第2話 止まった時間
目が覚めたとき、部屋の時計は午後二時を知らせていた。
澪は、薄いカーテン越しに差し込む陽射しをぼんやりと眺めながら、しばらく布団の中で動かずにじっとしていた。
今朝はたしか午前五時を過ぎた頃には寝ることができたと思う。
何かをしていたとかではなく、ただ単純に眠れず、スマートフォンで動画を見たり、意味もなく天井を眺めたりしているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。
ここ数年、ずっとそんな調子だった。
枕元のスマートフォンを手に取り、画面を確認する。
2029年9月3日(月)
それだけ確認して、スマートフォンを伏せる。
もう九月になっていた。
世間では夏休みが終わり、学生たちが学校へ戻っている頃だろう。
朝になれば制服姿の子供たちが駅へ向かい、夕方には友達同士で話しながら帰ってくる。
中には何かの活動に勤しんだ結果、帰るのが夜になって怒られてしまう子もいるのかもしれない。
そんな当たり前の日常が、今も変わらず続いている。
けれど、澪には関係のないことだった。
高校を辞めてから、もう四年以上が経っている。
あの頃は、こんなに長く何かをしない生活が続くなんて思っていなかった。
最初は、少し休めば元に戻れると思っていた。
しばらくすれば騒ぎも収まり、みんなも忘れてくれるかもしれない。
そうしたら、また普通に学校へ通えるかもしれない。
けれど、結局そうはならなかった。
人の噂は七十五日というが、果たして人は噂が消えるまでの間、無事平穏で耐えることはできるのだろうか。
答えは、少なくとも澪の中においては決まっていた。
噂を聞いた学友から好奇の目にさらされ、中にはデリカシーのかけらのない言葉をかけるものもいた。
もちろん友達は庇ってくれたが⋯⋯今思えばもうあの時点で澪の精神は限界だったのだ。
学校や家へ好奇心から近づく人々は、騒動が始まってから後を絶たなかった。
顔を隠すようにして登下校をしていた毎日。
やがて外へ行こうとするだけで胸が苦しくなり、靴を履くだけで体が震えるようになった。
両親や先生とも何度も話し合ったが、最後には自ら退学という選択をしたことは、正解だったのだろうか。
それから間もなく、家族で東京を離れることとなった。
引っ越し先は、海の近くにある地方の街。
父が仕事の都合をつけ、母も新しい土地でパートを探した。
誰も知らない場所なら、澪も少しは安心して暮らせるのではないか⋯⋯。
両親はきっとそう考えてくれたのだと思う。
実際、こちらへ来てから、澪のことを知っている人に会うことはほとんどなくなった。
誰かに指を差されることも、知らない人から声をかけられることもない。
家に鳴りやまない電話がかかってきたり、玄関の前で見知らぬ人が騒いだりすることもなくなった。
そのことには、心から感謝している。
ただ、安心して暮らせる場所ができたからといって、以前の生活に戻れるわけではなかった。
澪は布団から起き上がると、足を床へとつけた。
立ち上がると、わずかに眩暈がする。
寝起きのせいなのか、生活リズムが乱れているせいなのか、自分でもよくわからない。
ふと視線を向けた壁に掛けられた鏡には、見慣れた自分の姿が映っていた。
腰のあたりまで伸びた、暗い焦げ茶色の髪。
寝癖のついた前髪と、目の下に浮かぶクマ。
昔よりもずっと白くなった肌には、健康的な血色がほとんどない。
身につけているのは、何年も前から着ている大きめのTシャツと、くたびれたスウェットだ。
髪を最後に美容院で切ったのは、いつだっただろう。
東京にいた頃は、顎から肩にかかるくらいの長さにしていた。
友達から似合っていると言われたショートボブ。
今は伸びるたびに邪魔になった前髪だけを自分で切り、ほかはほとんど伸ばしたままになっている。
最初は、美容院へ行くのが怖かっただけだった。
知らない人と向かい合って、何十分も話をする。
それだけのことが、どうしてもできなくなっていた。
けれど、髪が伸びていくうちに、別の理由もできた。
昔とは違う髪型なら、誰も自分が汐崎澪だと気づかないかもしれない。
そんな思いが心のどこかにあった。
