第3話 波の音に隠れて
暖かさを感じぐっと伸びをしてみれば、時計の針は午後一時を少し過ぎていた。
澪は布団の中で何度か瞬きをしてから、ゆっくりと体を起こす。カーテンの隙間から差し込む陽射しは明るく、今日もよく晴れているらしい。
昨夜、眠りについたのは午前六時を過ぎた頃だった。
結局、昨日も早く眠ることはできなかったけれど、普段よりは少し早く目が覚めたことになる。
「……一時かぁ」
枕元のスマートフォンで時間を確認し、澪は小さく息を吐いた。
今日は母とお菓子を作る約束をしている。
午前中だけの勤務だからもうそろそろ帰ってくる頃だろうか。そう考えていると、一階から食器の触れ合う音が聞こえてきた。
どうやら、母はすでに帰宅していたらしい。
澪は慌ててベッドを降り、洗面所へ向かった。
鏡に映った自分の顔は相変わらず眠そうで、目の下には濃いクマが残っている。寝癖のついた長い髪を手櫛で整え、顔を洗ってから歯を磨いた。
腰まで伸びた髪は、今の澪にとって少し扱いにくい。洗うのにも乾かすのにも時間がかかるし、家事をするときは邪魔になる。
それでも、切ろうという気持ちにはなれなかった。
髪を後ろで一つにまとめ、いつものゆったりしたTシャツに着替える。
寝間着と大して変わらない格好だったけれど、今日は外へ出かける予定もない。
階段を降りると、台所から母の声が聞こえてきた。
「あら、澪。おはよう」
「……おはよう、お母さん」
「今日はちょっと早いのね」
「うん。昨日よりは……」
澪が少し恥ずかしそうに答えると、母の美和は柔らかく笑った。
「ちょうどよかった。お昼ごはん、これから食べるところだったの。一緒に食べる?」
「……うん。食べる」
「じゃあ、手を洗ってきてね」
テーブルには二人分の昼食が用意されていた。
温かいうどんと小さなおにぎり。それから、昨日の夕食で残ったきゅうりの和え物も並んでいる。
澪は母の向かいに座り、手を合わせた。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
久しぶりに母と二人で食べる昼食だった。
普段、母はパートに出ていることが多く、澪が起きる頃には家にいない。
父も朝から仕事へ行っているため、昼食は一人で済ませることがほとんどだった。
だから、こうして誰かと一緒に食べられるのは少し嬉しかった。
「今日、お仕事どうだった?」
「今日はね、朝からちょっと忙しくて。お惣菜を並べても並べても、すぐに売れちゃうのよ。やっと一段落したと思ったら、今度はお弁当の追加を頼まれて」
「大変だったね」
「そうなの。でも、午前中だけだったから、あっという間だったわ」
美和はうどんを食べながら、職場であった出来事を話してくれた。
新しく入ったパートの人がとても明るいこと。
店長が発注する商品の数を間違えて、倉庫がいっぱいになってしまったこと。
常連のお客さんが家庭菜園で採れた野菜を持ってきてくれたこと。
どれも、特別な話ではなかった。けれど、澪は母の話を聞くのが好きだった。
自分の知らない場所で起きた、何でもない出来事。
誰かがちょっとした失敗をして、別の誰かが笑って、それでも一日は普通に過ぎていく。
そういう話を聞いていると、外の世界が少しだけ身近に感じられた。
「澪は昨日、何時頃に寝たの?」
「……五時くらい、かな」
「あら、またそんな時間まで起きてたの?」
「うん。ごめん」
「謝らなくてもいいのよ。ただ、あんまり夜更かししてると体によくないからね」
「……うん」
美和はそれ以上何も言わなかった。
以前は、もう少し早く寝た方がいいとか、朝ごはんを一緒に食べようとか、そんな話をすることもあった。
けれど最近は、澪の生活リズムについて強く言うことはなくなっていた。
もちろん、美和が澪のことを心配していないわけではない。そして、母が自分を気遣ってくれていることは、澪にもわかっていた。
それがとてもありがたくて、だからこそ、申し訳なくなる。
