四話
耳の奥にまだこびりつく、鬱陶しい声。
消そうと、忘れようとするがそれは一向に消えない。苛立ちに似た憎悪がふつふつと湧き上がる。
凛は頭を振った。
障子で作られた窓から差し込む月の明りがゆらりと足元を照らす。
「……あいつ」
じっと足元を凝視していた凛の頭に、ふいに過ぎった男の顔。
男というには幼い、青年の顔。
まだ数回しか顔をあわせていない彼女と何かを話していた。けれどそれは好意的ではないとすぐに分かった。
夏梨と話しているはずの青年の瞳は、彼女を映すことなく凛へと向いていた。
その瞳はぞっとするほど憎悪で塗り固められ、射るように凛を見つめていたのだ。
「あいつは、確か」
どこかで見たことのある顔だった。
今より幼い、幼少の頃の青年を。
けれど考えれば考えるほど、その面影は薄くなっていく。
それに苛立ちを覚え凛は前にどこかで会ったのだろう、と結論付けた。
凛は着物の裾をなびかせて踵を返す。
ふすまを開け、無駄に広い廊下に足を踏み入れたとき、
「あ……」
ちいさな少女の声が聞こえた。
「凛」
戸惑いがちに声をかけてくるのは夏梨だ。
お風呂から上がったばかりなのか、綺麗な黒髪はまだ濡れていた。
少女が動くのと同時に、ふわりと嗅いだことのない匂いが鼻腔をくすぐる。
「凛もお風呂?」
じっと黙っている凛を不審に思ったのか、小首をかしげる。
不意に、消し去った声がよみがえる。
「なぜここにいる」
「え?」
苛立った声に微かに夏梨が震えた。
夏梨に与えられた自室は凛の部屋の前を通らなければ辿り着けない。他にたくさん道がありそうなのだが、なぜか夏梨の部屋に行くのにはそれしか道がないのだ。
それは梶が意図的に仕組んだ部屋割りだった。
「凛……?」
夏梨がここを通るのは知っているはずなのに、耳底に潜む声が無意味に苛立ちを増幅させる。
射るような視線が夏梨を捕らえた。
「……どう、したの?」
細く紡がれる声にぴくりと凛が揺れる。
「どうしたの?」
なにが、どうしたというのだ。
凛には夏梨の言うことがわからない。
じっと見つめる彼女の瞳は僅かに揺れている。
「なんでそんなに……」
辛そうな顔――
その言葉に凜は目を見開いた。
動揺の色が広がる。凜は片手で顔を覆った。
「凜?」
心配そうな顔が視界に入る。
辛そうな――辛そうな顔などしていない。
何も、辛くはないのだから。
昔からのことだ。慣れ切っている。
それをこの少女に、たかが生け贄になにがわかる。
「わかるよ」
ぽつりと、そう呟く。
「……わかる? お前に? たかが生け贄のお前に何がわかる」
「わかるよ」
「だから、お前に何が……!!」
苛立つ。
少女の口から紡がれる言葉が、無性に苛立った。
わかったような口調で、じっと見つめてくるその瞳が。
何も知らない、そんな無垢な瞳。黒い、どろどろとした感情など向けられたこともないと言わんばかりのその澄んだ瞳が。
凛は思わず声を荒げる。
「だって凛、辛いんでしょ……?」
ゆっくりと、優しさを含んだ声が耳に届く。
目を見開き、凛は夏梨を凝視した。
なにを、言っているのだろうか。この女は。
自分に今にも泣きそうな顔でそう訴える夏梨に、凛は不思議なほど冷静に考えていた。
「凛、辛そうな顔してるから。……なにかあったの? 悩みとかなら――」
「なにもない」
「でも……」
「辛そうな顔もしていない」
「凛っ……!!」
凛はそのまま横を通り過ぎる。後ろから夏梨の呼び声が聞こえたが、無視して足を進めた。
広く長い、無愛想な廊下。
もうどこへ向かおうとしていたのかすら忘れてしまっていた。
ただ脳裏にあるのは、視線をそらすことなく見詰めてくるあの少女の瞳。