澪は鏡に映る長い髪を見つめ、指先で毛先を軽く持ち上げた。
昔の自分とは、ずいぶん違う。
たったそれだけのことが、今の澪には少しだけ安心できる理由になっていた。
「……顔、洗お」
澪は独り言を呟き、部屋を出る。
廊下はシンと静まり返っていた。
父は朝早くから仕事へ出かけており、母も近所の店へパートに行っている。
母の勤務時間は日によって違うが、平日の昼間は家を空けていることが多い。
だから、この時間の家にはたいてい澪しかいなかった。
洗面所で顔を洗い、歯を磨く。
長い髪を適当に軽くまとめてから、一階のリビングへ降りていく。
テーブルの上には、母の字で書かれたメモが置かれていた。
『澪へ
冷蔵庫にお昼ごはんを入れてあります。
起きたらちゃんと食べてね。
今日は五時頃に帰ります。
お母さんより』
澪はメモを手に取ってしばらく眺めると、丁寧にテーブルの上に置き直す。
冷蔵庫を開けると、ラップのかかったおにぎりと卵焼きの入った小さな皿があった。
忙しい中、朝のうちに作ってくれたのだろう。
「……ありがとう、お母さん」
誰もいない台所でそう呟きおにぎりを取り出すと、電子レンジで温めてからテーブルに座って食べ始めた。
母の作る卵焼きは、少し甘い。
昔から変わらない味で、澪の好きな味だ。
けれど、食欲はあまりなかった。
半分ほど食べたところで箸が止まり、残りをどうしようか迷ったものの、母が作ってくれたものを残すのは申し訳なくて、時間をかけて全部食べていく。
やがて食事を終えると、澪は食器を持って台所へと向かった。
台所の乾燥ラックに置かれていた皿を棚へ戻し、シンクで食器を洗ってまたラックに皿を置くと、今度はシンク自体を洗い始める。
それから洗濯機を確認し、朝のうちに母が回しておいた洗濯物を取り出した。
外へ干すこともできなくはないが、家の前を通る人と顔を合わせるのが嫌で、普段は二階の室内物干しを使っている。
父のシャツ、母の仕事着、自分の服。
一枚ずつハンガーに掛け、皺を伸ばしていく。
やがて洗濯物を干し終えた澪は、今度はリビングの掃除に取り掛かった。
掃除機をかけ、棚の埃を拭き取り、テーブルの上を片付けていく。
ひとつ作業を終えるたびに部屋が綺麗になっていくのは、悪い気分ではなかった。
全部終わると、もう一度リビングを見渡した。
特に汚れているところは見当たらなかったが、それでも何かやり残したことがないかと探してしまう。
結局、何も見つからなかった。
時計を見ると、まだ午後四時にもなっていなかった。
澪はリビングのソファに腰を下ろし、テレビをつける。
画面には平日の情報番組が映っていた。
知らない芸能人が新しい店を紹介し、出演者たちが楽しそうに笑っている。
少し見ていたものの、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
リモコンでチャンネルを変える。
別の番組では、就職活動についての特集が流れていた。
『最近は企業側も、若い世代の働き方に対する意識の変化を感じているようで――』
澪は反射的にチャンネルを変えた。
今度は料理番組だった。
それなら見ていられそうだと思い、しばらく画面を眺める。
けれど、さっきテレビから聞こえてきた言葉が、頭から離れなかった。
就職――
仕事――
将来――
自分は、これからどうすればいいのだろう。
今年で二十一歳になった。
同い年の人たちは、大学に通っているか、もう働いている年齢だった。
高校を卒業して就職した人なら、社会人になって三年以上が経っている。
大学生だって、そろそろ卒業後の進路を考え始める頃だろう。
それなのに、自分は高校すら卒業していない。
最終学歴は中学校卒業。
アルバイトの経験もなければ、資格もない。
履歴書に書けるようなことは何もなく、知らない人とまともに会話する自信さえなかった。
この四年間、自分は何をしてきたのだろう。
もちろん、何もせず過ごしてきたわけではない。
家のことはできるだけ手伝ってきたし、夕食も澪が作るようにしていた。
でも、それは仕事ではない。
お金を稼いでいるわけでもなければ、自分の生活を自分で支えているわけでもない。
父と母が働いてくれているから、この家で暮らせている。
