それは、夢のような世界でした
馬車の座席はまるで雲に乗っているかのように、ふかふかで。いつまでも、このまま寝ていたいと本気で思うほど。
「……あと少し遅ければ、危なかっ……回復魔法で……」
「……した。ありがとうございます」
誰かの話し声が遠くで聞こえる。ゆっくりと浮上していく意識。馬車はもう動いていない。
「えっ!?」
目が覚めた私は慌てて体を起こした。ヨダレが糸をひいて私を追いかける。
「あ、ちょっ、ダメ」
ハンカチなんて持ってない私は慌てて服の端で拭き取った。窓からは沈みかけた太陽の光が差し込む。
そこに馬車のドアが開き、ウカーブが顔を出した。私の顔を見て、どこかホッとしたような表情になる。
「お疲れ様です。到着いたしました」
「は、はい」
私は胸に忍ばせているブローチがあることを確認すると、エスコートされながら馬車から降りた。
「……ここが獣人の国のお城」
茶色の砂地と乾燥した空気の世界。
周囲を高い城壁で囲まれ、見たことがない植物がポツポツと生える。緑に囲まれていた神殿とは、まるで違う。
視線の先には白い大理石で作られた城。太い円柱の柱が並び、上には半円形のドーム型の屋根が奥に続く。大きすぎて城の全容が見えない。
ポカーンと眺めている私にウカーブが声をかけた。
「こちらへ、どうぞ」
案内されるまま城内へ。ツルツルに磨かれた大理石の床に、高い天井。魔法なのか星のように点々と灯りが浮いている。
立派すぎる内装は私の目には眩しすぎるほど。
キョロキョロと目移りしながら進んでいると、前を歩いていたウカーブが振り返った。
「途中で休憩をせずに飛ばしましたから、予定より早く到着しました。ですので……」
「も、申し訳ございません!」
「……なぜ、謝るのですか?」
「夜ではないのに眠ってしまいまして」
昼は必ず起きていて、神殿に訪れる人を出迎えなければいけない。マクシム陛下たち以外に訪れる人はいなかったけど。
それでも、少しでも出迎えが遅れれば鞭で打たれる。寝ていた、なんてことがバレたら、どうなるか……
思わず身震いをした私にウカーブが軽く首を振る。
「慣れない馬車での移動に疲れたのでしょう。お気になさらないでください。湯浴みを準備しておりますので、そちらで疲れを落としてから食事にしましょう」
「……湯浴みとは、お湯に浸かることでしょうか?」
「そうです。そちらの国では別の言い方をするのですか?」
「いえ、そうではなくて……その、書物でしか読んだことがなく……」
私の言葉にウカーブの視線がキツくなる。
「では、普段はどうされていたのです?」
「ま、毎日、水で濡らした布で体を拭いていました! 神殿内部に水が湧き出る泉がありましたから! あの、もし臭ったのであれば、申し訳ございません……」
「そのようなことはありませんよ。アッザ」
ウカーブの呼びかけにメイドが早足でやってきた。
長い亜麻色の髪を一つにまとめ、クリッとした大きな黒い目をした可愛らしい女性。ただ、特徴的なのは頭から後ろ向きに生えた細長い角と、葉っぱのような形の耳……
「ガゼル?」
私の呟きにメイドが嬉しそうに笑った。
「はい。人族は私を見ると、鹿だの、牛だのと言いますのに。セシリア様は博識ですね」
「い、いえ。書物に書かれている絵を見たことがあるだけで博識だなんて、そんな……」
母以外から、こんな風に褒められたことはない。恥ずかしいような、くすぐったい気持ち。
「そのことを覚えているだけでも素晴らしいです。私のことは、アッザとお呼びください」
「……アッザさん?」
「いえ、アッザと呼び捨てで。これからセシリア様の身の回りのお世話をさせていただきます」
「私の身の回りの世話を?」
一応、自分のことは自分で出来るつもりだけど……あ、私は世間知らずだから、教えてくれるために?
