20 あの時の話
「今晩、私の寝室に来ていただけますか」
庭園でお散歩をしていた時に、不意に顔を近付けたヴェール様が小声で耳打ちした。
その言葉の意味を一瞬で理解すると、私の心臓はドキンと跳ねて、体温がぐんとあがった。
「……はい」
結婚してから、まだ数えられる程度ではあるけれど体は重ねている。だけどまだこうして誘われると緊張してしまう。
勿論嬉しいし、ヴェール様に愛してもらえる行為も好き。だけど、恥ずかしいという気持ちはまだ抜けきれない。そしてヴェール様が、私のいつまでも慣れないでいる私の反応を楽しんでいるのが分かるので余計に恥ずかしい。
「セバスチャンには話を通しておきますので、いつも通りに」
ああどうしよう、その綺麗な顔と低い声で囁かれたら、それだけで体が反応してしまう。もっと直前になってから言ってほしい。
重ね合った手を、ヴェール様が指先で弄んで官能的な動きをする。まるで手を愛撫されているみたい。
「ヴェール様……外では……」
指がびくりと震える。こんなことをされたら、体がその先を望んでしまう。でもここは外だしまだ夜には遠い。
「大丈夫、誰も来ませんよ」
ヴェール様の手が頬をさらりと撫でて唇の端に触れる。ゆっくりと顔が近付いてきて、反射的に目を瞑ると口に柔らかいものが触れた。
幸せってこういうことを言うのかな。
「ヴェール様……」
角度を変えながら何度もキスを繰り返してお互いの体に触れる。気持ちのよさに頭の奥が痺れて何も考えられなくなる。
夜なんて言わずに今すぐベッドの中に入ってしまいたい。体中がゾクゾクと疼いて熱を持つ中で、ヴェール様の唇が離れて行った。
頬が上気して目元が潤む。きっと発情した顔をしているんだろうな。
「リアナ、続きはまた夜に……」
「えっ」
ここまで気持ちを盛り上げておいて嘘でしょ? と思ったけれど本当だった。
誰も来ないなんて言っておきながら物凄いタイミングでセバスチャンがヴェール様を呼びに来て、連れ立って仕事に戻られてしまった。
私は一人庭園に残されて、呆然としながらベンチでひたすら熱が収まるのを待ち続けた。
「旦那様、奥様をお連れしました」
寝室のドアをノックして、セバスチャンが声を掛ける。直ぐに返事があって、私だけが中へ入ると背後でドアが閉まる。
お風呂で念入りに体を洗い、綺麗な夜着に着替えて、髪は邪魔にならないよう緩く結ってもらってある。
オリビアにもセバスチャンにも、これから私たちがすることは伝わっている。その上で様々な準備をしてもらっている。
元の世界では考えられないことだけに、恥ずかしさを越えて死にたくなりもするけれど、なんとか耐えていられるのはやっぱりヴェール様が私のことを大切に愛してくださっていて、私もヴェール様のことを愛しているからだと思う。
ここに愛がなかったら、多分無理。いえ愛があっても大分無理だけど、恥ずかしがる方が余計に恥ずかしくなることは経験上理解しているので、こんなことは当たり前という顔をする。
「お待たせしました、ヴェール様」
「リアナ、どうぞこちらへ」
ベッドの縁に座るヴェール様に手招きされて、目の前まで歩いていくと手を引かれて隣に座らされた。
「大事な話があります」
「……はい」
私の肩に手を回して体を密着させるほど近付けて、更に声を潜めて言う、その真剣な表情にハッ息を呑んで意識を入れ替える。
伽のために呼ばれた訳ではないのだと一瞬で気付くような声音にドキリとするが、体の方はまだ少し残念がっている。
「セバスにも聞かれたくありません。ドアに背を向けて、声はなるべく抑えてください。頷くだけで構いません」