そんな当たり前のことを考えるたびに、胸の奥が重くなった。
「……どうしよう」
テレビの音に紛れるほど小さな声だった。
何かしなければいけないことは、わかっている。
けれど、いざ何かを始めようとすると、どうしても手が止まってしまう。
以前、母が調べてくれた高卒認定試験の資料は、今も自分の部屋に置いてある。
参考書も何冊か買った。
試験に合格すれば、大学や専門学校を目指すことだってできる。
けれど、机に向かって参考書を開くと、決まって昔のことを思い出してしまう。
何とか集中しようとしても、気づけば同じページを何十分も眺めていることがあった。
仕事についても同じだった。
求人サイトを開けば、「未経験歓迎」「学歴不問」と書かれた募集はいくつも見つかる。
自分にもできる仕事があるかもしれないと思い、何度か応募しようとしたこともあった。
けれど、応募画面で名前を入力しようとすると、いつも指が止まる。
もし、昔のことを知られたら――
もし、名前を検索されたら――
そう考えると、それ以上は進めなかった。
結局、今回も応募することなく画面を閉じるのだろう。
そんな自分の姿が簡単に想像できてしまい、澪はテレビの電源を切ると、ソファで膝を抱えた。
静かな部屋に、壁時計の針が進む音だけが響いていた。
◇
午後四時半を過ぎると、澪は夕食の準備を始めた。
冷蔵庫を開け、中にある食材を確認する。
豚肉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。野菜室にはキャベツが半分残っていた。
「……今日は肉じゃがにしようかな」
そう誰に言うでもなく呟くと、澪はじゃがいもの皮を剥き、食べやすい大きさに切っていった。
にんじんを乱切りにし、玉ねぎを薄く切る。
包丁を動かす手つきは慣れたもので、考え事をしていても自然に作業が進んだ。
料理を覚え始めたのは、引っ越してきてしばらく経った頃だ。
最初は簡単な炒め物や味噌汁くらいしか作れなかったけれど、母に教わったり、料理の動画を見たりしているうちに、少しずつ作れるものが増えていった。
今では、冷蔵庫にあるもので一通りの家庭料理を作れる。
それは自分でも少しだけ得意だと思えることだった。
鍋に油を引き、豚肉と野菜を炒める。
だしと調味料を加えると、甘辛い香りが台所に広がった。
煮込んでいる間に米を研ぎ、炊飯器にセットする。
味噌汁の具を切り、冷蔵庫に残っていたきゅうりで簡単な和え物も作った。
そんなことをしているうちに、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
母の声だった。
「おかえり、お母さん」
澪が台所から顔を出すと、仕事用のバッグを肩に掛けた母、美和が玄関に立っていた。
「あら、澪。もう夕飯作ってくれてるの?」
「うん。今日は肉じゃが。あと、お味噌汁と、きゅうりの和え物」
「まあ、助かるわ。ありがとう」
美和は嬉しそうに笑い、靴を脱いだ。
「洗濯物も干してくれた?」
「うん。二階に干してあるよ」
「本当に助かるわ。お母さん、今日はちょっと忙しかったから」
「……うん」
澪は小さく頷いた。
母が喜んでくれるのは嬉しい。
自分にも、家族のためにできることがある。
それがわかるだけで、少し気持ちが軽くなる。
美和がバッグを置いたとき、澪はその肩が少し下がっていることに気づいた。
疲れているのだろう。
仕事から帰ってきたばかりなのだから、当然だった。
「お母さん、先に着替えてきて。もう少しでできるから」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
美和が階段を上がっていくのを見送り、澪は再び鍋に向き直った。
せめて、これくらいは私がやらないと、母には負担ばかりかけてしまう。
澪は鍋の蓋を開け、じゃがいもの煮え具合を確かめる。
味見をすると、少しだけ塩っぽい気がしたので、ほんの少し砂糖を加えた。
◇
父の修司が帰宅したのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