納得した私は頭をさげた。
「はい。早く、この国のことを覚えて一人で出来るようになりますので、それまでお願いします」
アッザが小声でウカーブに囁く。
「どういうこと?」
「いろいろと認識の食い違いがあるようで。とにかく、湯浴みをして着替えをさせてください。詳しいことは食事の時に聞きましょう」
「そうですね」
小声のため内容は聞こえず。首をかしげているとアッザが私に手を差し出した。
「さあ、こちらへどうぞ。セシリア様のお部屋へご案内いたします」
「え? あの、ウカーブは?」
「ここから先には男子禁制ですので」
微笑むウカーブに見送られ、私は城の奥へと連れていかれた。
※
「離れになりますが、必要な設備は整っております」
城の角部屋。大きな窓からは夕焼けに染まった空と砂漠が一望できる。書物で見た絵がそのまま眼前に。しかも、自分の目で見られる日が来るなんて。
と、初めて見る景色に感動する間もなく、アッザが私を浴室という部屋に放り込んだ。
「えっ? へっ!? キャッ!」
恥ずかしいと訴えるも、はいはいと流され、服を脱がされる。その時、胸に忍ばせていたブローチが床に落ちた。
「失礼いたしました」
アッザが慌ててブローチを拾い、私に手渡す。
「ありがとうございます」
「そのブローチはお付けにならないのですか?」
「これは……その、母の形見でして。ただ見えるところに付けるのは、ちょっと……」
私は手の中でそっとブローチを握りしめた。
「大切なモノなのですね。でしたら、ネックレスにしましょうか? そのブローチには鎖を通す穴もありますから、ネックレスにもできますよ」
「そうなのですか? ぜひ、お願いします」
「あとで鎖を持ってきますね。では、一度ブローチを置いていただいて」
私はあっという間に全身を洗われ、たっぷりの湯が入った浴槽へ。
「ふわぁ……」
全身を包む温もりに思わず声が出る。お湯に浸かることが、こんなに気持ちが良いことなんて知らなかった。
力が抜けて溶けてしまいそう。
「長湯をしたら逆上せてしまいますよ」
お湯と同化しかけていると浴槽から引っ張り出され、ふわふわのタオルに包まれた。
「はわぁ」
タオルの肌触りにうっとりする。柔らかくて、あたたかくて、お日様の匂いがして、いつまでも触っていたい。
もこもこタオルを堪能していると、アッザに服を着せられた。
風通しが良い布を体に巻き、腰のところを紐で結ぶだけの簡単な作り。しかも、布には柄が織り込まれていて、高価な代物だと世間知らずの私でも分かる。
アッザに案内されるまま浴室から出ると、食欲を刺激する匂いが……
テーブルに並ぶ豪華な食事。パンとスープと肉の塊。どの料理からも湯気がのぼる。
「こ、この食事は?」
アッザが私を椅子に座らせながら、にこやかに答えた。
「セシリア様のお食事です」
「こ、これがっ!? 私のっ!?」
「はい」
ぐぅぅぅ……
私の代わりにお腹が返事をする。恥ずかしくなった私はお腹をおさえて俯いた。こんなはしたないことをしたら、料理をさげられてしまう。
お腹の音が聞こえていただろうアッザは何事もなかったように私の前にスープを置いた。
「お口に合えば良いのですが」
「ありがとうございます」
初めて食べる白いスープ。口に入れたらホロリと崩れる具と、溢れるばかりの旨味。美味し過ぎて、あっという間に完食。
その早さにアッザが驚く。
「お腹は大丈夫ですか? あまり急いで食べると痛くなりますよ?」
「申し訳ございません。すごく美味しくて、つい……」
「料理番たちが聞いたら喜びます。そういえば、ウカーブが移動を優先して昼食をお出ししなかったそうで、失礼しました。人族は一日三回、食事をされるのですよね?」
「えっと、それが普通……らしいです」
「獣人は種族によって一日の食事回数が違いますので、気をつけるようにいたします。次はこちらのサラダを……」
アッザが次の料理を私の前に置こうとした時、部屋のドアが開いた。
無造作に伸びた焦げ茶色の髪と、微かに見える丸い耳。濃緑に輝く瞳と涼やかな目元。筋が通った鼻に薄い唇。眉目秀麗な顔立ちだけど、鋭い雰囲気。
背が高く、しっかりとした体格。服の隙間からは鍛えられた褐色肌の筋肉がのぞく。不機嫌そうに揺れる長い尻尾の先には茶色の毛玉。
(もしかして、ライオン!?)
私の推測を確定するように、すべてを屈服させる威圧が周囲を包む。
「ライル様」
アッザが名前を呼んで頭をさげる。
一人の青年の登場に、それまで和やかだった空気が一瞬で凍った。