もう二十一歳なのに、こんな生活を続けている。本当なら、自分で生活を整えなければいけない年齢のはずだった。
「……お母さん」
「ん?」
「私、もう少し早く起きられるようにするね」
美和は箸を止め、澪の顔を見た。
「そう? でも、無理しなくていいのよ」
「うん。でも、やっぱり……ちゃんとしなきゃって思うから」
「……そうね。少しずつでいいと思うわ」
母はそう言って、穏やかに微笑んだ。
澪も小さく頷いたものの、その「少しずつ」がもう何年も続いていることを思うと、素直には喜べなかった。
◇
昼食を終え、食器を片付けると、美和が冷蔵庫を開けながら尋ねた。
「さて、今日は何を作ろうかしら」
「……お菓子?」
「そう。昨日、約束したでしょう?」
澪は少しだけ目を丸くした。
「覚えてたんだ」
「当たり前じゃない。澪が何を作りたいか考えておいてって言ったでしょう」
「あ、うん。考えてたよ」
「何がいい?」
「えっと……パウンドケーキ、かな」
「パウンドケーキ?」
「うん。前に作ったとき、お父さんがおいしいって言ってくれたから」
「ああ、あのときの。確かにおいしかったわね」
美和は冷蔵庫から卵とバターを取り出し、材料を確認し始めた。
「薄力粉もあるし、お砂糖もあるわね。ベーキングパウダーは……あったあった。これなら買い物に行かなくても作れそう」
「よかった」
「プレーンにする? それとも何か入れる?」
「……あ、チョコチップ残ってなかった?」
「チョコチップ?」
「この前、クッキー作ったときの」
「ああ、そういえば」
美和が戸棚を探すと、小さな袋に入ったチョコチップが見つかった。
「これね。ちょうど使い切れそうよ」
「じゃあ、チョコチップ入りにしようかな」
「いいわね。お父さん、喜びそう」
二人で材料をテーブルに並べ、エプロンを身につけた。
澪は長い髪を結び直し、ボウルにバターを入れる。少し前に出したバターはまだ硬く、泡立て器で練ろうとしてもうまく混ざらなかった。
「あれ、なかなか混ざらない……」
「まだ冷たかったかしら」
「うん。ちょっと硬い」
「少しだけ温める?」
「そうする」
電子レンジでほんの少し温め、柔らかくなったバターを泡立て器で練っていく。砂糖を加えると、最初は重たかった手応えが少しずつ軽くなる
「澪、ずいぶん手際がよくなったわね」
「そうかな?」
「ええ。最初に一緒に作ったときなんて、卵を割るのもおっかなびっくりだったのに」
「……それ、いつの話?」
「引っ越してきて、まだそんなに経ってない頃よ」
「ああ……」
澪は少し考えてから、苦笑した。
「あのとき、殻がいっぱい入っちゃったんだよね」
「そうそう。結局、お母さんが全部取ってあげたのよ」
「覚えてる。あと、粉もこぼした」
「あら、よく覚えてるわね」
「だって、台所が真っ白になっちゃったもん」
二人で顔を見合わせ、笑った。
引っ越してきたばかりの頃は、卵を一つ割るのにも苦労していた。
それが今では、母と並んで台所に立っていても、手伝ってもらうことのほうが少なくなった。
澪はボウルの中身を混ぜながら、あの頃よりは少し上達できたのかもしれないと思った。
「はい、卵」
「あ、ありがとう」
母から卵を受け取り、一つずつ割り入れる。生地が分離しないよう、少しずつ混ぜていく。薄力粉をふるい入れると、美和が横からゴムべらを差し出してくれた。
「はい、これ」
「ありがと」
「混ぜすぎないようにね」
「うん。わかってる」
澪は笑いながら答えた。
「もう何回も作ってるんだから」
「あら、そうでした」
美和も笑った。
粉っぽさがなくなったところでチョコチップを加え、生地を型へ流し込む。表面を平らにならしてから、予熱しておいたオーブンへ入れた。
「よし。あとは焼くだけ」
「お疲れさま」
「お母さんも」
オーブンの扉を閉めると、澪はようやく一息ついた。
焼き上がるまで、まだ四十分ほどある。