リビングから声をかけると、父はいつものように穏やかな顔で笑った。
「いい匂いがするな。今日は何だ?」
「肉じゃがだよ」
「お、いいな。澪が作ったのか?」
「うん」
「楽しみだ」
父はそれだけ言って、着替えに向かった。
昔から、父はあまり多くを話す人ではなかった。
けれど、澪が料理を作ると必ず褒めてくれるし、家のことを手伝えばありがとうと言ってくれる。
最近は仕事が忙しいらしく、帰宅する時間も遅くなりがちではある。
それでも、家族で夕食を食べられる日は、なるべく三人で食卓を囲むようにしていた。
「うん、うまいな。この肉じゃが」
「ほんと? よかった」
「じゃがいもによく味が染みてる。母さんより上手かもしれないぞ」
「ちょっと、あなた。それは聞き捨てならないわね」
美和が笑いながら言い返す。
「いやいや、もちろん母さんのもおいしいけどな」
「そういう言い方をするから駄目なのよ」
二人のやり取りを聞いて、澪も小さく笑った。
父が仕事から帰ってきて、母が今日あったことを話して、三人で夕食を食べる。
テレビではニュースが流れ、明日の天気や週末の予定について何気ない会話が続く。
こんな時間が、澪は好きだった。
「そういえば澪、明日って何か予定ある?」
食事の途中、美和が何気なく尋ねた。
「……明日?」
「ええ。お母さん、明日は午前中だけなの。午後から時間があるから、何か一緒にできるかなと思って」
「……ううん。特にないよ」
「そう。じゃあ、久しぶりに一緒にお菓子でも作る?」
「うん。いいね」
「何がいいか考えておいてね」
「わかった」
澪は頷いた。
明日の予定。
自分には、もちろん何もなかった。
明後日も、その次の日も、来週も。
特別な用事は何一つない。
母は何気なく聞いただけなのだろう。
それでも、胸の奥に小さな痛みが残った。
明日、何をするのか。
そんな簡単な質問に、何も答えられない。
それが今の自分だった。
食事を終えると、澪は食器を片付け始める。
母が「今日は作ってもらったんだから、洗い物はお母さんがするわよ」と言ってくれたが、澪は首を振った。
「大丈夫。私、今日ほとんど何もしてないし」
「そんなことないでしょう。洗濯も夕飯もやってくれたじゃない」
「……でも、いいの。私がやる」
思っていたより強い声が出てしまい、澪は慌てて笑顔を作った。
「お母さん、疲れてるでしょ。ゆっくりしてて」
美和は何か言いかけたように口を開いたが、結局、そのまま小さく頷いた。
「……そう? じゃあ、お願いしようかしら」
「うん」
「ありがとう、澪。ごちそうさま」
美和はいつもと変わらない笑顔を向け、リビングへ戻っていった。
母がリビングへ戻ったあと、澪は一人で食器を洗っていく。
蛇口から流れる水の音を聞きながら、さっきの自分の言葉を思い返す。
『今日、ほとんど何もしていない。』
先ほど自分が口にした言葉を思い返しながら、洗い終えた皿を乾燥ラックに並べていく。
最後にシンクの水滴を拭き取ると、台所にはもう片付けるものが残っていなかった。
澪はしばらくその場に立っていたが、やがて食器棚の扉を開け、すでに揃っている皿の位置を少しだけ直した。
「……よし」
小さく呟いて扉を閉める。
けれど、何となく落ち着かなくて、今度はコンロの周りを拭き始めた。
片付いた台所を見渡すと、今日もちゃんと家のことができたのだと、少しだけ安心した。
けれど、四年前と比べて自分が何か変わったのかと考えると、途端に答えがわからなくなった。
料理が上手になって、家事も少しは手際よくできるようになった。
昔は肩にかかるくらいだった髪も、今では腰まで伸びている。
思いつくのは、それくらいだった。
◇
午後十一時。
両親が寝室へ入ったあと、澪は自分の部屋へ戻った。
ベッドに腰掛け、スマートフォンを手に取る。
友達からの連絡は、今日はなかった。
もっとも、今の澪には、連絡を取り合っている友達そのものがほとんどいない。
昔の友達の連絡先はいくつか残っている。
バンドメンバーたちとも、縁が切れたわけではなかった。
莉央からは今もちょくちょく連絡が入ってくる。
けれど、自分から連絡することはなくなっていた。
何を話せばいいのかわからない。
元気にしてる?
