それは、過去の夢でした
真っ暗な世界。これは夢か、現実か……
「誰かいませんか?」
思い切って出した声が闇にとける。その先にぼんやりと白い影が。
「お母様!」
白銀の髪をなびかせて前を歩く。
「待ってください!」
私は慌てて追いかけたけど、追いつけない。
「お母様!」
どれだけ叫んでも距離は開いていくばかり。そのうち足がもつれて転けてしまった。慌てて顔をあげたけど白い影はない。
「……お母様」
悲しみに沈む私の前に一輪の花が現われた。よく見れば茶色の仔猫が咥えている。
「猫さん!」
仔猫をギュッと抱きしめる。あの時と同じ、太陽をいっぱい浴びた温かさに、草の匂い。
――――――――そう、あれは六歳の時。
早朝。街中の鐘が一斉に鳴り響き、その音はいつも静寂に包まれている神殿の内部にまで届いた。
突然のことに驚いた私は、朝の歌を終えた母に駆け寄り抱きついた。そんな私を母が優しく受け止める。
そこに王冠を被り赤いマントを羽織ったマクシム陛下がやってきて、皇帝の死を知らせた。
「そん、な……」
いつも気丈な母が崩れる。両手で顔をおおった横顔を白銀の髪が隠したが、こぼれる涙は隠せず。
その姿を私は無言で眺めていた。
皇帝は私の父と聞いていたけど、一度も会ったことがない。そのせいか、寂しいや悲しいという感覚はなかった。
ただ、母が泣く姿に胸が傷んだ。
そこにマクシム陛下の右手が空を切る。鋭い音とともに母が倒れた。
「今日からは私が皇帝だ! それを認めろ! でなければ!」
ヒュン! と私の目前で鞭がしなる。
なにが起きているのか分からず呆然としていると、母が青い顔でマクシム陛下に叫んだ。
「認めます! 認めますから、セシリアには手を出さないで!」
「まったく。神殿の許可がなければ皇帝になれない、という面倒な仕来りがなければ、こんな場所はさっさと潰していたのに」
「この神殿は国を守るための要です。潰したら国に災いが……」
「うるさい! 色なしが!」
再びマクシム陛下の鞭が空を切った。母が私に覆い被さり、全身で盾になる。
「クッ」
痛みを堪えた母の声。しかし、鞭は止まらない。私は必死に声を殺して母の腕の中で身を小さくした。
ひとしきり鞭を打ったマクシム陛下が唾を吐く。
「二度と私に意見するな!」
靴底を大きく鳴らして神殿から立ち去る。
「お母様!? お母様!?」
「……セシリア? 怪我は、ありませんか?」
「わ、私は大丈夫です」
「よく、声を出さずに我慢できました」
優しく私を撫でるその手が赤く腫れていく。
「く、薬を! 薬草を!」
「そうですね。傷薬を塗って、熱をとる薬を飲んでおきましょう。あと、体を冷やすために泉の水を汲んできてくれますか?」
「はい」
私は桶に泉の水を汲んで、母の背中に傷薬を塗った。
「ありがとう。あとは自分でできますから」
これ以上できることがない私は自室に戻った。ドアが閉まると同時に涙がボロボロとあふれる。
無力な自分が悔しくて、情けなくて。ただ、ただ、声を殺して泣いた。
どれぐらいの時間が経っただろうか。聞いたことがない声が耳をかすめた。
はじめは空耳かと思ったけど。顔をあげて周囲を確認すると、外からで。
窓を開けると、窓の下に仔猫が。一匹が足に酷いケガをしていて、もう一匹が心配そうに寄り添っている。
私は窓から身を乗り出して手を伸ばした。でも仔猫たちはフーと威嚇して後ずさる。
「ま、待って。ケガの手当をするだけですから」
私の言葉が通じたのか仔猫が相談するように顔を見合わせる。
「傷に効く薬草があります。夜は冷えますし、中のほうが安全です」
必死に訴えるとケガをしている仔猫がヨロヨロと立ち上がり私の方へ歩いてきた。すると、もう一匹も。
私はまずケガをしている仔猫を抱き上げた。ふわっとした毛が指をくすぐる。思ったより大きくてずっしりと重い。でも、それ以上に温かくて、生きているんだって感じて。
不思議な感覚に浸っていると、もう一匹が自力で窓枠に飛び乗り部屋に入ってきた。
私は窓を閉めて、急いで薬草を準備する。薬草は貴重だけど、仔猫も傷が痛いのは同じ。出し惜しみなんてしていられない。
「ちょっとだけ、我慢してください」
泉の水で傷を洗って薬草を塗る。それから布を巻いて手当ては終わり。
「ちょっと待ってくださいね。寝床を作りますから」
この頃はまだタオルや布の余裕があった。大きいカゴに布とタオルを敷いて仔猫たちの前に置く。
「よければ今日はここで寝てください。あ、お水はここに置いておきますね」
私は水を入れた器をカゴの隣に置いた。仔猫たちは器と水のにおいを嗅ぐと、ちびちびと飲んだ。小さい舌で水を飲む姿が可愛らしくて。
私はその様子をずっと眺めていた。
喉が潤って満足したのか、二匹はカゴで寝てくれて。その寝顔も可愛くて、私はつい夜ふかしをしてしまった。
それでも、いつものように朝日が昇る前に目が覚めて。
「おはようございます、猫さ……」
カゴの中に猫の姿はなかった。微かに開いた窓が寂しく音をたてる。
「動けるようになりましたか。よかったです」
母も薬草が効いたのか、痛みを訴えることなく、朝の歌を祭壇に捧げ、いつものように過ごしていた。
その日の午後、私はお母様の私室へ。
「セシリア、これを」
渡された箱を開けると、そこには……
「これは、お母様が大事にされているブローチでは?」
「あなたに譲ります。ここから離れることがありましたら、必ずコレを持っていきなさい。いいですね?」
この神殿から離れる日が来るなんて想像も出来ない。
そっとお母様の顔を覗き見れば、どこか寂しげで、苦しそうで。
私は、わかりました、としか返事ができなかった。
それから私はいつも通りに振る舞った。母にこれ以上、心配事を増やさないように。
でも、自室で夜を迎える時は、なぜか涙があふれて。
声を出さずに泣いていると、窓からカタリと音がした。そちらを見れば、一輪の花を咥えた仔猫が。
「猫さん。ケガは大丈夫ですか」
窓を開けて仔猫を招きいれると、私に花を押しつけた。
「私に? もしかして、ケガの手当をしたお礼でしょうか?」
返事の代わりか、私の手に頭を擦りつける。柔らかく、ふわふわな毛。そっと撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。それから、仔猫は一緒に寝てくれて。その温もりに、私はすごく落ち着いて眠れた。
それから仔猫は毎晩、一輪の花を持ってやって来るようになり。私はいつのまにか仔猫に会う夜が楽しみになっていた。
けど、そんな日は長く続かなくて。
ある日の夕方。窓際にたくさんの花が置いてあり、それから仔猫が来ることはなかった。
それから私は神殿にある動物の書物を読み漁り、いろんな動物がいることを知った。
こうして、書物を読む楽しさを覚えた私は、神殿にある様々な書物を読んだ。薬学の書物は薬草の調合をする時の参考になり、母が亡くなった時は気を紛らわすのに役立った。
そして今は、書物で読んだ世界を実際に体験している。それは、夢にも思わなかった日々で。
「お母様。私は今、しあわせです」
懐かしい太陽の温もりと草の匂いに包まれて、私は呟いた。




