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第2話 父の悔恨と、祖母の矜持

 学園の入学式を終えたその足で、私は馬車をヨーク公爵邸へと走らせた。


 出迎えた執事の案内で向かったのは、父の執務室だ。重厚なマホガニーの扉を叩くと、中から「入れ」と短く、しかしよく通る声が響いた。



「入学式はどうだった、アナスタシア」


 机に向かい、山積みの書類に万年筆を走らせていたヨーク公爵家当主である父フランソワが顔を上げた。


 三十五歳という、貴族の当主としては働き盛りの若さでありながら、その佇まいには一切の浮ついた厳かさがない。端正に整えられた髪に、冷徹なまでに理知的な光を宿した瞳。かつて「真実の愛」などという不確かなものに狂い、国中を巻き込む大騒動を起こした男には、到底見えなかった。



「滞りなく終わりましたわ、お父様。マクシミリアン殿下からも過分なお言葉をいただきました」


「そうか。マクス殿下はお前を婚約者として深く信頼しておいでだ。お前なら、良き王妃になれる」


 淡々と実務的な会話を交わす。これが、現在の私と父の距離感だった。



 私はドレスの裾をそっと握り締め、胸の奥に潜ませていた刃を、不意に突きつけるように問いかけた。


「お父様。……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「なんだ?」


「……お父様は、今でもお母様を愛していらっしゃいますか?」



 一瞬、部屋の空気が凍りついた。



 万年筆を動かす父の手が、ピタリと止まる。父はゆっくりと顔を上げ、深い青の瞳で私を見つめた。その瞳の奥に、一瞬だけ、ひどく苦々しい光が走るのを私は見逃さなかった。


 父は万年筆を置き、椅子の背もたれに体を預けて、深く、深く息を吐き出した。



「……アナスタシア。お前も十五歳だ。学園に入り、いずれは王家に嫁ぐ。ならば、知っておくべきかもしれんな」


 父は自嘲気味に唇の端を上げた。その笑みは、酷く寂しげだった。



「あの時の私は、間違いなくコレットを愛していた。彼女のためなら、地位も名誉も、この命さえ捨てられると信じていた。……だがな、あれは『愛』などという美しいものではなかった。ただの《《熱病》》だ」


「《《熱病》》、ですか」



「そうだ。当時の私は、公爵家の次期当主として完璧であることを求められ、息が詰まりそうだった。そこに現れたコレットは、身分など気にせず、私を一人の男として見てくれた。私は彼女の純粋さに救われたと思い込み、狂ったのだ。周囲の反対があればあるほど、その障害すら恋のスパイスになった」


 父の言葉は、まるで己の過去の罪を告白する刑徒のように淡々としていた。



「だが、周囲を排斥し、民衆に祭り上げられ、いざ彼女を妻に迎えた時……熱は急速に冷めていった。なぜなら、結婚とは生活であり、政治だからだ。コレットには、公爵夫人としての教養も、夜会を泳ぎ切る強さもなかった。彼女は悪くない。私が、彼女の身の丈に合わない席へ無理やり引きずり上げたのだ」


 父は組んだ指をきつく見つめた。



「結果、彼女は王都の社交界という魔窟で傷つき、心を病んだ。私は彼女を守るために領地へ送ったが……それは同時に、彼女を私の人生から隔離することでもあった。今の私にあるのは、彼女への愛ではない。彼女の人生を狂わせてしまったという、消えない『《《罪悪感》》』と『《《情》》』だけだ」


 大衆が喝采を送った「真実の愛」の正体は、一時の精神的な逃避が生んだ、取り返しのつかない過ち。それが、当事者である父の答えだった。




 重い足取りで執務室を後にした私は、その足で離れにあるお祖母様の部屋へと向かった。


 迎えてくれたのは、私の祖母であるマルガレーテ前公爵夫人だ。隣国アルマディス王国から輿入れした末の王女であり、御年六十近い今も、その佇まいには圧倒されるほどの美しさと気高さがあった。



「入学おめでとう、アナスタシア。無事に式を終えたようで安心しましたよ」


 祖母は穏やかに微笑み、傍らの侍女に目配せをした。差し出されたのは、ベルベットが敷かれた美しい木箱。中には、私の瞳と同じ色をした、深い青のサファイアが埋め込まれた見事な髪飾りが収められていた。



「アルマディス王家に伝わる、魔除けの意匠です。これからの学園生活、貴方を守ってくれるでしょう」


「……ありがとうございます、お祖母様。大切にいたしますわ」


 心の底から感謝を述べて髪飾りを受け取る。けれど、私の表情に陰りがあるのを見逃すような祖母ではなかった。お気に入りのハーブティーを口にしながら、すべてを見透かしたような目を私に向ける。


「……フランソワと話してきたようですね、アナスタシア」


 やはり、お見通しだったのだ。私は祖母の前に座り、先ほど父の口から語られた、あの十五年前の熱病の真実を打ち明けた。



「お父様は、『真実の愛』は熱病だったとおっしゃいました。……お祖母様。お祖母様は、お祖父様と愛し合って結婚されたのですか?」


 祖母はフッと、上品に微笑んだ。


「いいえ。私は隣国の末の王女として、ヨーク公爵家との同盟のために嫁いできたの。結婚式の日に、初めて絵姿ではない、実物の夫の顔を見たわ。そこに『愛』などという甘やかなものは、これっぽっちもなくてよ」


 きっぱりと言い切る祖母の言葉に、私は息を呑む。



「では、お祖母様は不幸だったのですか?」


「まさか。私はお祖父様を尊敬していましたし、彼も私を生涯大切にしてくれました。私たちは素晴らしいパートナーでしたよ。アナスタシア、貴族における婚姻とは『契約』であり『責任』です。家と家を結び、領民を守り、次世代へ血を繋ぐ。その重責を共に背負う戦友になること――それこそが、高貴なる者の婚姻の形です」


 祖母はカップをソーサーに戻し、私の目を真っ直ぐに見据えた。



「貴方の父、フランソワが犯した最大の過ちは、コレットを愛したことではありません。貴族としての『責任』を放り出し、私的な感情を公的な婚姻に持ち込んだことです。その結果、オンタリオ侯爵家との繋がりを失い、ヨーク家は外交的な苦境に立たされた。民衆の熱狂など、一時の風です。風が止んだ後に残ったのは、義務を果たせない公爵夫人と、冷え切った家庭だけ。……歪んだ婚姻は、必ず誰かを不幸にします」


 祖母の言葉は、冷徹なまでに正論だった。

 貴族の婚姻に、個人の感情など不要。必要なのは、責任と義務を果たす覚悟だけ。



「貴方は王太子殿下の婚約者です。フランソワの娘として、周囲からは色眼鏡で見られるでしょう。だからこそ、貴方は『熱病』に身を焦がしてはなりません。義務を全うしなさい。それが、貴族の矜持です」


「……はい、お祖母様」


 私は深く頭を下げた。



 父の悔恨。祖母の矜持。

 二人の言葉は、どちらも一理あった。けれど、私の胸のモヤモヤは晴れない。


 もし、祖母の言う通り「責任と義務」だけが婚姻の正解なのだとしたら。

 マクシミリアン殿下が私に向ける、あの不器用で、どこか熱を帯びた視線は、一体どこに分類されるのだろう。彼は私に、義務以上の何を求めているのだろうか。



 「愛」とは、身を滅ぼす熱病なのか。それとも、不要なノイズなのか。


 私は、私自身の婚約者の心を、まだ何も知らない。




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