使った道具を洗い、台所を片付けてから、二人でリビングへ移動する。
美和がお茶を淹れてくれたので、澪はそのカップを受け取り、ソファに腰を下ろした。
「……こういうの、久しぶりだね」
「そうね。最近は澪が一人で何でも作ってくれるから、一緒に台所に立つことが少なくなったものね」
「……うん」
「お母さん、たまにはこうして一緒に作りたいわ」
澪はカップを両手で包み、少し考えてから頷いた。
「……私も」
「そう?」
「うん。楽しいから」
美和は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、また作りましょうね」
「うん」
澪は温かいお茶を一口飲んだ。
母と一緒に何かを作る時間は、好きだった。
何を話せばいいのか考えなくても、自然と言葉が出てくる。失敗しても笑っていられるし、わからないことがあれば気軽に尋ねられる。
家族と一緒にいるときだけは、昔の自分に少し近づける気がした。
けれど、そんな時間にも、ふと不安が顔を出す。
いつまでもこれだけをしていていいのだろうか。
澪はその答えから目をそらし、カップの中を見つめ続けていた。
「……澪?」
母の声に顔を上げる。
「どうかした?」
「……ううん。何でもない」
「そう?」
「うん。ちょっと、ぼーっとしてただけ」
澪は微笑み、もう一口お茶を飲んだ。
母はそれ以上尋ねず、テレビの話題を口にした。澪もその話に相槌を打ちながら、なるべく余計なことを考えないようにしていた。
◇
焼き上がったパウンドケーキは、思っていた以上によく膨らんでいた。オーブンを開けると、甘いバターの香りが台所いっぱいに広がる。
「……ふふ」
澪は思わず声を漏らした。
「いい感じね」
「うん。とってもおいしそう」
竹串を刺して焼き上がりを確かめ、型から取り出す。表面はきれいなきつね色で、中央には自然な割れ目ができていた。
粗熱が取れるまで待ってから、二人で一切れずつ味見をする。
「……おいしい」
澪が呟くと、美和も頷いた。
「本当ね。チョコチップもちょうどいいわ」
「よかった。ちょっと入れすぎたかなって思ったけど」
「これくらいでいいんじゃない? お父さん、甘いもの好きだし」
「うん」
澪は自分の皿に残ったケーキを、小さなフォークで切り分けていく。外側は少し香ばしく、中はしっとりしており、チョコチップの甘さもちょうどよかった。
自分たちで作ったものを食べて、おいしいと笑い合う。それだけのことが、嬉しかった。
夕方になると、残りのケーキをラップで包み、父の分を取り分ける。そのあと澪は、夕食の準備を一緒にしながら母と他愛のない話をした。
今日のお菓子はうまくできたこと。
次はクッキーにするか、マフィンにするか。
冷蔵庫の牛乳が少なくなっているから、明日買ってきてもらいたいこと。
ごく普通の、家庭の会話だった。
◇
夜になって父が帰宅すると、夕食後に三人でパウンドケーキを食べた。
「お、うまいな。これ、澪が作ったのか?」
「うん。お母さんと一緒に」
「そうか。いやあ、店で売っててもおかしくないぞ」
「もう、お父さん。大げさだよ」
澪が苦笑すると、修司は真面目な顔で首を振った。
「いや、本当にうまい。俺はこういうの好きだな」
「ふふ。よかったね、澪」
美和も笑っている。澪は少し照れくさくなりながら、二人の顔を見る。
「……また作るね」
「ああ、楽しみにしてる」
「今度は違うお菓子にも挑戦しましょうか」
「うん」
その日の夕食は、いつもより少し賑やかだった。
やがて食器を片付け、台所をきれいにしたあと、澪は自分の部屋へと戻っていく。
時計は既に午後十時を回っていた。
今日は、楽しかった。
母とお菓子を作って、父にも喜んでもらえた。
何か特別なことをしたわけではないけれど、昨日よりは充実した一日だったように思う。
それなのに、部屋で一人になると、また少しずつ不安が戻ってきた。
明日は何をしよう。
明後日は。
来週は。来月は。来年は?