小声で囁かれて頷いた。
この時間は、使用人の誰も私たちの邪魔はしない。完全な二人きりの空間。
きっと庭園で私をその気にさせたのも、事前に話して下さらなかったのも、不審な目を向けられないようにするため。
余程大事な話が始まるのだろうと思うと、体に力が入る。少しでも落ち着こうと、細く長い息を吐いた。
「話の前に、誤解を生みたくないので言います。私はリアナのことを信頼しています。愛しています。この世界中の誰よりも。だから、これから私が何を言っても、疑われているとか嫌われているとは思わないで下さい」
「善処します」
心臓がドクドクと脈打つ。何を疑われていると思うようなことを言われるのか、見当もつかなくて怖い。
でも、ヴェール様が私の肩を抱いてくれている。それだけで少し安心できる。
「まずは謝罪が遅くなってしまいましたが、前回の浄化中の私の暴言、申し訳ありませんでした。あの言葉がどれだけリアナを傷付けてしまったか、理解しているつもりです」
ヴェール様の腕に力が入るので、私もびくりと体が強張る。
「あれだけ酷いことを言ったのにあなたは変わらず優しくて、ずっと謝るタイミングを失っていました。本当にすみません」
首を横に振って、ヴェール様の腿に触れた。
「あの件は、もう謝って下さったじゃないですか。覚えていませんか?」
「……覚えています。でもあれは」
「十分ですよ」
獣の姿のまま苦しみながら、痛みに耐えながらも、しっかりと私を見て謝ってくれた。だからあの件は、もう済んだことだと思うことにしていたのに。
「ヴェール様がお辛い思いをなさっているのは分かっています。気にしないでください」
私はもうあの件からは殆ど立ち直っていて、言うことは何もない。
それよりも、この話なら別に声を潜めたり人目を憚らなくてもいいのでは? と思うくらいだ。不思議に思って隣に座るヴェール様を見上げると、私に視線を合わせて人差し指を唇に当てて、話は終わりではないと告げた。
「……あの後、リアナの身に起きた事、覚えていますね」
一つ頷く。そのことだって忘れるわけがない。
獣の姿のヴェール様と見つめ合った結果、私は強い目の痛みに襲われ、血の涙を流して意識を失い数日間昏倒してしまった。
けれど、その理由も原因も何も分かってはいない。目から血が出ていると言われた時はゾッとしたけれど、視力が無くなったり落ちたりすることもなく、医者に診てもらっても怪我や病気は見つからなかった。
それでも心配する使用人たちには瘴気に当てられたせいかもしれないと説明したけれど、私自身納得はしていなかった。
「リアナは、私と目を合わせていた時に何と言っていたか思い出せますか」
首を縦に振る。忘れるはずがないので口を開いて小さな声を出す。
「……ヴェール様の苦しみを、少しでも変わってあげられたらいいのに、と」
ヴェール様も頷いて、少し視線を逸らしてからもう一度私の目を見て口を開く。
「実はあの時、リアナが倒れたのとほぼ同時に、私は体が非常に楽になったんです」
「……! ということは、私は本当に……!」
「シッ……声を潜めて」
すみません、と消え入るような声で謝ると、頭を撫でられた。
私は本当に、ヴェール様の苦しみを肩代わりできたということなのだろうか。鼓動が早くなってどっと汗が出る。嬉しいかどうかは分からないけど、興奮はしている。
「でも、どうしてそんなことが出来たのか分かりません」
「魔法は?」
「いいえ、私にそんな力は……」
エドワーズ家で、魔法の力が発現したのはオリヴィエお姉さま一人だけ。リアナに魔力はない……ではどうして、そんな不思議なことが起こったの?
