消えた。血は止まった。
僕の代償。僕が失ったもの。僕が得たもの。
僕は__傷つく事が出来なくなった。
走る、走る、走る、走る。廊下を、全力で、走り抜ける。楔無高校には廊下を走って良いという校則などない。どころか、走るのは禁止されている。廊下の中央を通る白線より右側を歩かなければならない。
だが、知ったことか。彼女も僕も同じだ。僕が命を願ったのと同じように、彼女だって、何かを願ったはずなんだ。その代償として影を持って行かれた。ただそれだけが違うだけなんだ。彼女を助けられるのは僕しかいない。
そしていよいよ廊下を曲がった時、昇降口に差し掛かる通りに彼女はいた。
「__驚いたわ。まさかあなたにそんな事ができただなんて」
「自分でもびっくりだよ」
喜界島はカッターナイフを取り出した。まるで手品だ。どこからともなく現れたカッターナイフ。それを一つ、二つ。二刀流のように構える。それだけじゃない。三本四本と取り出したカッターナイフの刀身を慣れた手つきで引き出し、それはついに六本目になった。それを指の間に差し込む。まるでメリケンサックだ。
「安い同情は嫌いなの。一歩でも動いてご覧なさい。私は容赦なくあなたを傷つける」
一歩、踏み出した。
それだけじゃない。二歩、三歩。どんどん喜界島に近付く。
「いいわ__あなたにその覚悟があるのなら、そうしましょう」
そして喜界島が構える寸前。僕は僕の右腕を喰い千切った。手首の辺りを、景気良く。
「__え」
止め処なく溢れる血潮。おそらく僕の口元も赤く染まっただろう。口内には血液の味が満遍なく広がっているわけなんてなかった。
「あなた、それってどういう__」
口に残る自身の肉塊を吐き捨てる。それは少し廊下を跳ね回った後、大人しくなった。
血はとっくに止まり、廊下に溢れたそれは煙と共に消えていく。先程僕が吐き捨てた肉塊も同じように。
「喜界島。僕ならば__君の影を取り戻せるかもしれない」
僕の右腕は既に元通りになり、絶好調を記録していた。