考え始めると、きりがなかった。
澪はベッドに腰掛け、スマートフォンを手に取った。
求人サイトをまた開こうかと思った。昨日も見たばかりだったけれど、今日なら少しは違う気持ちで見られるかもしれない。
そう考え、画面を操作する。
けれど、求人一覧が表示されると、やはり指が止まってしまった。
仕事内容。
勤務時間。
応募資格。
面接。
知らない人と話すことを想像しただけで、胸が苦しくなる。
――もし、職場で誰かに自分のことを知られたら。
――もし、昔の話を聞かれたら。
――もし、またあのときのようになったら。
そこまで考えて、澪は画面を閉じた。
「……だめだなぁ、私」
小さく呟き、スマートフォンをベッドに置いた。
今日は楽しい一日だったはずなのに、最後にはまた同じことを考えている。
何も変わらない。
自分は、いつになったら普通の生活ができるようになるのだろう。
澪はしばらくベッドに座ったまま、ぼんやりと壁を見つめていた。
◇
午前一時を過ぎた頃、澪は部屋のカーテンを少し開ける。
外はひっそりとして、耳鳴りがするほど静かだった。住宅街にはほとんど明かりがなく、通りを歩く人の姿も見えない。昼間は時折聞こえてくる車の音も、この時間になるとほとんどなくなっている。
澪は窓の外を眺めながら、少し迷った。
今夜は、海へ行こうか。
毎晩出かけているわけではない。
天気が悪い日もあるし、気分が乗らないこともある。そもそも外へ出るのは、今でも怖かった。
けれど、ときどき、どうしても家の中にいられなくなる夜があった。
誰かに会いたいわけでも、どこかへ遊びに行きたいわけでもない。ただ、部屋の中で同じことばかり考え続けていると、ときどき無性に外の空気が吸いたくなる。
そんなとき、澪は海へ向かうことがあった。
深夜の海なら、人に会うことはほとんどない。
誰も自分を見ていない。
誰も、自分に何かを求めてこない。
それが、今の澪にとって何よりありがたかった。
「……行こうかな」
小さく呟き、立ち上がる。
クローゼットから薄手のパーカーを取り出し、Tシャツの上に羽織った。下は動きやすい長ズボンに履き替え、足元には履き慣れたスニーカーを選ぶ。
腰まで伸びた髪を低い位置で結び、顔を隠すようにマスクをつけた。最後に帽子を深くかぶってから、パーカーのフードをかぶる。
鏡を見ると、暗い色の服に身を包んだ、小柄な女性が映っていた。
スマートフォンと鍵をポケットに入れ、部屋の電気を消す。階段を降りると、家の中は当然のように静まり返っていた。
父も母も、すでに眠っている。
澪は玄関で靴を履き、そっとドアを開けた。
夜の空気が頬に触れ、少しだけ体を震わせる。
九月に入ったとはいえ日中はまだ暑い日が続いている。けれど、深夜の風には少しだけ秋の気配が混じっていた。
澪は周囲を見回し、誰もいないことを確かめてから静かに家を出た。
玄関の鍵を閉める音が思ったより大きく響く。それだけで少し緊張してしまう。
澪は小さく息を吐き、海へ向かって歩き始めた。
◇
夜の住宅街はとても静かだった。
街灯の下を通り過ぎるたび、足元に長い影が伸びていく。家々の窓は暗く、通りに人の姿はない。
ときおり遠くで車の走る音が聞こえるものの、それもすぐに消えてしまう。
澪はフードを深くかぶり、足早に歩いた。
昼間なら、同じ道を歩くことはできなかったと思う。
すれ違う人の視線が怖い。
知らない人に声をかけられるのが怖い。
たとえ相手が自分のことを知らなくても、どこかで見覚えがあると思われるのではないか。
普段ならそんな心配ばかりが頭に浮かぶものの、夜なら少しだけ違った。
誰もいない道を歩いている間は、自分が誰なのかを気にしなくて済む。
汐崎澪という名前も、昔の出来事も、今の自分が何をしているのかも、誰にも知られない。そんな、一人だけの世界に心地よさを感じていた。
十分ほど歩くと、潮の匂いが強くなっていく。
遠くから波の音が聞こえると、澪は少しだけ歩く速度を緩めた。
住宅街を抜け、海岸へ続く道を進むと、視界が開けていく。そして、暗い海が目の前に広がっていた。
空には雲が少なく、月の光が水面に細く伸びている。遠くには船のものらしい小さな明かりが見え、規則正しい波が砂浜へ打ち寄せているのがぼんやりと見えていた。
澪は立ち止まり、しばらく海を眺めていた。
「……きれい」
誰に聞かせるでもなく呟く。
この街へ引っ越してきてから、何度も見てきた景色だった。それでも、夜の海を見るたびに、少しだけ気持ちが落ち着いた。
波が寄せては返す。
風が髪を揺らす。