「もしかしてヴェール様は、この目が何かしたと」
最後まで言葉に出来ずに聞くと、ヴェール様は難しい顔をしながら頷いた。
その瞬間全身から血の気が引いて、頭が真っ白になる。手が震えてヴェール様にしがみついて、違うと首を振る。私は何もしていない。出来たらいいと思っただけで、そんな未知の力があるなんて知らない。
視界が揺れる。気持ち悪い。呼吸が浅くなって、頭が痛い。
「リアナ、落ち着いてください、リアナ。大丈夫ですから」
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァ……」
「リアナの目には、不思議な力があるかもしれません。でも、私はそれを不吉な力とは思っていません」
「でも……、でもっ……ハァ、ハァッ……」
ずっと言われてきた。
呪われた目、魔物の目。それを、ただ赤いだけだと言い張ったのは私だ。だけど、ただ赤いだけじゃなかった。
この目には私自身も知らない力が存在している。その力も、使い方も分からないのが怖い。恐ろしい。
「ああ、こんなに手が冷えて……怖いですよね、自分の知らないうちに力を使ってしまうのは」
全身の血の気が引いて冷たくなった手を、ヴェール様が包み込んで温めてくれる。辛うじて泣き叫んで取り乱さずにいられるのは、ヴェール様が体を抱きとめて支えてくれているからだ。
この人は私が普通ではないことに気付いた後も、そのことを悟らせずにずっと優しく接してくれていたのだと思うと涙が出る。
「ごめんなさいヴェール様……」
「謝る必要はありません。寧ろ私が不甲斐ないせいで、あなたに浄化作業の一部を背負わせてしまい、辛い思いをさせました。すみません」
そう言って、ヴェール様は頬にキスをして、私が顔を向けたのを逃さず唇にも同じことをした。
優しさが胸に刺さって痛い。あれだけ結婚までの間に何度も私を試していた人が、今はこんなに信用しきっている。
私は本当のリアナでもこの世界の住人でもないのに、そんなに心を許さないでほしい。あなたにこれ以上傷付いてほしくない。でもそんなこと言えなくて、私は泣きながら何度もヴェール様とキスを交わした。
それから少し落ち着いた後、お互いに意見や考えを交換して、起きたことの原因を探ろうとした。
だけど今見つめ合ってみても何も起こらないし、私には何か力を使った意識さえないので、どうしたらいいのかも分からない。
一番心当たりがあるのが、他者の苦痛を肩代わりする能力だと思うのだけど、これは流石に早々試す機会がない。
もしくは何かしらの強い感情を抱いて誰かと目を合わせた時に、その時の感情に合った何かが起こる能力。と言っても、何の感情もなく誰かと目を合わせるなんてことも早々ないわけで、多分こっちではないと思う。
もし思った通りの力なら、ヴェール様の負担を減らすためにも使いこなせるようになりたい。
「……次の浄化の時に、また試してみてもいいですか?」
「リアナそれは」
「同じことが出来るかは分かりません。ですが使い方も力も、知るためには実践してみないと……」
「使用人に見られたらどうするんですか」
ぴしゃりとしたその言い方にムッとして、でも何も言い返せなくて唇を噛む。
確かに私が思い描く最も都合のいい力ならいいけれど、本当にそうとは限らない。危険なものでないとは言い切れないし、浄化中の痛みの肩代わりだけではなかったとしたら。
なによりこの目だ。ヴェール様だから受け入れてもらえているけれど、使用人全員がヴェール様と同じ気持ちな訳ではない。
色んなことがもどかしい。前にも後ろにも進めなくてその場でもがいているみたい。
「このことは、まだ暫くは二人だけの秘密にしましょう」
頷くことしかできなかった。
結局情報の共有と意見交換以外には進展はなく、秘密にしておくという結論を出した頃にはお互いベッドの中で横になっていた。
「リアナ、焦らずにいきましょう」
ヴェール様は優しく微笑んで私の髪を撫でた。
「愛しています、ヴェール様」
「私も愛していますよ」
話がひと段落したら急に眠気がやってきてあくびが出る。泣きはらして瞼は腫れているし、夜も更けていい時間になっている。
このままヴェール様の胸の中で眠りたくて、顔を擦り寄せると、抱き寄せられて目を閉じた。