最近どう?
そんな何気ない言葉を送ることさえ、難しくなっていた。
相手には相手の生活がある。
学校を卒業し、新しい人たちと出会い、それぞれの道を歩いている。
きっと忙しいのだろう。
そんな人たちに、今さら自分が連絡してどうするのだろう。
迷惑をかけるだけではないだろうか。
澪は連絡先の一覧を閉じた。
代わりに動画投稿サイトを開く。
画面には、おすすめの動画がいくつも並んでいた。
料理、ゲーム、動物、旅行。
最近よく見ているのは、料理の動画だった。作り方を見ているだけでも楽しいし、実際に作ってみれば家族にも喜んでもらえる。
けれど、何本か動画を眺めているうちに、ふと別のことが気になった。
画面の上にある検索欄。
澪はそこを見つめた。
以前なら、何も考えずに好きな曲を検索していた。
新しいバンドを見つけたり、好きな歌手のライブ映像を見たり、気になった曲を何度も聴いたりしていた。
音楽が好きだった。
今も、嫌いになったわけではない。
けれど、以前のようには聴けなくなっていた。
楽しそうに歌っている人を見ると、胸が苦しくなることがある。
ライブ会場の歓声を聞くと、あの日の客席を思い出してしまうことがある。
誰かが笑顔でマイクを握っている姿を見て、羨ましいと思う自分が嫌だった。
澪は検索欄から指を離した。
結局、音楽とは関係のない動画を再生する。
猫が小さな箱に入ろうとして、何度も失敗する動画だった。
少しだけ笑った。
動画が終わると、次の動画が自動で始まっていく。
澪はそれをぼんやりと眺めていた。
時計は、午前零時を回っていた。
◇
午前二時半。
澪は、まだ眠れずにいた。
部屋の明かりを消し、布団に入ってから一時間以上が経っている。
何度も寝返りを打ち、目を閉じてみたけれど、眠気は一向に訪れなかった。
昼過ぎまで眠っていたのだから、当然なのかもしれない。
けれど、眠れない理由はそれだけではなかった。
静かになると、いろいろなことを考えてしまう。
これから先、どうやって生きていけばいいのだろう。
父と母は、いつまでも働けるわけではない。
今はこうして暮らしていられるけれど、十年後はどうなっているのだろう。
三十歳になったとき、自分は何をしているのだろう。
四十歳になったら。
そして、もし両親がいなくなってしまったら……
そこまで考えて、澪は布団の中で体を丸めた。
「……やだ」
父も母も、澪に働けと言ったことは一度もなかった。
高校を辞めたときも、東京を離れるときも、二人はいつだって澪のことを考えてくれた。
今日だって、母は昼食を用意してくれていたし、父は澪が作った夕食をおいしいと言って食べてくれた。
けれど、そんな日々がいつまでも続くわけではない。
父はもう五十歳で、母だって四十七歳になった。
今は元気に働いている二人も、十年、二十年と経てば、同じようにはいかなくなるだろう。
その頃、自分は何をしているのだろう。
今のまま、ずっとこの部屋にいるのだろうか。
⋯⋯そこまで考えると急に息が苦しくなり、澪は布団の中で膝を抱え、ぎゅっと体を丸めた。
これまで、何度も変わろうとはしてきた。
参考書を通販で買ったこともある。
求人情報を調べたこともある。
家の近くまで散歩に出ようとして、玄関で靴を履いたこともあった。
けれど、どれも途中で止まってしまった。
十八歳になったときは、来年こそ何か始めようと思った。
十九歳になったときも、二十歳になったときも、同じことを考えた。
そして今年、二十一歳になった。