どれも、澪が何を考えていようと変わらない。
悲しいことがあっても、嬉しいことがあっても、海は同じようにそこにある。
澪は砂浜へ降りると、波打ち際から少し離れた場所まで歩いていく。足元の砂は昼間の熱を失い、ひんやりとした冷たさが靴越しにも伝わってくるようだった。
周囲には誰もいない。
念のため、海岸の左右を見渡す。近くの遊歩道にも当然のように人通りはない。
澪はそこまで確認すると、安心したかのようにフードを下ろし、帽子とマスクを外した。
長い髪を結んでいたゴムも外すと、風に乗って髪が背中へ広がっていく。
しばらくそのまま海を眺めていたが、やがて澪は砂浜に腰を下ろした。
膝を抱え、波の音に耳を澄ませる。
何も考えずにいられたらいいのに。そう思うけれど、頭の中は相変わらず忙しかった。
今日、母とお菓子を作ったこと。
父がおいしいと言ってくれたこと。
求人サイトを開いたのに、結局何もできなかったこと。
明日も、きっと同じような一日になるのだろうということ。
考えたくないことほど、次々に浮かんでくる。
「……どうしたらいいんだろ」
澪は膝に顔を埋めた。
答えてくれる人はいない。
波の音だけが、ただ静かに鳴り響いていた。
しばらくそうしていたけれど、やがて澪は顔を上げた。
海を眺めながら、ゆっくりと息を吸う。
そして、ごく小さな声で、鼻歌を口ずさんだ。
「……んー……」
最初は、ほとんど音にならなかった。
喉の奥で、かすかな響きが生まれる。
澪は一度息を吐くと、もう一度すうっと息を吸った。
今度は少しだけ長く音を伸ばしてみる。
波の音に紛れるような、小さな歌声。
それでも、自分の耳にはちゃんと聞こえた。
澪は目を閉じた。
口ずさんでいるのは、昔から知っている何でもない旋律。子供の頃に何度も歌った、穏やかで優しい歌。
歌詞も、ほとんど覚えている。
けれど、今は言葉にせず旋律だけをなぞった。
誰もいないとわかっていても、声を出すのは少し怖かった。
いつ誰かが通りかかるかわからないし、遠くに人がいたとしても、この暗さでは気づけないかもしれない。
だから、波の音に紛れるくらいの小さな声で歌う。それが、今の澪にできる精一杯だった。
かつてのように、思い切り声を張り上げることはできない。
高い音を長く伸ばしたり、胸いっぱいに息を吸って歌い上げたりすることも今は怖かった。
けれど、音を探す感覚はまだ体に残っていた。
次にどの音が来るのか、どこで息を継げば旋律が途切れないのか、そんなことは考えなくても自然にわかる。
少し高い音へ移るところで思うように声が伸びず、澪は一度歌うのをやめたが、息を整えてもう一度同じところから歌い直してみた。
今度は、うまく繋がった。
嬉しくなってそのまま続きを口ずさんでいると、いつの間にか最初より少しだけ声が大きくなっていた。
四年間、ほとんど人前で歌っていなくても、その感覚だけは忘れていなかった。
澪はゆっくりと立ち上がる。
足元の砂を軽く払い、海へ向かって立つと、もう一度歌い始める。
今度は、少しだけ声を大きくしてみる。
風に乗れば、すぐに消えてしまうような大きさ。
波が強く打ち寄せれば自分でも聞こえなくなるような、そんなささやかな歌声。
それでも、澪は歌い続けた。
声が波の音に溶けていく。その感覚が、少し心地よかった。
ここには拍手も歓声もなかった。
歌い終えたあと、誰かの顔色をうかがう必要もない。
ただ波の音に紛れるように声を出しているうちに、澪は少しずつ、歌うことそのものに夢中になっていった。
澪は目を閉じ、旋律に身を任せる。
歌っている間だけは、胸の奥に溜まっていたものが少しずつほどけていくような気がする。
けれど、完全になくなるわけではない。
声を出すことへの恐怖も、昔の記憶も、歌をやめればまた戻ってくる。
それでも、ほんの短い時間だけなら。
誰もいない、この場所でなら……
やがて曲が終わると、彼女はゆっくりと息を吐いた。
「……ふぅ」
少し喉が疲れていた。以前なら、こんな短い歌で疲れることなどなかったはずなのに。
澪は自分の首元に手を当て、軽く苦笑した。
「……全然、声出ないなぁ」
昔の自分と比べれば、声量も持久力も落ちている。
長い時間まともに歌っていないのだから、当然だった。
それでも、ちゃんと歌えた。
誰にも聞かれず、誰にも見られず、ただ自分のために歌うことができた。
澪は海を見つめた。
月の光が、水面の上で揺れている。
「……やっぱり、好きだな」
小さな声でそう呟いた。
歌うことが好きだった。
音楽を聴くことも、曲を作ることも、誰かと一緒に演奏することも。