自分では何も変えられないうちに、時間だけが過ぎていく。
いつかは何とかしなければいけない。
その「いつか」が、もう何年も先延ばしになっている。
澪は布団から片手を伸ばし、枕元のスマートフォンを手に取ると検索欄に文字を入力した。
『21歳 中卒 職歴なし』
画面をタップすると、検索結果が次々に表示されていく。
働き始める方法。
資格の取り方。
就職活動の進め方。
いくつもの記事が表示された。
まだ若いから大丈夫。
何歳からでもやり直せる。
まずは小さな一歩を踏み出そう。
そんな言葉が目に入っていく。
澪は、画面を見つめた。
きっと、書いてあることは間違っていないのだと思う。
二十一歳なら、まだ若い。
今から勉強してもいいし、仕事を探してもいい。
できることは、きっとたくさんある。
頭では理解できた。
でも、その最初の一歩を、どうしても踏み出せなかった。
「……できないよ」
かすれた声を漏らすとともに澪は検索結果を閉じ、スマートフォンを枕元へ戻した。
もう一度、布団を頭までかぶる。
暗闇の中で、目を閉じた。
明日は、何をしよう。
お母さんとお菓子を作る約束をした。
それは楽しみだった。
どんなお菓子にしようか。
クッキーなら家に材料があるし、パウンドケーキもいいかもしれない。
そんなことを考えている間は少しだけ気持ちが落ち着いた。
でも、お菓子を作ったその先にはまた何もない一日が待っている。
明後日も、その次の日も。
何かをしなければと思いながら、何もできないまま時間が過ぎていく。
そのことが、どうしようもなく怖かった。
「……お父さん、お母さん……」
小さく呼んでみた。
その声は閉じた扉の向こうまで届くこともなく、静かな部屋の中に溶け消えていく。
澪は唇を噛み、枕に顔を埋めた。
いつまで甘えていていいのだろう。
いつまで、二人に頼って生きていくつもりなのだろう。
もし自分が親だったら、こんな娘をどう思うだろう。
そこまで考えて、澪はぎゅっと目を閉じる。
嫌われているわけではない。
迷惑だと言われたわけでもない。
それでも、自分が負担になっているという考えが消えなかった。
涙が滲んでくる。
泣いたところで、何も変わらない。
明日になれば、また同じ一日が始まる。
それでも、涙を止めることはできなかった。
しばらくして、澪は顔を上げた。
時計を見ると、もう午前四時を過ぎていた。
窓の外はまだ暗く、遠くから車の走る音が聞こえてくる。
澪は再び布団に潜り込み、目を閉じた。
明日はもう少し早く寝て、朝に起きよう。
朝ごはんを食べて、母と一緒にお菓子を作ろう。
それから、できれば少し勉強もしよう。
そんな小さな予定を頭の中で並べてみる。
けれど、それを本当に実行できるかどうかは、わからなかった。
そして、何もできなかった自分を責めながら、また次の日を迎える。
その繰り返しだった。
やがて、窓の外が少しずつ明るくなり始めた。
父が起きてくる時間が近づいているのだろう。
階下からかすかに物音が聞こえ、しばらくすると台所で水を使う音がした。
今日も、家族の一日が始まろうとしている。
澪は目を閉じたまま、静かに息を吐いた。
父も母も、これから仕事へ出かけるのだろう。
そして夕方になれば帰ってきて、また三人で夕食を食べる。
明日も、明後日も、きっと同じように一日が過ぎていく。
自分だけが、いつまでも昨日の続きを生きているような気がした。
そのことが、どうしようもなく怖かった。
やがて眠気が訪れた頃には、窓の外はもうすっかり朝になっていた。