今でも、その気持ちは変わっていない。
ただ、誰かに聴いてもらうことだけが、怖くなってしまった。
誰かの前に立って歌う。
自分の声を聴いてもらう。
そこにいる人が、どんな顔をしているのかを見る。
以前は、何より楽しかったことだった。
けれど今は、想像しただけで胸が苦しくなる。
もし、誰かがここへ来たら。もし、自分の歌を聴かれていたら……
そう考えた途端、澪は喉がきゅっと縮こまるのを感じた。
さっきまで自然に出ていた声がうまく出せなくなり、慌てて口を閉じて周囲を見回す。遊歩道にも、砂浜にも、人の姿はなかった。
「……大丈夫、だよね」
自分に言い聞かせるように呟き、もう一度息を吸ってみたものの、やはり歌声にはならなかった。
澪は諦めて唇を閉じると、胸元で握りしめていた両手をゆっくりとほどいた。
再び海へ目を向ける。
波の音は、さっきと変わらず続いていた。
それが少し寂しくて、同時に安心できた。
「……今日は、もういいかな」
そう呟いて、澪は砂浜に座り直した。
無理に歌おうとは思わなかった。
ここに来たからといって、必ず歌わなければいけないわけではない。ただ海を眺めて、波の音を聞いているだけでもよかった。
しばらくすると、先ほどまでの緊張も薄れていった。
澪は膝を抱え、静かに海を見つめていた。
それからどれくらい時間が経っただろう。
スマートフォンを取り出すと、午前二時を少し回っていた。家を出てから、もう一時間近く経っている。
そろそろ帰らなければ。
あまり長く外にいると、人と会うかもしれないし、両親が起きたときに心配するかもしれない。
澪は立ち上がり、服についた砂を払った。
髪を結び直し、マスクをつけ、帽子をかぶってからパーカーのフードをかぶる。
さっきまで海に向かって歌っていた自分が、少しずついつもの姿に戻っていく。
澪は最後にもう一度、海を振り返った。
月の光に照らされた波が、静かに砂浜へ打ち寄せている。
ここだけは、安心して歌える。
誰もいない、深夜の海。
波の音が、自分の声を隠してくれる場所。
今の澪にとって、歌える場所はここしかなかった。
「……またね」
小さく呟き、海に背を向けた。
◇
帰り道も、住宅街は静かだった。
街灯の下を歩きながら、澪は今日のことを思い返した。
母と一緒にお菓子を作った。
父がおいしいと言ってくれた。
そして、歌も歌えた。
今日は、悪くない一日だったと思う。
けれど、それで明日への不安がなくなったわけではない。
家に帰れば、またいつもの生活が待っている。
昼過ぎに起きて、家事をして、夕食を作って、眠れない夜を過ごす。
海で歌えたからといって、明日から何かが変わるわけでもなかった。
澪は足元を見つめながら、ゆっくりと歩いた。
将来のことを考えると、やはり怖い。
このまま歳を重ねて、自分はどうなってしまうのだろう。父と母に、いつまで頼っていられるのだろう。
何かを始めなければいけないことは、わかっている。
けれど、どうしても一歩を踏み出せない。
それが、ただただ情けなかった。
家に着くと、澪はできるだけ音を立てないように玄関を開ける。家の中は暗く、まだ両親が起きている気配はなかった。
パーカーと帽子を脱いで髪をほどき、マスクを雑に外すと洗面所で顔を洗う。鏡には、いつもの自分が映っていた。
澪はそれから目を逸らすと、部屋へと戻っていった。
ベッドに腰掛けると、スマートフォンを手に取る。
時刻は午前二時半。まだ眠れそうになかった。
何となく、今日撮った写真を見ようかと思い、写真アプリを開いてみる。
母と一緒に作ったパウンドケーキ。焼き上がった直後の写真と、切り分けて皿に載せた写真が残っている。
美味しそうなその姿に、澪は少し微笑んだ。
次は何を作ろう。
クッキーもいいし、マフィンもいい。母と一緒なら、少し難しいお菓子にも挑戦できるかもしれない。
そんなことを考えながら写真を閉じると、しばらくしてスマートフォンを枕元に置いた。
そのまま澪は布団に入り、目を閉じる。
耳の奥には、まだ波の音が残っているような気がした。
寄せては返す、静かな波。
その音に隠れるように、自分の小さな歌声が重なる。
歌っている間だけは少しだけ楽になれるけれど、あの場所を離れた今はもう声を出す気にはなれなかった。
澪は布団を肩まで引き上げ、静かに息を吐いた。
「……おやすみなさい」
誰に向けたわけでもない挨拶だった。
窓の外にはいつもと変わらない夜の街が広がっている。明日もきっと同じような一日になるのだろう。
澪は、目を閉じたまま知らず知らず瞼に力を込めていた。




